『現代思想講義──人間の終焉と近未来社会のゆくえ』 (ちくま新書) 船木 亨 著

  • 2018.06.25 Monday
  • 00:37

『現代思想講義──人間の終焉と近未来社会のゆくえ』 (ちくま新書)

  船木 亨 著

   ⭐

   権威主義的なドゥルーズ学者を調子に乗せる出版界の腐敗

 

 

日本の出版界には「現代思想=フランス構造主義の系譜」という硬直した発想が根強くあります。

そのため、ドイツ人でF・シェリングを専門とする思想家マルクス・ガブリエルが来日すると、

ドイツ思想の研究者でもない國分功一郎や千葉雅也というG・ドゥルーズ研究者を対談相手にしてしまったりします。

ドイツとフランスの区別もできない西洋思想後進国にはガブリエルも苦笑するしかないところですが、

このようなドゥルーズを持ち上げていれば安全というような、一元的な価値を日本の現代思想は30年以上も守ってきています。

 

本書の著者の船木もドゥルーズ学者ですが、あまりに短絡的で教条主義的な〈フランス現代思想〉の「受け売り」にウンザリしました。

何の思想を研究するにしても、対象を無条件で信奉してしまったら、それは思想とは言えないでしょう。

 

簡単に〈フランス現代思想〉の特徴を整理すれば、ポストモダン的な近代批判であり、

反人間主義に基づいた理性批判、主体批判になります。

本書を読みはじめると、船木は理性や主体を近代的な悪と決めつけて自説を展開するばかりで、

読む前からゴールのわかっている本でしかないという印象でした。

 

僕は完読主義でどんな本も最後まで読むのがマナーだと思っているのですが、

本書は130ページまで読んだところで断念しました。

思想好きの人でないとなかなか読んでいないであろう思想家の著作を、たいした説明もなく持ち出すわりに、

説明が親切ではないので、それだけで挫折する人もいると思います。

しかし、それらを読んでいて内容もある程度知っている僕が読んでも、

それほど思想的に感心することが書いてあるわけではありません。

わかりやすくズバリ言ってしまえば、本書は500ページ以上にわたって船木の自己満足が綴られているため、

読み手にまで届くものがほとんどない恐怖の本だと感じました。

そういえば、誰一人として生徒が耳を傾けていない授業を平気でしている大学教授っていますよね。

 

僕は前々から、〈フランス現代思想〉学者が、その特色である相対主義を偉そうに主張しながら、

自分の依存対象である〈フランス現代思想〉をまったく相対化できないことにガッカリさせられています。

本書を断念するキッカケとなった僕が最も許せなかった記述は、

ヒトラーを支持した「権威主義者」を批判したエーリッヒ・フロムが間違っているというところです。

船木はフロムが「権威主義者」である大衆を非理性的な存在として批判したと述べたあと、

理性は悪だと思い込んでいるためか、

「権威主義者が普通の人間であり、理性的主体の方が変人なのである」などと主張しているのです。

 

船木はそのあと、権威主義者が「一定の比率で出現するのが社会なのだと考えるべきではないだろうか」などと述べるのですが、

本当に「一定の比率」でしかなかったら社会全体の体制に影響するはずがありませんので、

説得力のない論理で権威主義者を擁護しているようにしか受け取れません。

このように単純に理性を否定する人物が、どうして理性的エリートがなる大学教授などというポストにいるのでしょうか。

まさか彼はドゥルーズ=ガタリ的な無意識の欲望によって論文を書いたとでも言うのでしょうか。

僕には船木自身がフロムの言う「権威主義的パーソナリティ」を体現した人物であるため、

「わたしこそが普通の人間なのだ」と主張したいがためにフロムを批判しているようにしか感じられませんでした。

 

今、ペラペラと先の方をめくってみたら、163ページにこんな文もありました。

 

昇華された暴力が理性なのである。生活条件の満たされたメジャーなひとびとにとって抑圧されるべきものがあり、これを抑圧する暴力が理性と呼ばれているものなのだ。

 

パラ見なので文脈はよくわかりませんが、やっぱり教条的に理性を悪だと考えているとしか思えません。

そして最後の方を開いて確認してみましたが、僕の予想通りの結論が展開されていました。

「近代の一時期は、理性主義的な少数エリートが強力だったという点で、ちょっと特別だった」

などと述べて、やっぱり船木は理性と近代をひっつけて「近代主義」などと批判するのです。

 

ちょっとでも歴史の知識があれば、中国の科挙制度などの官僚制度に基づく社会はいつの時代であろうと理性的エリートが主導した社会です。

まさか船木は律令国家も近代主義だとでも言うのでしょうか。

正直に言えば、僕は〈フランス現代思想〉を単純に権威化して、このような暴論を書く人間に怒りを感じています。

そもそも大学教授こそが理性的エリートであり、それが官僚的エリートになっていく人材を選別し教育しているのです。

自分のことは棚にあげ、何か批判をしているつもりで、無意味に長大な本を書く、

こんなことを許す筑摩書房という出版社はどうかしていると思います。

 

そして理性を批判した船木が最後にたどりついた結論は、「情動」が大事だということでした。

 

情動は、複数の身体のあいだで起こる感情のことです。性衝動などがいい例なのですが、それ以外にも、悪くいえば、まさに群衆心理的なもの、横並び的な集団主義的なものを惹き起こすさざ波のようなもののことです。

 

幼稚園児の一人が泣くとみんなに伝播して集団で泣き出すような情動が大事だという結論です。

この幼児性(性衝動というなら「萌え」のようなもの?)が現代思想の結論だとしたら、どれだけ虚しいことでしょう。

船木の言う「横並びの集団主義」が日本的な価値観であることは強調しておく必要があります。

日本流の〈俗流フランス現代思想〉が西洋思想の顔をしながら、実は日本人のナルシシズムを高めるだけでしかないことは、

僕が繰り返し指摘していることですが、船木の結論はまさにそれをなぞるものでしかありませんでした。

(だいたいドゥルーズは群集心理が大事だなんて言ってませんよね)

思った通り、ゴールの決まった本であったことがパラ見でも確認できるわけです。

 

盲目的に〈フランス現代思想〉の権威をありがたがれる人にだけ本書をオススメします。

そうでない方は本の上にレモンを置いて立ち去るのが良いでしょう。

 

 

 

『ヘーゲルと現代社会』 (晃洋書房) 寄川 条路 編著

  • 2018.05.15 Tuesday
  • 22:05

『ヘーゲルと現代社会』 (晃洋書房)

  寄川 条路 編著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   現代に生き続けるヘーゲル思想

 

 

日本では20年以上の間、出版業界やマスコミでは現代思想というと〈フランス現代思想〉一色で、

〈フランス現代思想〉ファシズムと言ってもいい状態を続けてきました。

そのため、マルクス・ガブリエルのようなドイツ思想家の紹介文や対談相手まで、

〈フランス現代思想〉研究者が指名される滑稽な国になってしまいました。

このような状況下で、

ドイツの現代思想研究者は日本に存在しているのか、と疑問に感じるのは僕だけではないと思います。

それで大きな書店で探してみたところ、本書と出会いました。

晃洋書房──やっぱり商売気の強い出版社ではないんですよね。

 

日本でほとんど過去の人扱いされているF・ヘーゲルの思想は、

海外ではヘーゲル・ルネサンスと言われるくらい取り扱われています。

(それを考えるだけでも、日本の〈フランス現代思想〉偏重が非学問的動機を背景にしていることがわかります)

その見取り図を示したのが、本書の姉妹編といえる『ヘーゲルと現代思想』ですが、

マルクス・ガブリエルについて書かれた論考が入っていたので、こちらを先に読ませてもらいました。

 

小井沼広嗣が執筆した第1章は、ヘーゲルを再評価したチャールズ・テイラーを取り上げます。

テイラーはヘーゲルを共同体主義者として評価しています。

近代になって登場した自由な個人は、

自分自身で自分の生き方を規定する「自己規定する主体」となりましたが、

そのかわり、自己を束縛するいかなる具体的な状況をも拒否するために、

現実に着地できない存在となってしまいました。

そこでテイラーは状況によって自由を規定する「状況づけられた主体」が重要だと考え、

ヘーゲルの「客観的精神」などを援用しつつ、それを探求したのです。

 

総括的にいえば、テイラーは、ヘーゲルが啓蒙主義に由来する「自己規定する主体」を批判し、代替として「状況づけられた主体」を探求した点において、ヘーゲルを評価する。しかし、そこで提示された自己、ならびにそれを可能とする文化的共同体が、最終的には宇宙的精神が自らを表現するさいの媒介物として解釈される点については、ヘーゲルに対し否を突きつける。

 

小井沼がこう述べるように、テイラーは言語などの文化的な共有財産によって成立したヘーゲルの「客観的精神」を評価するのですが、

ヘーゲルがその先に見た形而上学的な「宇宙的精神」については受け入れていません。

ここでは「状況づけられた主体」に基づいて多文化主義的なアイデンティティの相互承認の重要性に至る、

テイラーの共同体を重視した思想のあり方がまとめられています。

 

岡崎龍による第2章は、G・ルカーチの「物象化」論を再構成したアクセル・ホネットの思想と、

それに対する批判を紹介しています。

ホネットは「承認」を人間にとって本来的なものと捉え、物象化が承認を忘却すると批判しました。

岡崎はこのホネットの論に対するD・クヴァドフリークとJ・バトラーの批判を確認したあと、

再びルカーチの物象化の考察へと戻ります。

 

自分に属する契機がすべて商品化されたプロレタリアートは、客観的存在としての主体でしかないとルカーチは言います。

主体を否定して客体化したプロレタリアートは、その物象化した状態を逆説的に主体性としているのです。

岡崎はルカーチに関連するヘーゲルの『精神現象学』を読み直し、

客体としての「事そのもの」が、主体へと移行することを考察することで、

ルカーチの物象化論の構想を捉え直そうとしています。

 

鈴木亮三の第3章では、J・ハーバーマスの『自然主義と宗教の間』を取り上げて、

哲学の脱宗教化についてヘーゲルの祭祀=供犠の考察を参照しつつ考えていきます。

 

岡崎佑香の第4章は、J・バトラーが『アンティゴネーの主張』で展開したヘーゲル批判を扱っています。

岡崎はバトラーとヘーゲルそれぞれの解釈を比較して、ヘーゲルが女性の欲望と共同体をどう関連づけていたかを明らかにします。

 

飯泉佑介が書いた第5章はマルクス・ガブリエルの新実在論を扱っています。

ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』は体系的な思想書として完成しているとは言い難いため、

その後のガブリエルの学術論文を読んだであろう飯泉の論考が楽しみでしたが、

読んでみて、彼の主張には大いに不満が残りました。

 

飯泉は重層的な対象領域や意義領野(Field of Sence、「意味の場」)に基礎付けられたガブリエルの存在論を、

「階層理論的な無世界論」と捉えて、ヘーゲルの思想と照らし合わせていくのですが、

僕がガブリエルのレビューで書いたように、彼の「意味」(意義)の再評価に着目せずに世界の不在だけを語る理解は、

ガブリエルの思想を去勢するような読み方でしかありません。

 

伝統的に形而上学が「実在の全体」(omnitude realitatis)を対象としてきたことを踏まえるならば、無世界論的な新実在論はまさしく「メタ形而上学的ニヒリズム」と呼ばれるにふさわしい。「世界は存在しない」という主張は、形而上学の対象そのものが存在しないことを意味するからである。しかし、そこから新実在論の意義が何よりも反形而上学的な考え方にあると推測するのは誤りである。なぜなら、この考え方だけを取り出すならば、それは、ハイデガーやルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの形而上学批判にも見て取れるからである。

 

このように飯泉はガブリエルの新実在論が「反形而上学」であるという理解を「誤り」とまで強調するのですが、

その根拠がハイデガーやヴィトゲンシュタインの形而上学批判が結果的に形而上学だったから、という意味不明なものなのです。

ハイデガーが存在の全体を「無」と捉えたことと、ガブリエルの世界の不在という主張を結びつけ、

世界の不在=無世界と解釈してしまうわけですが、これは飯泉の手前勝手で短絡的な解釈でしかありません。

それは世界の全体を語ることを禁じるガブリエルの主張に逆らう行為でしかありませんし、

普通に考えても、「世界は存在しない」という言明と「世界の全体は無である」という言明が、

同じ意味を表していると解釈することは論理的に誤っていると言えます。

もし、ガブリエルが世界の全体を無世界と考えているとするなら、ガブリエルの文章を引用してそれを立証するべきでしょう。

「ハイデガーもそうだったから」では理由になりません。

 

ドイツ観念論の研究者であるガブリエルに形而上学的な志向がないとは僕も思いませんが、

それを「世界」という全体性の観念で捉える形而上学に関しては、ガブリエルは明確に反対していると思います。

その意味では反形而上学的な解釈を「誤り」とまで断言することが妥当だとは思えません。

このように飯泉はガブリエルの主張に反して世界の全体を語る形而上学視点を守り続けるため、

最終的に矛盾を自ら露呈するような文章を書いてしまいます。

 

ところでガブリエルの領域存在論も、無限の諸領域の動的な階層構成によって「世界」を考察する方法論だった。それゆえ、ガブリエルはヘーゲル哲学の方法論的特徴を摂取し「再構成」して、自分の領域存在論を練り上げたと推測できるのである。

 

飯泉の中では「世界は存在しない」ことを主張したガブリエルの論が、

「階層構成によって「世界」を考察する」領域存在論になってしまっています。

世界を考察する方法だったら、世界は存在しているじゃん!

もうガブリエルの主張が台無しです。

あげくヘーゲルの「再構成」とまで言うのですが、F・シェリング研究者であるガブリエルにシェリング思想の影響はないのでしょうか。

(まあ、「推測できる」らしいので勝手に書いても良いのでしょうが)

 

僕はガブリエルの思想には、人間主体を基盤とした意味の再評価によって、非人間的領域のメタ化を禁じる狙いがあると思います。

自然科学の一元的専横などの、人間不在のメタ化を戒めたいという思いは、

ガブリエルが意味を重視していることでも明らかではないでしょうか。

もし、飯泉の解釈が正しいのなら、なぜ彼の解釈からはガブリエルが意味を重視したことが抜け落ちてしまうのでしょう。

自分にとって都合の悪いところは無視し、都合のいいところを「再構成」してわかった気分になる、

日本の西洋思想研究にありがちな態度だと感じました。

(ガブリエルが2015年以降に『意義領野』とか『意義と存在』という題名の論を出していることはどうなるのでしょう)

〈フランス現代思想〉は日本では本国の思想とかけ離れたインチキ思想になりましたが、

こういう論を平気で書くようだと、ドイツ思想の研究者も同じ穴のムジナだということになってしまいます。

 

帯には「社会問題に切り込む実践の書」とありますし、「まえがき」にも「ヘーゲル哲学の実践編となる」とありますが、

本書には具体的な社会問題が言及されているわけでもなく、実践的な要素は皆無でした。

本書はどう見ても思想を紹介したり考察したりする普通の思想書です。

題名や本全体の方向性のアピールについては、もっとふさわしい書き方があるように思います。

 

 

 

評価:
寄川 条路
晃洋書房
¥ 2,052
(2018-03-30)

『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』 (講談社選書メチエ) 佐藤 嘉幸・廣瀬 純 著

  • 2018.04.15 Sunday
  • 11:42

『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』 (講談社選書メチエ)

  佐藤 嘉幸・廣瀬 純 著

   ⭐

   ドゥルーズ=ガタリの左旋回は不都合な過去の隠蔽でしかない

 

 

G・ドゥルーズとF・ガタリの著作『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』が日本で哲学的インパクトを持って迎えられたのは、

バブル期からネットが一般化するまでの期間でした。

20年以上前、現代思想といえばドゥルーズ=ガタリ、J・デリダ、M・フーコーのことでした。

ドゥルーズ=ガタリ自身はF・ヘーゲルやJ・ラカンの思想を批判した「アンチ」だったのですが、

当時の日本では彼らの支持者が圧倒的なマジョリティだったことは確認されなければなりません。

僕にとって学生時代からドゥルーズはメジャー中のメジャーでしたし、ヘーゲルなど超弩級のマイナーな存在でした。

 

西洋哲学の伝統がない日本では、ドゥルーズ=ガタリは批判哲学としての意味を持っていませんでした。

ドゥルーズ=ガタリが評価されたのは、それが西洋の新時代を示しているように見えたからです。

そうなれば「新しい」ものに弱い日本人が殺到するのは必然です。

実際、彼らの思想には商業的な「新しさ」がありました。

存在の一義性はグローバリズムの浸透によるマーケット一元主義と歩調を合わせたものでしたし、

「スキゾ」という言葉は、消費資本主義と呼応して因習を打ち破るファッションになりましたし、

「リゾーム」という概念はインターネットを先取りしたものでした。

何より大衆動員力のある映画を礼賛していたことで、

ドゥルーズ=ガタリは商業的な「新しさ」と共犯関係を持っていたのです。

 

このように日本ではドゥルーズ=ガタリの思想が商業的な先端性として受容されたために、

実際は反資本主義を意図していたということが、ブラックジョークにしかなっていません。

同じく反資本主義を意図したJ・ボードリヤールの著書が、日本では電通の社員の愛読書になったように、

〈フランス現代思想〉は日本で受容されると反資本主義的な内容が体良く去勢されてしまうのです。

 

以前から僕は〈フランス現代思想〉の研究者が、本国と日本の受容のギャップを指摘しないことに不信感を抱いてきました。

そのため、本書が今さらドゥルーズ=ガタリが資本主義打倒の革命思想家だったというスタンスを前面に出すのには違和感があります。

日本の商業的な受容のあり方についての反省もなく、

原発や沖縄の抵抗運動にドゥルーズ=ガタリ思想が関連しているようなことを書く佐藤と廣瀬には、

その運動に共感するにしても、にわかに賛同する気にはなれません。

 

参考までに手元にあった雑誌「現代思想」2008年12月号のドゥルーズ特集を開いてみます。

特集内容の内訳(中見出し)を見ると、

最初に「『シネマ』を読む」、次に「映画=思考」と映画論がメインです。

次は「科学・情動」「情報・生命」「言語・芸術・文学」と続きます。

そして、やっと最後が「権力・社会」です。

日本でのドゥルーズ思想がいかに政治的な文脈でないかがよくわかる構成です。

気の毒なことに、その雑誌で「動的発生から生成変化へ」という権力論を担当しているのが、

本書の著者である佐藤嘉幸なのです。

この事実ひとつを取り上げても、佐藤のような政治的アプローチが日本のドゥルーズ受容の傍流であったことがよくわかります。

(ちなみにこの佐藤の論考に、一度として「資本主義」「革命」という言葉を見つけることはできませんでした)

 

要するに、〈フランス現代思想〉研究者の中で脱原発などの政治的実践を厭わない佐藤や廣瀬は、

メジャー思想の研究者の中でのマイノリティであるのでしょう。

その意味では商業主義的で欺瞞を垂れ流すドゥルーズ学者よりは何十倍もマシだと思いますが、

僕が彼らに賛同できないのは、彼らがドゥルーズの非政治的受容に対して反省も批判もしないことです。

日本の受容を見れば、ドゥルーズ=ガタリの思想に消費資本主義と共鳴するところがあったことは明らかです。

ドゥルーズ=ガタリの思想の商業面を批判しないで資本主義打倒を語るのは図々しいと思うのです。

 

〈フランス現代思想〉は概してユダヤ的な要素が強く、

ナチスドイツの被害者だったフランス人とユダヤ人の共感で成立している印象があります。

日本は大戦中はナチスの仲間だったわけですから、そもそも〈フランス現代思想〉に共感する立場にはありません。

もしドゥルーズ思想を批判理論として引き受ける気があるなら、日本のドゥルーズ学者は日本の戦時体制を批判しなくてはいけません。

デリダ学者の高橋哲哉はそういう視点を持っている印象がありますが、他の学者はちっともそんな気がないようです。

日本でドゥルーズ=ガタリの思想が非政治的にしか受容されなかった理由のひとつには、

自分自身の過去の傷に触れたくなかったことがあるのではないでしょうか。

そうして日本の〈フランス現代思想〉は批判理論としては機能することなく、

自身のあやまちまで遠い西洋近代のせいにして、ひたすらナルシシズムを高めていったわけです。

 

さて、本書の内容について触れていきますが、

少し読んだだけで、ドゥルーズ=ガタリの思想に触れたことのない人には難しすぎる不親切な本だとわかります。

ほとんどがドゥルーズ=ガタリの著作からの引用とそれを信奉した概説で構成されているからです。

佐藤と廣瀬はドゥルーズ=ガタリと適切な距離が取れていないため、

現代思想の権威の雄弁かつ過剰な代弁者となってしまい、読者が自分自身で考える機会を奪っています。

このような本はエディプス図式そのままの従順な教条主義者を生み出すだけではないでしょうか。

自分自身が服従化の欲望を生きている権威的マジョリティの代行者でしかないのに、

よくも批判している気分になれるものだと呆れます。

 

僕は前々から疑問なのですが、

どうしてドゥルーズ=ガタリのことを書く人は、

ドゥルーズ=ガタリと適切な距離を取って、その思想を検証しつつ解説することをしないで、

自らがドゥルーズ=ガタリの代弁者のようになってしまうのでしょうか。

彼らの思想は批判理論であるはずなのに、それを研究する日本人は一様に無批判にその思想を受け入れています。

他の思想家ではそこまで極端な同一化は起こりません。

僕が見た限りでは、ドゥルーズ=ガタリを理論的に批判した人は外国人ばかりです。

長らく日本の現代思想においてドゥルーズ=ガタリは批判の許されないファッショ的存在だったと言えるのではないかと思います。

 

本書が示す三つの革命は、

ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』『哲学とは何か』という三つの著作に対応しています。

つまりはこの三作がすべて革命的な著作だと言いたいようなのですが、

そのあまりに反省や検証のない評価のあり方はどうかしています。

ドゥルーズ=ガタリの言っていることは、今となってみれば、ひどくロマン主義的で、ひどく都合のいい論だと気づけるはずだからです。

そもそも佐藤と廣瀬は『哲学とは何か』を読解する第三部の冒頭でこう述べています。

 

レーニン的切断がその社会的、政治的効力の一切を失いつつあったこの歴史的局面において、ドゥルーズ=ガタリは、プロレタリアによる階級闘争も、マイノリティによる公理闘争も、実現不可能なものになった、と判断している。

 

佐藤と廣瀬は『アンチ・オイディプス』を「プロレタリアによる階級闘争」とし、

『千のプラトー』を「マイノリティによる公理闘争」として章題にもしているのですから、

これらがダメになったということは、少なくともその二作には今や思想的実効性がないと言っているわけです。

彼らは社会主義体制の崩壊を理由にしていますが、僕はドゥルーズ=ガタリの理論自体に欠陥があったと思っています。

さんざんその二作の内容を大上段から説明してきたくせに、

それが失敗だったことをこの一文だけで済ませてしまう態度は納得がいきません。

思想というものは、本当に価値があれば社会体制の変化ぐらいで断念されるものではありません。

つまり、ドゥルーズ=ガタリ自身は過去の思想に問題があったと認めているわけです。

それなのに、日本のドゥルーズ学者たちは彼らの思想の欠陥を検証することもせず、

相変わらず有効性のない思想の権威だけを維持しています。

 

彼らが考察をしないので、代わりに僕がドゥルーズ=ガタリ思想の欠陥をざっと書いておきましょう。

フーコーもそうなのですが、理性的主体というものが権力への服従を促すという認識に問題があります。

一部は正しいとしても一部では間違っています。

それなのに〈フランス現代思想〉は主体批判をすれば、権力の批判をしているという気分から抜けられません。

〈フランス現代思想〉以外ではこんな大前提は共有されていませんので、内輪的発想と考えてもいいと思います。

この間違った「大前提」はいいかげん反省されるべきものです。

『アンチ・オイディプス』はこの間違った「大前提」に依存しているため、

無意識の欲望に権力からの自由を見出すことになっています。

 

ドゥルーズ=ガタリにおいて主体は、欲望諸機械が欲望のフローを採取、消費することによって、その機械の傍らに、残余として生産される(残余–切断)。その意味において、主体は意識によって中心化された人称的主体ではなく、非人称的特異性から構成された「脱中心化された」主体、すなわち無意識の主体である。また、この主体は、多様なフローを採取、消費することによって刻々と変容を繰り返す非人称的主体である。

 

ドゥルーズ学者はこのような「お題目」に則って、「生成変化」とか言いながら変容を肯定してきました。

引用した佐藤と廣瀬の文章にある「フロー」とか「消費」とかいうワードでわかる通り、

ドゥルーズ=ガタリの「無意識の主体」とは、消費資本主義的な主体に回収されるものです。

ドゥルーズ=ガタリはこの「無意識な主体」によって、権力に服属するエディプス的主体を打ち破れると考えたのですが、

その「無意識の主体」は彼らが思い描いたような無秩序で多方向に分裂する主体にはならず、

知らず知らずのうちにマーケティングに乗せられている消費的な欲望主体として資本主義に服属するだけに終わったのです。

もう結果が出ているので検証もできるはずなのに、ドゥルーズ研究者たちはこのことに知らん顔をし続けています。

 

多方向な欲望は、40人を超えるアイドルグループや4人以上のヒロインがいるアニメなどに飼いならされ、

見かけは選択肢が増えて多様でも、大枠では同一のものに服属していることを欲望することに終わり、

アナーキーな欲望にまでは至らず、結局はナショナリズムを超えることはできませんでした。

この失敗はドゥルーズ=ガタリが「無意識」というものにロマン的な価値を見出しすぎていたことにあります。

シュールレアリスムも同様なのですが、フランス人は無意識を都合よく美化しすぎていると思います。

その結果「欲望機械」とか言って、理性的主体としての「人間」を解体すれば体制の打破ができるような幼稚な幻想を語るのです。

 

リゾーム的横断性による権力的ツリー構造の破壊をめざす『千のプラトー』に至っては、

インターネットを持ち出せばすむような内容です。

わざわざドゥルーズ=ガタリの引用に基づいて小難しい読解をする意味がわかりません。

その態度こそが権威を保存するやり方でしかないと感じます。

ちなみにスター扱いされているあるドゥルーズ研究者は、

ドゥルーズ=ガタリ的な非人称的主体であるAmazonレビュアーを「基本アホ」と罵倒し、

人称的でツリー構造に依拠するマスコミに掲載されたプロの書評を読めとツイートしたのですが、

このようにマリノリティへと生成変化するどころか、権威の場に平然と依存し続けて、

ドゥルーズ=ガタリの思想を全く尊重することもない人がドゥルーズ思想を語ってしまう国で、

西洋思想の何が学べるというのでしょうか。

 

佐藤と廣瀬は『哲学とは何か』では、「マジョリティであることの恥辱」を感じることの重要性を語っています。

ここを読んで僕が疑問に思ったのは、

恥辱を感じるのは、はたして無意識の主体なのか理性的な主体なのかということです。

僕の常識的実感では、それは理性的主体でなければならないはずなのですが、そのあたりを佐藤と廣瀬は触れずにすませてしまいます。

恥辱を感じることが重要ならば、人間不在の思想に入れあげたドゥルーズ研究者は何もわかっていないということになります。

ドゥルーズ=ガタリの思想が多方向に変容しているのか知りませんが、

こういう一貫性を考えない態度が、官僚が文書を平気で書き換える時代と親和的であることは間違いありません。

 

本書の最後にある日本の反体制運動についての記述は欺瞞まみれで憤りを感じました。

そうやって現実を自己都合で解釈するロマン主義的な態度は、彼らが反発している安倍政権と何ら変わりがありません。

たとえば、佐藤と廣瀬は「安倍やめろ」の政権反対運動について、

「賃労働に立脚しない新たな生へと踏み出す決心がついている、と人々は言っているのだ」

と解釈して、ガタリの『アンチ・オイディプス草稿』へと話を接続し、

「その運動の直中で、資本主義的主体性から自らを脱領土化し、

純粋内在性の集団的行為主体の構築過程の上へと自らを再領土化するのだ」

とか述べるのですが、どう考えても強引な牽強付会でしかありません。

「安倍やめろ」がどうして賃労働反対の表明になるのでしょう?

佐藤と廣瀬は大多数の日本人が天皇制を保存したい権威依存的な性格であるという事実から目を背けて、

身勝手な「解釈」によって現実を自分のロマン主義的な夢へと塗り替えてしまうのです。

 

本書で沖縄県民を執拗に「琉球民族」と書き記すことも違和感を感じずにはいられません。

そのうえ、沖縄の基地反対運動もなぜか賃労働反対へと変換されてしまいます。

 

基地廃絶を求める琉球労働者たちは、彼ら自身の階級利害に反する熱狂を生きているのであり(分裂者的リビドー備給)、この熱狂の絶対性に押されて彼らは、賃労働にはもはや立脚しない新たな生を創造する過程(生成変化)の上へと自らを再領土化するのである。

 

基地廃絶という具体的イシューを、賃労働に立脚しない生の創造へと身勝手な抽象化をしてしまう、

このような抽象化を逃げ道として〈フランス現代思想〉研究者たちは自己都合のポストトゥルースを垂れ流してきました。

他のジャンルの研究をしている方なら、日本の〈フランス現代思想〉研究者のレベルの低さが実感できるのではないでしょうか。

研究者はドゥルーズの権威を利用した「商売」を謹んで、学問的に思想内容を検証したり批判したりしてほしいものです。

 

 

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』 (文藝春秋) 千葉 雅也 著 【Amazon用ショートヴァージョン】

  • 2018.04.13 Friday
  • 10:14

『メイキング・オブ・勉強の哲学』 (文藝春秋)

 千葉 雅也 著 【Amazon用ショートヴァージョン】

 

   

   ナルシストの自己欺瞞を知るための教科書

 

 

勉強ばかりしてきた東大院卒で立命館大学准教授の千葉雅也が、

前著『勉強の哲学』の「セールス」が好評だったことに応えて、

「メイキング」と称してひたすら「自分語り」をしたのが本書です。

セールスが好調ならば、それに乗っかってもう一儲けしようというフットワークの軽さは、

さすがはファッションリーダー千葉キュンという姿勢で感心します。

 

本書の第一章は東大の駒場キャンパス(凱旋!)で行われた講演会です。

第二章は2017年7月の佐々木敦(お仲間)とのトークイベントです。

第三章は同8月の文春オンラインのインタビューの再構成です。

第四章が本書語り下ろしで、ぶっちゃけ15ページしかありません。

最後に資料編とか言って手書きノートが並んでいます。

この本のための仕事はほとんどありませんので、著者が勉強しないで作った本となっています。

 

SNSに依存した人々のナルシシズムは日に日に肥大化しています。

相手のナルシシズムを高める「いいね!」を連発することが正義となっていて、

ツイッターなどでは大したことないものを褒め合う「挨拶」が横行しています。

このようなナルシス的な欲望のニーズに合うナルシストが、「セールス」を期待されて出版社に担ぎ出されるのは必然です。

「セールス」が正義になるとハイカルチャーのサブカル化が進み、

世のニーズを反映したセールス主義という一元評価社会を無批判に肯定することになります。

その結果、金銭のやりとりだけが注目される「人間不在」の評価が横行します。

そんな「人間不在」の空虚さを、内輪の「肉声」によって埋めようとする行為がSNSなのです。

アニメファンが声優を偏愛する理由も「肉声」への欲望にあります。

(東浩紀は人間不在の人文学を提唱したため、オタクの萌え要素から声優を排除しました)

SNSによる「挨拶」を「母なる肉声」と取り違えることで、彼らは今日も自分の空虚さを埋めているのです。

(このようなSNS漬けの連中が、挨拶性を基盤とする俳句をツイッター的な創作として身近に感じるのは必然です。

それについてはまた別の場所で論じることにします)

 

ニューアカに始まる現代思想のファッション化は、

本来の〈フランス現代思想〉がアンチ資本主義であるため、反現代思想的な現象として真に理解する人から批判されるべきなのですが、

日本で「思想」を商売にしている人は、セールス主義に屈しているくせに思想家であるような顔をしています。

思想家が「商売人」になってしまうことには大きな欺瞞があるわけです。

つまり、ニューアカに始まる日本の〈フランス現代思想〉受容とは欺瞞の歴史にほかなりません。

僕がこれらを〈俗流フランス現代思想〉と揶揄するのはそのためです。

おぼっちゃま育ちの千葉キュンはそんな欺瞞をナルシシズムの充溢でごまかしています。

なんとなく読むと気づきませんが、本書をよく読めばそのことが確認できます。

 

本書の「はじめに」では、「『勉強の哲学』は大学一・二年生を主な読者として想定しています」と書いてあります。

出版当時にそんなことを言ったら読者を狭めてセールスが落ちるので、

後出しジャンケンのようなかたちですが、

この発言には、人生経験に乏しい若者以外には読むに耐えない内容であることをごまかす自己弁護の意図も感じられます。

こういう自己愛保存のための「言い訳」を自己の内面ですませることができず、

ツイッターや著書に書くことで既成事実にしようとするところにメンタルの「弱さ」を感じます。

自己の内面の保存に他者の承認を必要とする「弱さ」や「甘え」が、千葉キュンが若者世代に支持されている理由の一つだと僕は推測します。

こういう「弱さ」を持つ人は孤独と向き合う文学には適していません。

 

駒場での講演では気分が良さそうにしゃべってます。

千葉は大学の実学志向を「より従順な主体、言われた通りに動くような人間を作ろうという動きの一環に他なりません」と批判して、

 

僕のツイッターでのいささか大学教員らしからぬ振る舞いなどは、従順化を強いる世の中への抵抗でもあるのですが、こうした中で重要なのは、いかに自分自身で情報力や思考力を養い、身を守っていくかなのです。いまの社会の価値観のなかで成功したいという短絡的な姿勢ではなく、システムを深いレベルで変えようとするような生き方が必要です。そのためには何よりも勉強することなのです。

 

と結んでいます。

「大学教員らしからぬ振る舞い」に勉強が必要だとは驚きです。

「今の価値観の中で成功したいという短絡的な姿勢」とはセールス主義に乗りまくっている千葉キュン自身のことに感じるのですが、

このように批判から自然と自分自身を免除してしまう(自分をメタ化して免罪する)やり方が、

まさにナルシシズムによる欺瞞と似ているのです。

千葉キュンがツイッター名に自己の著作の宣伝をつけて、AKBよろしくヘビーローテーションさせていたことは多くの人が知っていることと思います。

それは自分の本意ではないという千葉キュンの言い訳を信じるにしても、

出版社が求めたら不本意な行為でも従う人が「従順な主体」でしかないことは明らかです。

 

千葉が「僕のツイッターでのいささか大学教員らしからぬ振る舞い」を「従順化を強いる世の中への抵抗」としていることにも欺瞞があります。

実は千葉のツイッターを大学教員としてふさわしくないとして、表立って批判したのは僕です。

僕が『勉強の哲学』レビューにコメントした文章を転載します。

 


佐野波布一である。

千葉の欺瞞について明確に示しておきたいので、追記を許していただきたい。

再度私が問題にするのは以下の千葉のツイートである。

 

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 @masayachiba

 

Amazonレビューって、まるで勉強していないのに、フランス思想や「ポストモダンっぽさ」が嫌いな人が発言権を得られるはけ口コーナーになっている。レビューを書けば、まるで著者に伍する気分になれるかのようだ。実に安易な承認欲求調達装置。人を甘やかす装置。

午後6:59 · 2017年5月26日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 @masayachiba

 

だいたいこの本はフランスの文脈だけが背景ではない。補論で分析哲学系の話も書いている。要は読んでないんじゃないのか。

午後7:09 · 2017年5月26日

 

大学という温室にいて外のワイルドな世界を知らないナルシストおぼっちゃまは、

Amazonレビューに対し「まるで勉強していない」と言うが、その根拠はまったく示されていない。

そんなに自分が勉強していると思うなら、私の論旨に堂々と反論したらいかがだろうか。

〈フランス現代思想〉が資本主義と共謀し、コード化して流通している現代において、

脱コード化の対象となるべきなのは〈フランス現代思想〉自身ではないのか。

この問いに対する千葉からの有効な回答はない。

(分析哲学を一部加えたくらいで脱コード化できないことは言うまでもない)

レビューの内容に反論をする態度もなく、感情的な「つぶやき」を弄するだけの人間に、

他人を「まるで勉強していない」などと侮辱する資格はない。

論理的反駁もできずに感情的に相手を貶めるのはプロの研究者のすることではない。

(中略)

ハッキリ言っておきたいのだが、

千葉は現行コードの権威に徹底的に従順である。

この本への最大の批判はここにある。

もう一度言う。

千葉は現行コードの権威に徹底的に従順である。

「まるで勉強していない」と書いてはいるが、本当はAmazonレビュアーなどには「権威がない」と言いたいだけなのだ。

社会的権威のない人間ごときが、「出版」をしている権威ある人物に肩を並べた気になって批判するな、

というのが千葉のツイートの真の意図なのである。い

(中略)

さらにおぼっちゃまの侮辱ツイートが増えたので一応載せておく。

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

読書好き、研究者の間では、アマゾンの低評価レビューは基本アホが書いているので全無視というのが常識なのだけど、世間的にはあれに意味があると思ってしまう人もいるっぽいから厄介だ。読書術の基本事項。アマゾンレビューに建設的な批判などめったにないので、無視する。プロの書評を読むこと。

午後9:30 · 2017年6月6日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

僕も本を買うときにアマゾンを参考にするときがあるが、低評価レビューはほとんど「読めてない」レビューなので苦笑いしながら読むしかない。参考にすべきは、詳細に書かれた高評価レビュー。これは知識の基本スキルだと思う。

午後9:33 · 2017年6月6日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

今の話は、自分の本のレビューについて言っている自己弁護だろ、と思われるかもしれないけど、そうではなく、プロの間では共有されている常識です。しかし、一般にはあまり明確に認識されてないかもしれない。

午後9:36 · 2017年6月6日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

本がそもそも読めてない人の意見は聞く必要がない。

午後9:37 · 2017年6月6日

 

羞恥心のない人間は哀れだ。

プロの間でAmazonレビューの全無視が常識なら、千葉も無視すればいいのである。

ひたすら固執してレビュアーへの侮辱を繰り返しておきながら、何が常識なのだろう?

低評価レビューはダメで参考になるのは高評価レビューというのが「プロの常識」とは、

低評価レビューはやめてくれ、というおぼっちゃまの本音が丸出しである。

自己弁護と受け取られることを恐れて、自己弁護ではないと否定するのがさらに恥ずかしい。

 

「プロ」「常識」を持ち出し、論理でなく権威で批判者に応じるあたり、

私が指摘した通りの権威に従順なおぼっちゃまであることを物語っている。

「本がそもそも読めてない人の意見は聞く必要がない」というのも自己弁護でしかない。

そう言えば自分が反論できないことをごまかすことができる。

 

プロの書評がアテになるというのも資本主義を権威と盲信した結果である。

(ちなみに私はプロの書評の裏側を知ることができる環境で育った者である)

プロの書評は出版社から悪く書かないように要求されることが少なくない。

つまり、プロの「商業的」レビューしか読むな、という主張は、

絶対に批判されない安全な書評しか認めないという、自己を甘やかすナルシシズム精神の現れでしかない。

 

千葉は自著の評価が低いのは、「アホ」が低評価をつけているだけと強弁する。

私はこんなことを言う著者を見たことがない。

(中略)

千葉は「勉強」という言葉で読者を同質性を持つ相手だけに限定し、それ以外を排除している。

こんな排他的な人物を准教授にしている立命館大学が教育機関として心配になる。

いずれこの大学にも教育者にふさわしい人物について問い質す機会があるだろう。


 

今気づきましたが、上記の千葉の侮辱ツイッターは駒場キャンパスでの講演の翌日だったのですね。

いかに自分ワッショイのイベントの直後で千葉のナルシス指数が上昇していたかが想像できます。

千葉の「大学教員らしからぬ振る舞い」が上記の千葉のツイッターであることは、

この講演会を文春オンラインで再構成したのが7月なので間違いないと思うのですが、

問題は、こんなAmazonレビュアーを貶す態度が「従順化を強いる世の中への抵抗」であるのかどうかということです。

実は自分の著書に対する批判を許さない姿勢こそが「従順化を強いる」態度なのではないでしょうか。

セールスを邪魔する存在である低評価レビューは「基本アホ」が書いている、という千葉の主張は、

セールス一元評価社会に逆らうな、という「従順化を強いる」内容だと僕は受け止めました。

(なにしろ内容にかかわらず「低評価」であることが問題とされているのですから)

千葉は自分が社会の価値観にひどく従順であり、大学教員の中では明らかに商業主義に前のめりになって、

「今の価値観の中で成功したいという短絡的な姿勢」が丸見えであるにもかかわらず、

自分では「従順化を強いる世の中への抵抗」をしていると思い込んでいるわけです。

こんな心理が成立するのは、前述したメタ化による自分自身を免罪するメカニズムがあってのことです。

 

より問題なのは、こういうおぼっちゃまの自己欺瞞を承認していく「世の中」の方です。

それこそ僕はそんな世の中に抵抗していきたいのですが、自分で語ったことがそのまま承認されるのであれば、

くだらない「自分語り」が世の中にあふれかえるのは必然ではないでしょうか。

ここにブログやツイッター文化の成れの果てがあると思います。

「自分語り」に禁欲的になれない人間には、アイロニーもユーモアもないということを早く勉強していただきたいものです。

 

17ページも傑作です。

 

今回の『勉強の哲学』も、そんな僕の欲望が形になったものです。この本は一見、自己啓発本めいた体裁をしていますが、これは一種の擬態です。実は、自己啓発本をハッキングするようなパロディを試している。(中略)今回僕は、自己啓発的なものの魅力にわざと感染してみて、僕なりに「メタ自己啓発的」な書き方を実験しています。

 

『勉強の哲学』は自己啓発本に見えるかもしれないけど、実は「わざと」であって千葉キュンはメタに立っているのだそうです。

一見そう見えるけど、実は「わざと」だというメタな立場にあるという表明は、

要するに「遊びでやっています」ということと同義です。

パロディというのはそういうことです。

みんな千葉キュンが自己啓発本を全力で書くようなレベルの人間ではないということはわかっていますから、

そんな言い訳じみたことは言わずに、どうか安心してほしいものです。

(なんか大学一、二年生向けに書いたという発言と矛盾している気もしますけどね)

ただ、自己啓発本の体裁(ハッキングでしたっけ?)をしたことでセールスを伸ばしたことは間違いありません。

セールスに関しては自己啓発の恩恵にあずかりながら、僕は自己啓発本をメタ的に研究したのだ、などとわざわざ言われると、

むしろ自分がセールス目的で自己啓発本のスタイルで書いたことを見破られることを恐れているのではないか、と疑ってしまいます。

 

千葉キュンがドゥルーズに興味を持ったのはインターネットのせいだとも述べているのですが、

この薄っぺらさがたまらないですね。

「リゾーム」が深夜のチャット体験にほかならないと感じた、と書いていますが、

ネットが広まった時点でドゥルーズのリゾーム思想は死んでいます。

ネットが一般化する前に言っていたらから価値があったのであって、ネットが一般化してからのリゾーム概念に思想的価値はありません。

これは正直、千葉キュンの思想的素養の低さを感じてしまうので、言わないでほしかった一言でした。

 

また「僕を変身させた東大の授業」のところも最高でした。

まあ、駒場キャンパスでの講演なので、東大ワッショイは理解できるのですが、

駒場での領域横断的な授業で僕は変わった、というその内容があいかわらず浅いのです。

 

高校の時点ですでにいろいろなことに興味を持っていたとはいえ、基本的にはガリ勉で、恋愛経験もなかった。ハイカルチャー主義で、オタクだった僕を、駒場の勉強は柔らかい人間に変身させてくれました。

 

サブカルチャーとハイカルチャーを自由につなげて、「これが当たり前」という態度で話す。いまではその行き来は当たり前かもしれませんが、九〇年代後半に学生だった僕にとって、それはまさに自己破壊的な経験でした。(中略)デリダやレヴィナスを学びながら同時にポピュラー文化を受け入れられるようになった。ガリ勉を脱して、ストリートの身体を経由し、深い勉強に入っていったのです。

 

さて、クイズです。

上の文章は千葉キュンの自己欺瞞だらけなのですが、どこが自己欺瞞なのでしょうか?

「自己ツッコミ」を奨励しているわりに、千葉キュン自身はちっとも自分にツッコミを入れられないので困りますが、

実際はツッコミどころが満載です。

まず、「自己破壊的な経験」の内容が浅すぎます。

ハイカルチャーが好きだった僕が、サブカルチャーを受け入れたら破壊的な経験ですか?

サブカルチャーを受け入れたら、「ストリートの身体を経由し」たことになるんですか?

だって大学で学んだだけでしょう?

結局ガリ勉体質はそのままで、何も変わっていないと思うのですが。

この程度の経験を「自己破壊」とか言われると、

「勉強とは自己破壊である」という彼の主張がただのカッコつけで、中身がないことがわかってしまいます。

そもそも千葉はこう述べています。

「ハイカルチャー主義で、オタクだった僕」

そう、「オタクだった」のです。

もともとオタクだった人が対象をハイカルチャーからサブカルチャーに広げただけで、自己破壊的になるはずがありません。

このような自己欺瞞を平気で講演会で話す人間を、僕は残念ながら信用する気にはなりません。

ハイカルチャーをオタク的に享受しているだけでは、ハイカルチャーをハイカルチャーとして理解したことになりません。

ちなみに僕も90年代後半に駒場でない大学にいましたが、そこでもサブカルを授業で扱っていました。

 

あと、千葉が自身を「文学的」だとアピールしていることに関しては、

勘違いもはなはだしいという印象です。

千葉は「自分自身も文学作品的なものを作ろうと思っているわけなので」などと述べていますが、

博論と『勉強の哲学』などの著書があるくらいで、安直にクリエイターぶる自己認識はどこからくるのでしょう?

まずは千葉の文学観を確認しましょう。

 

文学というのは、言葉を自由に使うことで、常識の枠内で考えているような意味的つながりとか、物語的つながりを壊していくことだと僕は思います。

 

千葉は「文学というのは」とか語っていますが、千葉の語る定義だとノーベル文学賞作家の作品の多くも文学でなくなってしまいます。

彼の定義は「異化作用」という現代詩の一部の効果に文学を矮小化するもので、

彼の知識がいかにオタク的であるかを示しています。

それ以上に、自分の常識のなさを「文学」と言えばごまかせると考えているようにも思えます。

常識がないのは僕が大学教員ではなくアーチストだからだ! という自己欺瞞で、

社会の拘束から逃れようとするスキゾ的逃走の手段なのでしょう。

千葉を分析すると、いかに日本のドゥルーズ思想が社会的葛藤から逃れてナルシシズムを保存するだけの思想として終わったかがよく理解できると思います。

 

参考までに引用しますが、2017年8月の幻冬社plusで千葉は國分功一郎との対談で小説についてこんなことを語っています。

 

千葉 小説、苦手なんです。というか、人間と人間の間にトラブルが起きることによって、行為が連鎖していくというのがアホらしくてしょうがない。だって、人と人の間にトラブルが起きるって、バカだってことでしょ。バカだからトラブルが起きるんであって、もしすべての人の魂のステージが上がれば、トラブルは起きないんだから、物語なんて必要ないわけです。つまり、魂のステージが低いという前提で書いてるから、すべての小説は愚かなんですよ。だから、僕は小説を読む必要がないと思ってるの。

國分 ここでいきなりものすごいラディカルなテーゼが出たね(笑)。

千葉 でも、詩には人間がいないから。物質だけだから。それはすばらしい。

 

もちろん文学的な小説は「バカだから」起きるトラブルなど書くわけがありませんし、

そんなものに人々が感動するのは「バカだから」ではありません。

思弁的実在論の影響を受けているため、千葉はオブジェクトとか物質とか言って得意気なのですが、

人間存在を侮っている人が「文学というものは」などと大文字で語ってしまう、

それをおこがましいとも恥ずかしいとも思わないのは、東大で受けた教育にも問題があるように感じます。

(詩には人間がいない、という発言から千葉に詩の素養がないこともハッキリします)

千葉雅也の登場以来、僕は東大の教育レベルにも正直疑問を抱いています。

現在、文系学部の大学に残る人間はあまり優秀でない人が多いというのが僕の実感ですが、

東大の大学院は入りやすいこともあり、やはり社会に出たがらない人材を抱えすぎていると感じます。

自分自身の魂のステージがどの程度かもわからない人に、物語は魂のステージが低いなどと言わせてはいけないと思います。

 

もう一つ傑作なところを引用しましょう。

 

僕が研究者を目指したのには、家庭環境も影響しています。父親は、印刷会社から独立して広告代理店をやっている自営業者だったので、そもそもサラリーマンになるという人生のビジョンがほとんどなかった。アーティストになるか社長になるかしかないと思っていました。どちらかと言えば、アーティストからの置き換えとして哲学の研究者になった、そんな感じだと思います。

 

もうおわかりでしょうが、千葉は東大の先輩や先生の後押しでスター扱いされているにもかかわらず、

驚くなかれ、アーティストであるかのような気分でいるのです。

(准教授ってサラリーを受け取っているはずですよね?)

自己欺瞞もここまでくるとつける薬は存在しません。

周囲も千葉の鉄壁のナルシシズムに気を遣って、誰も彼に本当のことを言うという徒労を避けているのだと想像がつきます。

誰にも本当のことを言ってもらえない、ということは、真の友達がいないということでもあります。

まあ、彼と同等の魂のステージにある人は少ないでしょうけどね。

 

最後に、書き下ろしの第四章に決定的な欺瞞があるので指摘します。

千葉は現代において接続過剰なツールとそこから逃れるツールを区別して使いこなすのがいい、と述べます。

 

接続過剰なデジタルツールを使うのをやめて孤独になれ、というのは無理です。接続過剰状態がもたらすメリットはあまりに大きい。

 

ツイッター中毒状態の千葉からすれば、接続過剰を弁護するのもある意味当然ではあるのですが、

千葉の博士論文『動きすぎてはいけない』は接続過剰を批判して話題になったはずです。

その一貫性のなさは学者としては致命的と言えますし、

接続過剰批判をしないのなら、二度と「切断」などと語らないでほしいものです。

おまけにそこから逃れる「別のツール」として千葉が挙げているのはEvernoteだったりするので、

こっちもデジタルツールじゃん! というツッコミが抑えられません。

接続過剰批判をした人間が接続過剰人間だったというオチはまったく笑えません。

 

さて、このように千葉の呆れるような欺瞞の実態を書き連ねても、

僕のような権威のない無名人が書いたのでは、彼のナルシシズムには決定的な傷にはならないでしょう。

千葉は勉強という「自己破壊」をするどころか、

自分のうすっぺらい実像と向き合うことを避けるために「アーティスティックな研究活動」をしています。

そんな動機の人間が書くものに共感するのは、同種の人間だけではないでしょうか。

千葉が自分自身と向き合うことを避け続けるかぎり、内輪の世界に居続けるしかありません。

 

ちなみに僕は千葉が俳句をやるより前から俳句のレビューを書いていますし、

鏡リュウジのレビューにも書いた通り、タロット占いもしています。

僕の関心領域の外に全然出ていけない(というより後追いという結果になっている)のに、

「基本アホ」などと僕を侮辱できる身なのか少しは考えてほしいものです。

勉強が自己破壊だと本気で思うなら、Amazonに抗議したりツイッターで感情的な態度をとるのではなく、

大学の外にも自分より賢い人間が大勢いることをまずは「勉強」するべきではないでしょうか。

 

 

 

『なぜ世界は存在しないのか』 (講談社選書メチエ) マルクス・ガブリエル 著

  • 2018.03.04 Sunday
  • 10:01

なぜ世界は存在しないのか』  (講談社選書メチエ)

 マルクス・ガブリエル 著/清水 一浩 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   哲学をわれわれの手に取り戻すことこそが倫理だ

 

 

本書はドイツの若き哲学者が自らの思想である「新しい実在論」を、

一般の人にもわかるように平易なスタイルで書いて、本国でベストセラーになったものです。

本書について書かれたものを読むと、文章が平易で理解しやすいわりに、

ガブリエルの意図を適切に把握していない人が多くて驚きます。

彼は「世界が存在しない」ことを語りたいのではありません。

「世界が存在しない」のは「なぜ」なのかを問うているのです。

 

ガブリエルはまず「対象領域」について語り始めます。

対象領域というのは哲学的にもあまり聞きなれない用語です。

ガブリエルは次のように説明します。

 

対象領域とは、特定の種類の諸対象を包摂する領域のことです。

 

政治なら政治の対象領域があって、そこには有権者、税金、ベーシックインカム、日韓関係など関連する多くのものが属しています。

自然数という対象領域には5とか7とかが属していて、居間という対象領域にはテレビ、カーテン、コーヒー染みなどが属します。

 

ガブリエルが対象領域を導入することで意図していることは、

実在する存在は「意味」によって棲み分けがなされるということです。

それを明確にするため、ガブリエルは対象領域から「意味の場」へと自説を展開します。

ガブリエルは対象領域と数学的な集合概念とを重ねることを、論理学の誤りと批判したうえで、

フレーゲの「意味と意義」を範にして、集合にも対象領域にも当てはまらない「意味の場」の重要性へと読者を導きます。

ガブリエルが意味を存在の基礎に置こうとしていることを指摘しなくては、本書を読んだとは言えないでしょう。

 

意味の場の外部には、対象も事実も存在しません。存在するものは、すべて何らかの意味の場のなかに現象します。

 

存在するものは、すべて意味の場に現象します。存在とは、意味の場の性質にほかなりません。つまり、その意味の場に何かが現象しているということです。わたしが主張しているのは、存在とは、世界や意味の場のなかにある対象の性質ではなく、むしろ意味の場の性質にほかならないということ、つまり、その意味の場に何かが現象しているということにほかならないということです。

 

以上の引用文を読んでわかるとおり、

ガブリエルは「意味の場」に現象するものを存在と呼んでいます。

(それが人間の経験とは関わりがないことに注意を促しています)

そして、これらの「意味の場」をすべてひっくるめるような全体としての「世界」は存在しないというのです。

いや、世界が存在しないからこそ、意味の場が存在の根拠になるというのが彼の主張です。

 

存在の意味、つまり「存在」という表現によって指し示されているものとは、意味それ自体にほかなりません。このことは、世界は存在しないということのうちに示されています。世界が存在しないことが、意味の炸裂を惹き起こすからです。

 

このようにガブリエルは諸々の意味を超える全体としての「世界」など存在しないと力説します。

「わたしたちは、意味から逃れることはできません」と述べたあと、

人間だけでなく存在する一切のものにとって意味こそが運命だと言うのです。

絃呂妊ブリエルは自然科学とニューロン構築主義を批判するのですが、

注意深く読めば、彼が〈フランス現代思想〉とその延長にある思弁的実在論をも批判していることがわかるはずです。

〈フランス現代思想〉は人間と意味をないがしろにした思想ですし、

思弁的実在論に至っては人間不在の世界を思考対象にしようと懸命です。

 

これだけガブリエルが意味を強調しているにもかかわらず、

日本の読者がそれを読み損ねて、世界の不在ばかりに注目してしまうのは、

ガブリエルが批判している思弁的実在論のような、人間を置き去りにして「世界」を語るメタ的な欲望に、

暗黙理に毒されているからではないでしょうか。

物分かりの悪い人のために証拠の文を引用しましょう。

 

哲学は、古代ギリシアでも、古代インドや古代中国でも、そもそも人間とは何かということを当の人間が自問することから始まりました。哲学は、わたしたちが何であるのかを認識しようとするものです。つまり哲学は、自己認識の欲求に発しているのであって、世界を記述する公式から人間を抹消したいという欲求に発しているのではありません。

 

このあと、ガブリエルは世界は存在しないという洞察によって、

「人間をテーマにすることができるようになります」と述べています。

彼は明らかに哲学を人間に引き戻そうと考えています。

要するに本書は〈フランス現代思想〉などの意味を排除した反人間主義への異議申し立てなのです。

 

僕の見るところ、日本で〈フランス現代思想〉を公然と批判している人は、僕以外にあまり見かけたことはありません。

疑問があるのに反対せずに黙っておくという処世術は、外部なき全体化(つまりはムラ社会化)を強めるだけに思えます。

外部なきオタク村の人々にかかると、〈フランス現代思想〉の批判者まで〈フランス現代思想〉の「仲間」として処理されてしまうから驚きです。

日本人が弁証法(二大政党制)となじめないのは、カーリング娘のお菓子をみんなで買いあさるような村落的全体化の欲望が手放せないからだと痛感します。

だから日本では現代思想がいつまでも外来のファッションでしかなく、真っ当な思想になれないのです。

 

そんなオタク的〈俗流フランス現代思想〉に、本書を出版した講談社が毒されていることは指摘しておかなくてはなりません。

本書の裏表紙ではこんな文でガブリエルを紹介しています。

「カンタン・メイヤスーらの潮流とも連携しつつ活躍する」

ガブリエルがメイヤスーや思弁的実在論の批判者に当たることは、

本書だけでなく、S・ジジェクとの共著『神話・狂気・哄笑』を見ても明らかなのに、

どうしてメイヤスーと「連携し」などと仲間扱いした表現ができるのでしょうか。

(「連携」と言うなら、ジジェクやマウリツィオ・フェラーリスでしょうに)

 

そういう講談社の外部なき発想が、思弁的実在論に肩入れしまくっている千葉雅也に本書の帯文を依頼したことに現れています。

ガブリエルの批判対象に当たる千葉キュンがなぜ本書の帯文にふさわしいのでしょうか。

自分と真逆の立場の本に「推薦」の帯を書く軽快なフットワークも商売人ならではというところでしょうが、

日本の現代思想市場はこういうセールスしか頭にない人々によって支えられているのです。

 

実を言うと僕はすでにガブリエルの『神話・狂気・哄笑』のレビューで、このような事態を危惧していました。

 

門外漢の読者である我々は、これらドイツ系の思想の「日本的受容」に用心する必要があります。既得権を持つフランス思想関係者はマルクス・ガブリエルを自らを脅かすことのない思想へと読み替えるにちがいないからです。

 

こう書いたのですが、残念ながら予想は的中したようです。

 

本書の意図が人間存在と意味の復権であることは明らかなのに、

多くの人がそう読んでいないのは、現代思想=〈フランス現代思想〉という現代思想市場(既得権)の発想によるミスリードに影響され、

意味を軽視することを自明視していたからではないか、と疑います。

 

ガブリエルは江呂能ゞ気髻↓詐呂之歃僂魄靴辰討い泙垢、

ここも意味という視点で読まなければ理解がおぼつかないでしょう。

フェティシズム的でない宗教は、「無限なもののなかに意味の痕跡を探求する営み」だと述べていますし、

芸術についてもこのように述べています。

 

芸術作品において、わたしたちは対象だけを見るのではありません。ひとつの対象であれ、複数の対象であれ、つねに自らの意味とともに現象する対象を見るのです。およそ芸術作品は、反省的な意味の場にほかなりません。

 

〈俗流フランス現代思想〉のせいで芸術に意味が必要ないなどという勘違いが蔓延しています。

詩は物質だけで人間がいないからすばらしい、などと文学から人間と意味を排除したがっている人が、

本書を「推薦」すること自体、ガブリエルに対して失礼な行為だと講談社は思わないのでしょうか。

メイヤスーの代弁者が自分の本を推薦したと彼が知ったら苦笑するのは間違いありません。

僕は平気で矛盾したふるまいをする商魂カメレオン学者を野放しにしておくことには絶対に反対です。

 

くり返しますが本書は人間存在と意味の復権を意図したものです。

これによりガブリエルはわれわれの生活から遠くに行きすぎた哲学を、

もう一度われわれの近くに引き戻そうと考えています。

彼はメタ的な「世界」像を断念することによってそれが可能になると考えています。

 

人生の意味とは、生きるということにほかなりません。つまり、尽きることのない意味に参与することが、わたしたちには許されています。(中略)これに続くべき次の一歩は、すべてを包摂する基本構造なるものを断念すること、(以下略)

 

「世界は存在しない」という命題は、メタ的な「すべてを包摂する基本構造なるものを断念すること」を表しているのです。

(もちろん無について語っているわけではありません)

僕は「現代思想」のロマン主義的なメタ化への欲望を何度も批判してきましたが、

僕のような無名人以外にも同様の批判を行う人がいることを、偏狭な日本の現代思想オタクたちにも知っていただきたいものです。

(まあ、本書の意図も理解できない方々に期待はできませんが)

 

ガブリエルの主張は平易に書かれているため、凡庸な鏡には凡庸に映るかもしれませんが、

哲学本来のあり方を模索した非常に重要な提言だと思います。

思弁的実在論のような人間と関わりのない思想が仮に成り立つとして、いったいそんなものに誰が責任をとるのでしょう?

哲学がふたたび倫理と関係を取り結ぶためには、どうしても反人間主義の見直しが必要ですし、

そのために意味の重要性を再確認することは当然の道筋です。

思想や哲学を、知的ぶりたいだけのファッション野郎たちの道具にするべきではありません。

僕は地に足をつけて考えることにも大いなる価値があると信じています。

 

 

 

『哲学の最新キーワードを読む』 (講談社現代新書) 小川 仁志 著

  • 2018.02.17 Saturday
  • 19:04

『哲学の最新キーワードを読む』 (講談社現代新書)

  小川 仁志 著

 

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   目配りだけで中身のカラッポなドイヒーな商売本

 

 

僕は小川仁志の本を初めて読んだので、他の本のことはわかりませんが、

本書だけを見る限り、何度か読み切るのを断念しそうになるほど、どうしようもない内容だと思いました。

 

小川の問題意識と結論に関しては、むしろ僕も賛成という立場です。

G・ハーマンに影響を受けたような(軽薄!)図式にあるように、

小川は感情、モノ、テクノロジー、共同性という四つの知を連結した「多項知」を掲げ、

「私」と社会をつなぐこれからの公共哲学の必要性を訴えます。

いや、別にこれは全く悪くない発想だと思うのです。

 

小川はポスト・トゥルース現象や哲学の思弁的転回を受けて、

現代は「脱理性時代」の段階にあり、テクノロジーの発達がそれを後押ししているとします。

それに対して、「理性そのものをアップグレードすること」が新たな公共哲学に求められると小川は述べるのですが、

このあたりに関しても別にいいことを言っていると思います。

 

グランドデザインはこのように悪くはない気がするのですが、

細部の内容に入ると、ボロが出まくりで読む気が失われていきました。

当然、その新しい公共哲学の実現性はほとんどないのは明らかで、

ただ耳に心地よい夢物語を語っているだけの、思想を用いた商売本であることがわかりました。

僕はもう二度と小川の本を読む気はありませんし、哲学者という肩書きも信用しません。

 

まず、細部のずさんな論の進め方について書いておきます。

小川は最初にポピュリズムを扱っています。

そこで小川は「反知性主義」という言葉が広まった理由をトランプの台頭と結びつけて語ります。

 

アメリカ大統領選にドナルド・トランプが名乗りを上げ、大方の予想を裏切る快進撃を続けるにつれ、反知性主義という言葉が人口に膾炙するようになった。

 

「なぜトランプの快進撃によって反知性主義という言葉をよく耳にするようになったのか」

とも小川は書いているのですが、

僕はこの言葉を垂れ流した本の多くにレビューを書いたのでよく覚えているのですが、

日本で「反知性主義」という言葉が流通したのはトランプ現象のためではなく、

知識人が安倍内閣批判をするために用いたのが発端です。

内田樹と白井聡が中心となって『日本の反知性主義』を出版したのは、2015年3月のことです。

現代思想の反知性主義特集が2015年1月で文芸誌の「文学界」の反知性主義特集は2015年の6月です。

小川も引用している森本あんりの『反知性主義』も2015年2月です。

反知性主義という言葉が人口に膾炙したのが2015年の前半にあたるのは明らかです。

それに対し、トランプが共和党の指名候補に選出されたのが2016年7月ですから、

トランプが大統領になるかもしれない、という流れのだいぶ前になるわけです。

だいたい内田たちの『日本の反知性主義』という本は「日本の」と書いているわけですから、

トランプ現象とは何の関わりもありません。

森本あんりの『反知性主義』の帯には今でこそトランプの写真があったりしますが、

出版当初の帯にはありませんし、本の中で森本がトランプに触れた部分もないはずです。

 

このような状況を記憶している人間からすると、

反知性主義がトランプの快進撃によって人口に膾炙したなどという記述こそが、

ポスト・トゥルース以外の何物でもないと感じます。

自らポスト真実を生きている人間が、どうやってポスト真実を乗り越える公共哲学を生み出せるというのでしょうか?

 

安倍晋三によって人口に膾炙した「反知性主義」という言葉を、

トランプのためという嘘にすり替えるのはどうしてなのでしょうか?

小川は山口大学の准教授です。

山口県といえば安倍晋三のお膝元ですので、まさかとは思いますが、そこに忖度があったのではないか、と考えてしまいます。

 

小川のずさんな論はこれだけにとどまりません。

思弁的実在論についての説明にも胡散臭さが爆発しています。

だいたい、この男は思弁的実在論の説明になるとひたすら千葉雅也の引用ばかりで構成していくのですが、

自著を批判した人を感情的に侮辱する千葉のような「感情を飼いならす方法」も知らない人の言うことを丸呑みにしている人間が、

公共哲学を主張するなんてブラックジョークとしか思えません。

その上、小川は自分が引用した千葉の書いた論考すらきちんと読んでいません。

 

いくつか挙げておきましょう。

まず小川は「思弁的実在論を中心とする思弁的転回の流れは、この10年ほどの間に思想界に大きなインパクトを及ぼしつつある」と述べます。

小川の認識では思弁的転回は現在進行形という書き方になっています。

しかし、千葉の論考ではそのように書かれていません。

 

二〇一〇年頃に頂点を迎えたSR(注:思弁的実在論のこと)のブームは、その後だいぶ沈静化したとはいえ、現在もさまざまな方面に影響を及ぼし続けている。

 

思想界ではもうピークを過ぎた、というのが千葉の認識です。

もし小川が現在進行形の現象として書きたいのなら、「日本の思想界に」と書かなくてはいけないと思います。

まあ、温情深い読者の皆様は、この程度は目くじらをたてるほどではないと思うかもしれません。

 

マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』の説明も首をひねりたいところがあります。

小川がガブリエルの「新しい実在論」を説明するために引用したヴェズーヴィオ山の箇所は、

本文294ページ中の15ページ目の部分で、それこそ登山なら登り始めもいいところです。

そのため、ガブリエルの実在論に欠かせない「対象領域」の話も出てきません。

この人は本当に最後までこの本を読んだのか、と疑問を感じずにはいられませんでした。

 

小川は思弁的実在論を「人間をまったく無化してしまうような、異質な公共哲学である」と述べています。

「いわば非−人間中心主義の公共哲学」などとも書くのですが、

小川は「私」と社会をつなぐのが公共哲学だと言っていたはずです。

(だいたい思弁的実在論が公共哲学なわけがないだろうに)

本書200ページでも「私が主役に躍り出る日」と見出しをつけて、

「各々の非理性的な部分を克服していく必要がある。それができて初めて、理性は強靭なものとなるのだ」

などとも書いているのです。

 

人間不在の世界に「私」どころか社会も公共性もあるわけがありませんし、

明らかに理性批判をしている思弁的実在論を批判しないで、どうやって「非理性的な部分を克服する」ことになるのか意味がわかりません。

こういう矛盾を放置できてしまう態度をされると、何も理解できずにただ凡庸なことを言っているだけとしか思えません。

思弁的実在論などの流行に媚びて「非−人間中心主義の公共哲学」などという語義矛盾もいいところの言葉を平然と垂れ流す人物の知性など、

どうして信用することができるものでしょうか。

ただあちらこちらに適当にいい顔をして、商売をしたいだけとしか僕には思えません。

 

まだまだありますよ。

小川は千葉が思弁的実在論を「不気味でないもの」と言い表したことを紹介し、

 

わかりやすくいうと、不気味の反対語が親密なものだとすると、近代以前の私たちに馴染みのある思想は親密なものだといえる。ところが、思弁的実在論以前のポスト構造主義と呼ばれる現代思想は、馴染みの思想の外部にある不気味なものだったのだ。したがって、さらにその不気味なものの外部としての思弁的実在論は、不気味ではないものと形容できるというわけである。

 

などと述べているのですが、

このような「読み間違い」は、この人が本当に学者なのか疑いたくなるほどにずさんです。

まず、千葉は思弁的実在論を「不気味でないもの」とは書いていません。

思弁的実在論が示そうとしている「外部」のことを「不気味でないもの」としています。

「外部」が脱落しているのはずさんだと思うんですよね。

また、小川はその「不気味でないもの」を「親密なもの」と考え、まるで思弁的実在論が近代以前の哲学に回帰するように捉えていますが、

それは誤読もいいところです。

 

小川の書き方だと、ポスト構造主義の外部に思弁的実在論があることになっています。

もちろん、ポスト構造主義のG・ドゥルーズ研究者である千葉がそんなことを言うはずがありません。

小川が引用した論考で、実は千葉はこう書いています。

 

ポスト構造主義は外部性の思考だった。しかしその外部性の脅威は、せいぜい「不気味なもの」だった。だがいまや問題は、我々を、不気味にでも何でもなく圧倒する力なのである。

 

我々を「圧倒する力」が「親密なもの」であるはずはありません。

小川は「千葉の意味するところとは異なるが」と書いてはいますが、

これだけ逆方向に解釈するのであれば、千葉の論に乗っかって書くのはおかしいですし、

まるっきり逆方向に欺瞞的な解釈をするくらいなら、きちんと批判をすべきです。

流行に対して適当にいい顔をして公共性が成り立たない領域まで公共哲学にしてしまう。

いくら具体的なヴィジョンを示さない抽象論とはいえ、何でも「新しい公共哲学」だと言って取り込んでしまうのでは、

すべてを「我が神の思し召し」としてしまう新興宗教と変わりありません。

小川は宗教的な再魔術化を乗り越えるべき問題として提示してはいますが、

その再魔術化を利用しているのは、他ならぬ小川自身だと感じます。

 

また、千葉はポスト構造主義の「外部性」を「不気味なもの」としているのであって、

小川が言うような、近代以前の思想の外部にあるのがポスト構造主義であり、

その外部が思弁的実在論であるなどという同心円状の構造など、千葉は全く描いていません。

千葉はポスト構造主義の外部性と思弁的実在論が扱う外部の話をしているだけなのです。

この程度の理解力で地方大学の准教授になれるというのは僕には新鮮な発見でした。

 

他にも言っておきたいことがあります。

小川はM・ウエルベックの小説『服従』についてこのような紹介をしています。

 

『服従』という小説をご存知だろうか? フランスの作家ミシェル・ウエルベックによるベストセラー小説で、なんとフランスにイスラム系の大統領が誕生し、国民がイスラムに改宗させられるというストーリーだ。なぜこれがベストセラーになったかというと、この本の出版当日を狙って、イスラム過激派がパリの新聞社を襲った、あの「シャルリー・エブド襲撃事件」が起きたからである。

 

ハッキリ言って嘘八百の内容です。

まず、『服従』ではイスラム政権が誕生しますが、連立によって成立しているので、独裁ではありません。

当然国民はイスラム教に改宗させられたりはしていません。

主人公が自分の意志でイスラム教に改宗するという話です。

(国民が改宗させられる話なら、ラストに主人公が自ら改宗を選ぶインパクトが台無しです)

『服従』という小説をご存知だろうか? とは、こちらが小川に尋ねたい言葉です。

また、この小説がベストセラーになった理由が「シャルリー・エブド事件」にあったとは言い切れません。

ウエルベックは『服従』の前作『地図と領土』の時点でゴンクール賞を受賞している人気作家です。

さらに疑わしいのは、テロが「この本の出版当日を狙って」起こったという記述です。

ざっとネットで検索してもひとつも出会わない解釈なのですが、『服従』の出版当日を狙ったということにソースはあるのでしょうか?

浅田彰はコラムで「偶然」と書いています。

 

このようなずさんな記述をする人の思想が緻密なはずがありません。

たとえば小川の「感情」の捉え方が完全に多様性を捨象しているところや、

シェアリング・エコノミーが「資本主義をも凌駕しようとしている」などという見方などひどいものです。

シェアと言うから良いように見えますが、要するにネットを介したマッチングサービスのことでしょう。

マッチングをする連中が利潤を吸い上げるサービスなのに、どうして資本主義を超えるのか意味がわかりません。

ネットには料金がかからないとでも思っているのでしょうか。

このようなシェアリング・エコノミーに対する過剰な期待は小川だけでなく、いろいろな人が言っているようなのですが、

まったく流行に魂を売る人間というのは呆れるしかありません。

 

カバーの折り込みに、小川が商店街で「哲学カフェ」を主宰する、とありますが、

カフェで語るような適当な感覚で本を書いてはいけません。

本とはそんな甘いものではないのです。

僕は二度と小川の本を読むつもりはありませんが、

小川はトピックの新しさを追い求めて内容をいい加減にしないように、自戒するべきだと言っておきます。

 

 

 

「現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018」 (青土社)

  • 2018.02.08 Thursday
  • 23:45

「現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018」 (青土社)

 

   ⭐⭐

   必要なのはロマン主義でしかない思想の「総反省」ではないか

 

 

昨年こそ「トランプ以後の世界」特集でしたが、今年は定番の新春特集が復活しました。

どうせなら来春は「現代思想の総反省」という特集を期待します。

 

近代の日本人にとって、西洋思想は近代文学と深い関係を持ってきました。

ヨーロッパでは神学と哲学に深い関わりがありましたが、

日本では文学と哲学に深い関わりがあったことは、本号に登場している柄谷行人が文芸批評家であったことにも現れています。

 

その柄谷もどこかで書いていたはずですが、日本近代文学の出発はロマン主義の受容から始まりました。

僕はロマン主義を「現実からの逃避、ここではないどこかへの憧憬」という意味で使っているのですが、

自然主義以降の近代文学にもロマン主義の影は消えず、三島由紀夫や村上春樹までそう言うことができます。

その影響が思想に現れないはずがありません。

現代思想と言うと、日本ではなぜ〈フランス現代思想〉ばかりがアカデミズムの外に波及するのでしょうか?

その答は〈フランス現代思想〉がひとえにロマン主義的であるからです。

日本人はロマン主義が好きだから、合理論にも経験論にもそれほど興味を示そうとしないのです。

 

しかし近代文学はものの見事に滅びました。

ロマン主義が求められるだけなら、よりロマン主義的色彩の強いサブカルチャーで足りるからです。

しかし、サブカルには学問的、思想的意義が欠けていることは言うまでもありません。

その影響が現代思想に及ばないわけにはいかないでしょう。

ロマン主義的でしかない現代思想には、もうサブカル以上の価値はありません。

柄谷が文学批評を捨てて、経済的な「交換様式」の問題に集中したのは、そのようなロマン主義に嫌気がさしたからではないでしょうか。

 

今の我が国の首相は疑いようのないロマン主義者です。

(保守とか言っている人のほとんどは、バブル時代への憧憬を抱いたロマン主義者ではないでしょうか)

〈俗流フランス現代思想〉やその延長にある「思弁的実在論」というロマン主義は、

彼らと歩調を合わせた同時代的現象であり、時代と同衾したい連中の「思想のための思想」でしかありません。

 

日本人の内面はロマン主義的ではあるものの、実社会の経済はアングロサクソン的文化が支配的です。

そのため、実社会で働くときは合理的・経験的なふるまいを強要され、

そうして傷ついたロマン主義的内面を、プライベートなロマン主義の摂取によって癒しているのです。

そういう公私の二面性が極端なのが日本人だと思います。

(そして実社会で経済的に得るところが少なくなると、

「タテマエ」をありがたがる意味がなくなるためロマン主義が「ホンネ」として表面化するのです)

つまり、ロマン主義とは日本人にとっての癒しなのです。

〈俗流フランス現代思想〉や思弁的実在論などは、サブカルやSNSと同様の私的領域での癒しとしてしか機能していません。

そして、そういう「タテマエ」的実社会で我慢することなく、

趣味領域を満喫したロマン主義で商売をしている者を、思想界のヒーローのように扱うのです。

(彼らが往々にして実社会で通用しない人間性の持ち主なのは、その意味では必然なのです)

日本の悪しき社会構造を考えもしないで、それに乗っかって商売している人が、意味のある思想などできるはずがありません。

 

経済の衰退局面でロマン主義が政治化すると、癒しでしかなかったロマン主義思想がそれと結託して調子に乗り始めます。

直視したくない現実からメタ的に離脱することが正義であるかのように語り始めます。

そうやって現実を見失うことは非常に危険なことです。

現実の問題と格闘せずに、そこから「逃走」するためにフィクショナルな方向に全力で舵を切るようになるのです。

(人間不在の領域が重要とか言っている思想が表に出て、それが悪利用されたら彼らは責任を取るのでしょうか)

そんな今だからこそ、思想を癒し目的の商売道具にしている連中から、真に必要とする者の手に取り戻すべきだと僕は思っています。

 

本号はなかなか読み応えがありましたが、

多くは読んでも害しか思い当たらない「思弁的実在論」関連に偏った記事だったのでウンザリでした。

それでも養老孟司のインタビューは自分自身の考えを話しているという点でおもしろく読めましたし、

柄谷行人がSNSは「地域」が欠けているという点で、アソシエーションとは無縁だ、

とネットコミュニティをキッパリと否定したことにも首肯できます。

柄谷はSNSが排外主義、ポピュリズム、怨恨の連帯を生み出す、商品交換的な空疎な関係だとしています。

しかし、それより下の世代は総じてロマン主義的で思想としての内容がないものを書いていると感じました。

 

まず、中沢新一の書き物ですが、こういうつまらない「思想遊戯」をいつまでやるのか、とウンザリします。

中沢は映画『メッセージ』の中でエイリアンが非線形言語を用いて、

因果律にとらわれず直感的にコミュニケーションをするという設定を紹介し、それが人間の心の中にも実在しているとし、それを「レンマ的知性」と名づけます。

例によってナーガールジュナを持ち出したあと、『華厳経』の縁起論とライプニッツ思想が酷似していることが指摘されてきた、と述べます。

過去に誰かが指摘したからといって、それが正しいとは限らないのですが、

とりあえず引用元があれば定説のように扱って良いという作法はどうなのでしょうか。

そのあげく、着地するのは結局量子論だったりします。

 

量子論に詳しい方はもうお気づきのように、我々が縁起論的数による算術の規則を導き出した道筋は、量子論の幼年期にハイゼンベルグが「マトリックス力学」を導き出した推論の道筋と、瓜ふたつなのである。

 

じゃあ、最初から量子論の紹介でいいではないか、という感じです。

「量子論の根底に、レンマ的=縁起論的な思考が横たわっているからである」と中沢は述べていますが、

量子論は縁起論など一瞥だにしないのが現実です。

むしろ、縁起論が量子論に寄りかかって生き残りを図っているだけなのは誰にでもわかります。

因果思考の外部を目指したはずの論考が、量子論に着地して終わることで、結局は科学の外部には出られもしないわけです。

こんな仏教の使い方は遊戯的すぎますし、読んでいて不愉快でしかありません。

 

こんな中沢の思想遊戯はアジア人の癒し以外に何の役に立つのでしょう?

西洋思想の外部のものを参照しつつ、結局は西洋思想の枠内にとどまろうとする彼の思想は、

僕にとっては京都学派的な西洋コンプレックスの裏返し(つまりはアジア回帰)という茶番の繰り返し以外の何物でもないのですが、

一度くらい本気で西洋思想と喧嘩してみたらどうでしょうか。

まあ、できっこないでしょうけど。

 

千葉雅也の思弁的実在論の10年をまとめた論考は、

事実関係をまとめた前半部は非常に明晰でいい読み物でした。

こういう非創造的仕事には向いていますし、能力も感じるのですが、

後半になって自説を語り始めると、彼の知性を疑うしかないような、どうしようもなく怪しげなことを言い始めます。

つまらない自我による勘違いをやめて、自分の適性を早く知った方が彼のためだと思います。

 

千葉は思弁的実在論(SR)が示そうとする「外部」について書いているのですが、

理論の展開が緻密でないため、いくつか恣意的な飛躍があってよくわからないところがあります。

たとえば、メイヤスーが相関主義による世界の必然性を否定したからといって、

どうして世界の外部がハイパーカオスであるという前提で話が進むのかがよくわかりません。

変化可能性はあくまで可能性のはずです。

その変化可能性が現実化しなくては、外部にハイパーカオスがあることも現実化しないのではないでしょうか。

世界の外部はハイパーカオスかもしれない、という仮定の話を持ち出しただけで、

それが実効的に力を持つかのように語るのは、あまりに能天気もしくは遊戯的なのではないでしょうか。

 

また、千葉はクラインの壺モデルを否定神学と名指しして、SR的外部は否定神学システムの外部だとします。

まず先に言っておきますが、僕は否定神学を仮想敵とするやり方は「現実逃避」だと思っています。

千葉はクラインの壺モデルをなぜか相関主義へと置き換えていますが、

浅田彰がクラインの壺モデルを持ち出したのは、貨幣の循環運動による一元化=資本主義を象徴する意図があったはずです。

いつの間にクラインの壺モデルが相関主義を表すものになってしまったのでしょう?

ここには千葉の詐術があります。

 

消費社会のプードルちゃんである千葉には資本主義批判ができません。

そのため、否定神学という誰のリアリティにも着地しない浮遊した用語を用いて、

(そもそも日本とキリスト教神学はほとんど無関係です)

本来は資本主義を仮想敵にしていたドゥルーズなどのフランス現代思想を、恣意的に歪めて消費資本主義万歳の〈俗流フランス現代思想〉へとすり替えているのです。

こうして自分の思想的テーマの欠如をごまかし、何かと戦っているようなポーズだけをしています。

こういうことにすぐ騙される読者が「現代思想」を支えているのでしょうが、もっと知性を働かせてほしいものです。

 

また、千葉は人間の外にあるSR的外部とはクラインの壺のさらに外部であるとします。

はたして実際にそうなるのかはきわめて怪しいと思うのですが、

かりにそうだとしても、次に引用する千葉の文は納得しがたいものがあります。

 

日本現代思想の観点から言えば、SRは、クラインの壺モデル=否定神学システムを破壊しうるその外部を哲学の俎上に載せているのだと言える。

 

外部に存在するからといって、「破壊しうる」と言えるのでしょうか。

むしろアクセス不能な外部なのですから、破壊など不可能なのではないでしょうか。

こういう現実性のカケラもないことを語るのは詐術でしかありません。

いくら「しうる」という可能性を示しただけと言い訳しても飛躍が過ぎます。

これは自分の関係した思想を過剰に有効なものと宣伝したいという意図でしかなく、

前々から指摘していることですが、千葉が思想と宣伝の区別もつかない人間であることをさらに示しただけと言えます。

 

現実世界の外部を求めて、人間のアクセス不能な「実在」を求め、それによって現行システムの破壊を語ることは、

もはやロマン主義以外の何物でもないと思います。

だいたい、思弁的なくせに実在論などというのはそれだけで詐術です。

要するに「但し書き」をするだけの思想なのですから。

人間がアクセスできないのに、どうして我々がその存在を理解できるのでしょうか?

対象は実在する、ただし我々はそれを感知できない、と「但し書き」をすることしか方法がありません。

これはつまるところ「設定」のようなものです。

舞台上に君は幽霊役で実在する、ただしみんなからは見えないことになっている、というようなものです。

実質上は設定上の「お約束」でしかないものを、思想とか哲学とかカッコつけても、

そんなものは狭い内輪の中でしか通用しないのは目に見えています。

「但し書き」に現行システムを破壊する力などあるはずがありません。

世間知らずの夢物語もいいところです。

 

もうひとつ、思弁的実在論の由々しき問題は、ハイデガー思想の焼き直しになるという点です。

たとえば千葉はこんなことを書いています。

 

我々は、心、意味に無関係な外部、とりわけ物質により、圧倒的なナンセンスに規定されている。

 

SRからは次のような意味での「ラディカルな有限性」を抽出することができる──無関係な=無意味な外部によって最終的に規定されてしまっているという有限性、あるいは「一方向的unilateral」な(相関的でない)ままならなさ、である。

 

我々にとって無意味な外部とは死のことだ、と言ってしまえば、

物質である身体の死によって規定されている有限性とは、ハイデガーの死の本来性による生のあり方とそう変わらなくなります。

支配的な思想に単にアンチを唱えるだけでは、悪魔を呼び寄せることになるかもしれません。

ハイデガー思想の問題点を勉強したことがあるならば、人間にとって絶対的な他者を持ち出すことの危険性も理解できそうなものです。

 

たとえば星野太のユージーン・サッカー論にもすでに危険の兆候は現れています。

 星野はサッカーの描く「暗き生」が、我々に知解不可能なままに思考を追い詰めるものだと述べ、

それが「「意味、目的、可能性の滅却」を通じてのみ知解可能になる」としています。

これは用心深くならなければ死への志向と近いもの、もしくは生と死の区別がない領域として受け取れます。

 

このように、思想が死の近辺に行きたがるのは、外部を目指すことが思想だという発想から抜けられないからです。

いつから思想とは「メタに立つこと」の謂になってしまったのでしょう。

メジャーな思想に反対して目立ちたい、という助平心が、それを利用して「メタに立つ」だけの駄論を量産しているように見えます。

僕が現代思想に総反省を提案するのは、もうこのやり方がとっくに限界にきているからにほかなりません。

 

批判ばかりを書きましたが、本誌のいいところを言いますと、

ラボリア・クーボニクスの「ゼノフェミニズム」は非常に面白かったです。

ジェンダーが女性的なものに偏っている、という指摘はもっともです。

ルーベン・ハーシュのアラン・バディウ批判も刺激的でした。

バディウはリアリティを整列集合に一次元的に還元しているが、

それこそ資本の統治によって価格が一次元的に格付けをすることに類似しているという指摘は、

非常にやるべき仕事をやっているという気持ちになりました。

日本の思想商売人はすぐ西洋を権威化するので、こういう視点に欠けています。

 

書き忘れましたが、大澤真幸の思弁的実在論を社会学の前段階に位置付けるやり方はセコいと思いました。

大澤は以前この雑誌でメイヤスーを批判していたはずですが、批判でなく無効化して社会学をアゲるのに使うのは、

巧妙と言えば巧妙ですが、やっぱりセコいのでやめてほしかったです。

 

 

 

評価:
養老孟司,柄谷行人,中沢新一,大澤真幸,千葉雅也,信田さよ子,松本卓也,グレアム・ハーマン,マルクス・ガブリエル,ニック・スルニチェク,エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ,汪暉,野村泰紀
青土社
¥ 1,620
(2017-12-27)

『メイキング・オブ・勉強の哲学』 (文藝春秋) 千葉 雅也 著

  • 2018.01.29 Monday
  • 11:58

『メイキング・オブ・勉強の哲学』  (文藝春秋)

  千葉 雅也 著

 

   

   ナルシストの自己欺瞞を知るための教科書

 

 

勉強ばかりしてきた東大院卒で立命館大学准教授の千葉雅也が、

なぜかメタ視点の獲得を「勉強」と称した前著『勉強の哲学』が好評だったことに応えて、

「メイキング」として創作の方法論を惜しげもなく明かしたのが本書です。

セールスが好調ならば、それに乗っかってもう一儲けしようというフットワークの軽さは、

さすがファッションリーダー千葉雅也という姿勢で感心します。

 

本書の第一章は東大の駒場キャンパス(凱旋!)で行われた講演会です。

第二章は2017年7月に代官山の蔦屋書店(ファッショナブル!)で佐々木敦(お仲間)と行ったトークイベントです。

第三章は同8月の文春オンラインのインタビューの再構成です。

(これって「章」の使い方がおかしくないですか?)

第四章が本書語り下ろしで、ぶっちゃけ15ページしかありません。

最後に資料編とか言って手書きノートが並んでいます。

『勉強の哲学』程度の本の手書きノート公開にニーズがあると思えちゃうところがいかにも千葉キュンです。

 

千葉キュンだけでなく、SNSに依存した人々のナルシシズムは日に日に肥大化しています。

相手のナルシシズムを高める「いいね!」を連発することが正義となっていて、

ツイッターなどではそんな「挨拶」が横行しています。

このような内輪主義的な欲望のニーズに合う人間が、「セールスだけ」を期待されて出版社に担ぎ出されるのは必然です。

セールスが期待できないハイカルチャーがセールスの期待できるサブカルチャーに擦り寄るのは、

その現象に意義があるからではなく、単に消費資本主義という「欲望機械」の支配下に降った結果でしかありません。

(僕はドゥルーズ=ガタリの敗北を踏まえて、「欲望機械」という語の意味を転倒させています)

つまり、「セールス」を基準としたサブカル化は、世のニーズに合わせたセールス主義という一元評価社会を無批判に肯定しているだけなのです。

その結果、金銭のやりとりによる人間不在評価の空虚さを、内輪の「肉声」によって埋めようとします。

アニメファンが声優(東浩紀がスルーした萌え要素)を偏愛する理由がここにあります。

ツイッターによる「挨拶」を「母なる肉声」と取り違えることで、彼らは今日も自分の空虚さを埋めているのです。

(このようなSNS漬けの連中が、挨拶性を基盤とする俳句をツイッター的な創作として身近に感じるのは必然です。

それについてはまた別の場所で論じることにします)

 

ニューアカに始まる現代思想のファッション化は、本来は反現代思想的な現象なので思想家から批判されるべきものでしかないのですが、

日本で「思想」を商売にしている人は、セールス主義と戦いもしないくせに自分が思想家であるような顔をしています。

「思想家」という「商売」は本質的に「欺瞞」を抱えているのです。

(ソーカル問題などよりこういう現象を「知の欺瞞」と言うべきです)

つまり、ニューアカに始まる日本の〈フランス現代思想〉受容とは欺瞞の歴史にほかなりません。

僕がこれらを〈俗流フランス現代思想〉と揶揄するのはそのためです。

 

千葉雅也はこのような欺瞞を自覚するどころか、言い訳じみた言葉を並べることで肯定しています。

おぼっちゃま育ちの千葉キュンは自己愛にもとづく自己肯定にあふれているので、

通常の人が大人になる過程で手放さないわけにはいかないナルシシズムを保存し、

欺瞞を欺瞞と感じないですませてしまうのです。

なんとなく読むと気づきませんが、本書をよく読めばそのことが確認できるので、そこを見ていきましょう。

 

まず「『勉強の哲学』は大学一・二年生を主な読者として想定しています」と本書の「はじめに」に書いてあります。

『勉強の哲学』ってそんな狭い層に向けた本でしたっけ? と僕は狐につままれた気持ちになりました。

たぶん自著が大学生には評判が良かったので、後からそういう思い込みをしているのでしょう。

そうすることで年配者からの批判を切り捨てたいのだと感じます。

こういう自己愛保存のための「言い訳」を自己の内面ですませることができず、

ツイッターや著書に書くことで既成事実にしようとする千葉キュンの「弱さ」が問題です。

自己の内面の保存に他者の承認を必要とする「弱さ」や「甘え」が、若者世代に支持されている理由の一つだと僕は推測します。

こういう「弱さ」を持つ精神は思想以前のレベルで、孤独と向き合う文学にも適していません。

 

駒場での講演では調子に乗って好き勝手しゃべってます。

千葉は大学の実学志向を問題にし、「より従順な主体、言われた通りに動くような人間を作ろうという動きの一環に他なりません」として、

 

僕のツイッターでのいささか大学教員らしからぬ振る舞いなどは、従順化を強いる世の中への抵抗でもあるのですが、こうした中で重要なのは、いかに自分自身で情報力や思考力を養い、身を守っていくかなのです。いまの社会の価値観のなかで成功したいという短絡的な姿勢ではなく、システムを深いレベルで変えようとするような生き方が必要です。そのためには何よりも勉強することなのです。

 

と結んでいます。

あくまで個人の感想ですが、僕は努力して東大に行く人の多くは社会体制に疑問を感じていない人だと思っています。

そもそも日本の受験問題自体が、「偉い大人」の作成した「正解」に到達することが目的であって、

それ以上に優れた答を許容する余地を持たないものであるからです。

つまり、受験で結果を出すこと自体が既存社会に馴致されることなのです。

「より従順な主体、言われた通りに動くような人間を作ろう」とするのは社会の本質なので、

それ自体は部分的に甘受せざるをえないことではありますが、

「より従順な主体、言われた通りに動くような人間」の最たるものが官僚であることは疑う余地のないことですし、

その官僚を多数輩出するのが東京大学であることも疑う余地のないことだと思います。

そして、それは以前からの傾向であって、最近の実学志向とはまったく関係ありません。

 

そのようなテクノクラートになることと、「いまの社会の価値観の中で成功したい」と思うことが千葉の中では同じことになっていますが、

この発想こそが東大的だということに注意が必要です。

「いまの社会の価値観の中で成功」するのはベンチャー起業家でも、芸能人でも構わないからです。

つまり、「今の価値観の中で成功したいという短絡的な姿勢」を批判するならば、

官僚になった千葉キュンの同窓生を批判するだけにとどまらず、セールス主義に則った安直な人々全員が批判されるべきであって、

はからずも千葉キュン本人もその中に含まれるということを自覚しておくべきなのです。

 

たいした内容でもない本のセールスを頼りに、このような余計な本まで出しておきながら、

「今の社会の価値観の中で成功したいという短絡的な姿勢」を批判できるというのは自己欺瞞としか説明がつきません。

千葉キュンがツイッター名に自己の著作の宣伝をつけて、AKBよろしくヘビーローテーションさせていたことは多くの人が知っていることと思います。

それは自分の本意ではないという千葉キュンの言い訳を信じるにしても、

出版社が求めたら不本意な行為でも従う人が「従順な主体」でしかないことは明らかです。

 

千葉が「僕のツイッターでのいささか大学教員らしからぬ振る舞い」を「従順化を強いる世の中への抵抗」としていることは許し難い欺瞞と言えます。

実は千葉のツイッターを大学教員としてふさわしくないとして、表立って批判したのは僕です。

『勉強の哲学』のAmazonレビューのコメント欄にあった文章なのですが、

そのレビューがAmazonに不公正な宣伝行為としてなぜか掲載禁止にされているので、今は読めません。

(不公正な宣伝行為はステマを想定したものですが、なぜ僕のレビューがステマ扱いなのか意味がわかりません)

仕方ないのでここに転載させていただきます。

ちょっと長いので、既読の人は読み飛ばしてください。

 


佐野波布一である。

千葉の欺瞞について明確に示しておきたいので、追記を許していただきたい。

再度私が問題にするのは以下の千葉のツイートである。

 

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 @masayachiba

 

Amazonレビューって、まるで勉強していないのに、フランス思想や「ポストモダンっぽさ」が嫌いな人が発言権を得られるはけ口コーナーになっている。レビューを書けば、まるで著者に伍する気分になれるかのようだ。実に安易な承認欲求調達装置。人を甘やかす装置。

午後6:59 · 2017年5月26日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 @masayachiba

 

だいたいこの本はフランスの文脈だけが背景ではない。補論で分析哲学系の話も書いている。要は読んでないんじゃないのか。

午後7:09 · 2017年5月26日

 

大学という温室にいて外のワイルドな世界を知らないナルシストおぼっちゃまは、

Amazonレビューに対し「まるで勉強していない」と言うが、その根拠はまったく示されていない。

そんなに自分が勉強していると思うなら、私の論旨に堂々と反論したらいかがだろうか。

〈フランス現代思想〉が資本主義と共謀し、コード化して流通している現代において、

脱コード化の対象となるべきなのは〈フランス現代思想〉自身ではないのか。

この問いに対する千葉からの有効な回答はない。

(分析哲学を一部加えたくらいで脱コード化できないことは言うまでもない)

レビューの内容に反論をする態度もなく、感情的な「つぶやき」を弄するだけの人間に、

他人を「まるで勉強していない」などと侮辱する資格はない。

論理的反駁もできずに感情的に相手を貶めるのはプロの研究者のすることではない。

 

千葉のツイートの意図を論理的に理解するなら、

自分同様の〈フランス現代思想〉研究仲間にしか批判はさせない、ということになる。

(というか、仲間が本気で批判するはずもないのだが)

このような同質性への強い執着と志向は、

他者性や否定性に価値を置く〈フランス現代思想〉と相容れないものである。

エクリチュールの価値は書いた人間の資質には関係ない。

まして「勉強」しているかどうかという主観的判断には影響されるはずもない。

〈フランス現代思想〉を「まるで勉強していない」のは千葉自身である。

知識として知っていても、自分自身に蓄積されず、ザルのように抜け落ちている。

このような人間にとって知識は「情報」でしかなく、知性を育むことには役立たない。

いつまでも尊大な自意識を持つだけのおぼっちゃまであり続けるしかない。

こんな口先だけの本(ファッション)を礼賛する人間が多いから日本人は田舎者なのである。

 

己を知らない人間は、敵に対して否定的な自画像を投げつける。

「安易な承認欲求調達装置」に甘えたがっているのは他ならぬおぼっちゃま自身のことである。

ツイッターは気に入らない人間をブロックし、自己承認空間を簡単に作ることができる装置である。

勉強をしていようがいまいが著作を褒め上げる感想については嬉々としてリツイートし、

ツイッターで自己承認の王国を築いているのはいったい誰であろう?

自身こそが承認欲求の安易な調達に勤しんでいることに批判の目が向くことはない。

著書のランキングに対するツイートなどにも承認欲求が露骨に現れている。

資本主義の外に立つこともできずに、ドゥルーズから何を学んだというのだろうか。

 

ハッキリ言っておきたいのだが、

千葉は現行コードの権威に徹底的に従順である。

この本への最大の批判はここにある。

もう一度言う。

千葉は現行コードの権威に徹底的に従順である。

「まるで勉強していない」と書いてはいるが、本当はAmazonレビュアーなどには「権威がない」と言いたいだけなのだ。

社会的権威のない人間ごときが、「出版」をしている権威ある人物に肩を並べた気になって批判するな、

というのが千葉のツイートの真の意図なのである。

 

著作では脱コード化を推奨するかのように書いてはいるが、

千葉自身は現行コードに全くアイロニカルな態度をとることもできず、

むしろ無邪気に現行コードと戯れている無害な権威主義者(つまりはおぼっちゃま)でしかない。

だから旧権力(大学や出版業界)にとっては歓迎されるわけである。

これが受験制度と同じく若者を飼いならすシステムであることに気づきもしないのは、

端的に千葉が社会というものを「まるで勉強していない」からである。

(エリート大学で本書が売れるのは、さもありなん、という感じである)

 

千葉は私のいる土俵に上って反論することはできない。

なぜなら、そこでは彼の方が「勉強していない」ことが明らかになるからである。

そこで現行コードの権威(売れている!)を後ろ盾にして私に対して感情的発言を繰り返すのだが、

現行コードの権威にどっぷり浸かりながら脱コード化を推奨するという

自己矛盾した人間でしかないことに虚しくならないナルシストっぷりには驚かされる。

正直、批判を書いている私の方が千葉と関わることに虚しさを感じている。

それは現在の日本社会のありように対して抱く虚しさとまったく変わらない。

 

さらにおぼっちゃまの侮辱ツイートが増えたので一応載せておく。

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

読書好き、研究者の間では、アマゾンの低評価レビューは基本アホが書いているので全無視というのが常識なのだけど、世間的にはあれに意味があると思ってしまう人もいるっぽいから厄介だ。読書術の基本事項。アマゾンレビューに建設的な批判などめったにないので、無視する。プロの書評を読むこと。

午後9:30 · 2017年6月6日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

僕も本を買うときにアマゾンを参考にするときがあるが、低評価レビューはほとんど「読めてない」レビューなので苦笑いしながら読むしかない。参考にすべきは、詳細に書かれた高評価レビュー。これは知識の基本スキルだと思う。

午後9:33 · 2017年6月6日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

今の話は、自分の本のレビューについて言っている自己弁護だろ、と思われるかもしれないけど、そうではなく、プロの間では共有されている常識です。しかし、一般にはあまり明確に認識されてないかもしれない。

午後9:36 · 2017年6月6日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

本がそもそも読めてない人の意見は聞く必要がない。

午後9:37 · 2017年6月6日

 

羞恥心のない人間は哀れだ。

プロの間でAmazonレビューの全無視が常識なら、千葉も無視すればいいのである。

ひたすら固執してレビュアーへの侮辱を繰り返しておきながら、何が常識なのだろう?

低評価レビューはダメで参考になるのは高評価レビューというのが「プロの常識」とは、

低評価レビューはやめてくれ、というおぼっちゃまの本音が丸出しである。

自己弁護と受け取られることを恐れて、自己弁護ではないと否定するのがさらに恥ずかしい。

 

「プロ」「常識」を持ち出し、論理でなく権威で批判者に応じるあたり、

私が指摘した通りの権威に従順なおぼっちゃまであることを物語っている。

「本がそもそも読めてない人の意見は聞く必要がない」というのも自己弁護でしかない。

そう言えば自分が反論できないことをごまかすことができる。

 

プロの書評がアテになるというのも資本主義を権威と盲信した結果である。

(ちなみに私はプロの書評の裏側を知ることができる環境で育った者である)

プロの書評は出版社から悪く書かないように要求されることが少なくない。

つまり、プロの「商業的」レビューしか読むな、という主張は、

絶対に批判されない安全な書評しか認めないという、自己を甘やかすナルシシズム精神の現れでしかない。

 

千葉は自著の評価が低いのは、「アホ」が低評価をつけているだけと強弁する。

私はこんなことを言う著者を見たことがない。

前代未聞の「アホ」はいったい誰なのだろうか。

理性的な人ならすぐに理解できるのではなかろうか。

 

著者がこういうツイートを繰り返すことは、

ファンを低評価レビューの批判投票に動員する結果となる。

実際に千葉がこういうツイートをした後には参考にならない投票が増えた。

著書が低評価レビューの投票に介入操作をするのははたして「プロの常識」なのだろうか。

 

千葉は「勉強をしている」ことに一元的な価値を置いて人間を判断しているが、

こういう多様性を抑圧する態度も〈フランス現代思想〉を本当に勉強していたらありえない。

書いている人が勉強をしていようがいまいが、

読者にとってはくだらない本はくだらないのである。

 

千葉は「勉強」という言葉で読者を同質性を持つ相手だけに限定し、それ以外を排除している。

こんな排他的な人物を准教授にしている立命館大学が教育機関として心配になる。

いずれこの大学にも教育者にふさわしい人物について問い質す機会があるだろう。


 

今気づきましたが、上記の千葉の侮辱ツイッターは駒場キャンパスでの講演の翌日だったのですね。

いかに自分ワッショイのイベントの直後で千葉が調子に乗っていたかが想像できます。

千葉の「大学教員らしからぬ振る舞い」が上記の千葉のツイッターであることは、

この講演会を文春オンラインで再構成したのが7月なので間違いないと思うのですが、

問題は、こんなAmazonレビュアーを貶す態度が「従順化を強いる世の中への抵抗」であるのかどうかということです。

実は自分の著書に対する批判を許さない姿勢こそが「従順化を強いる」態度なのではないでしょうか。

セールスを邪魔する存在である低評価レビューは「基本アホ」が書いている、という千葉の主張は、

セールス一元評価社会に逆らうな、という「従順化を強いる」内容だと僕は受け止めました。

(なにしろ内容にかかわらず「低評価」であることが問題とされているのですから)

千葉は自分が社会の価値観にひどく従順であり、大学教員の中では明らかに商業主義に前のめりになって、

「今の価値観の中で成功したいという短絡的な姿勢」が丸見えであるにもかかわらず、

自分では「従順化を強いる世の中への抵抗」をしていると思い込んでいるわけです。

僕は千葉が計算ではなく本気で、しかも嘘つきではなく誠実な姿勢でこのように書いていると理解しています。

こんな矛盾した行為に疑問も感じない頭脳は、ナルシシズムによる自己欺瞞にしても、

いくらなんでも貴重すぎるサンプルなのではないでしょうか。

 

より問題なのは、こういうおぼっちゃまの自己欺瞞を承認していく「世の中」の方です。

それこそ僕はそんな世の中に抵抗していきたいのですが、自分で自分を語ることで承認されるのであれば、

くだらない「自分語り」が世の中にあふれかえるのは必然ではないでしょうか。

ここにブログやツイッター文化の成れの果てがあると思います。

「自分語り」に禁欲的になれない人間には、アイロニーもユーモアもないということを早く勉強していただきたいものです。

 

17ページも傑作です。

 

今回の『勉強の哲学』も、そんな僕の欲望が形になったものです。この本は一見、自己啓発本めいた体裁をしていますが、これは一種の擬態です。実は、自己啓発本をハッキングするようなパロディを試している。(中略)今回僕は、自己啓発的なものの魅力にわざと感染してみて、僕なりに「メタ自己啓発的」な書き方を実験しています。

 

『勉強の哲学』は自己啓発本に見えるかもしれないけど、実は「わざと」であって千葉キュンはメタに立っているのだそうです。

一見そう見えるけど、実は「わざと」だというメタな立場にあるという表明は、

要するに「遊びでやっています」ということと同義です。

パロディというのはそういうことです。

みんな千葉キュンが自己啓発本を全力で書くようなレベルの人間ではないということはわかっていますから、

そんな言い訳じみたことは言わずに、どうか安心してほしいものです。

(なんか大学一、二年生向けに書いたという発言と矛盾している気もしますけどね)

ただ、自己啓発本の体裁(ハッキングでしたっけ?)をしたことでセールスを伸ばしたことは間違いありません。

セールスに関しては自己啓発の恩恵にあずかりながら、僕は自己啓発本をメタ的に研究したのだ、などとわざわざ言われると、

むしろ自分がセールス目的で自己啓発本のスタイルで書いたことを見破られることを恐れているのではないか、と疑ってしまいます。

また、著者が自著の創作意図を押し付けてくるということは、

読者に著書の意図を汲み取ることを求める態度なので、全く文学的態度でもなければ〈フランス現代思想〉的態度でもありません。

繰り返しますが、思想の勉強が必要なのは千葉キュン自身の方です。

 

千葉キュンがドゥルーズに興味を持ったのはインターネットのせいだとも述べているのですが、

この薄っぺらさがたまらないですね。

「リゾーム」が深夜のチャット体験にほかならないと感じた、と書いていますが、

ネットが広まった時点でドゥルーズのリゾーム思想は死んでいます。

ネットが一般化する前に言っていたらから価値があったのであって、ネットが一般化してからのリゾーム概念に思想的価値はありません。

これは正直、千葉キュンの思想的素養の低さを感じてしまうので、言わないでほしかった一言でした。

 

また「僕を変身させた東大の授業」のところも最高でした。

まあ、駒場キャンパスでの講演なので、東大ワッショイは理解できるのですが、

駒場での領域横断的な授業で僕は変わった、というその内容があいかわらず浅いのです。

 

高校の時点ですでにいろいろなことに興味を持っていたとはいえ、基本的にはガリ勉で、恋愛経験もなかった。ハイカルチャー主義で、オタクだった僕を、駒場の勉強は柔らかい人間に変身させてくれました。

 

サブカルチャーとハイカルチャーを自由につなげて、「これが当たり前」という態度で話す。いまではその行き来は当たり前かもしれませんが、九〇年代後半に学生だった僕にとって、それはまさに自己破壊的な経験でした。(中略)デリダやレヴィナスを学びながら同時にポピュラー文化を受け入れられるようになった。ガリ勉を脱して、ストリートの身体を経由し、深い勉強に入っていったのです。

 

さて、クイズです。

上の文章は千葉キュンの自己欺瞞だらけなのですが、どこが自己欺瞞なのでしょうか?

「自己ツッコミ」を奨励しているわりに、千葉キュン自身はちっとも自分にツッコミを入れられないので困りますが、

実際はツッコミどころが満載です。

まず、「自己破壊的な経験」の内容が浅すぎます。

ハイカルチャーが好きだった僕が、サブカルチャーを受け入れたら破壊的な経験ですか?

サブカルチャーを受け入れたら、「ストリートの身体を経由し」たことになるんですか?

だって大学で学んだだけでしょう?

結局ガリ勉体質はそのままで、何も変わっていないと思うのですが。

この程度の経験を「自己破壊」とか言われると、

「勉強とは自己破壊である」という彼の主張がただのカッコつけで、中身がないことがわかってしまいます。

そもそも千葉はこう述べています。

「ハイカルチャー主義で、オタクだった僕」

そう、「オタクだった」のです。

もともとオタクだった人が対象をハイカルチャーからサブカルチャーに広げただけで、自己破壊的になるはずがありません。

このような自己欺瞞を平気で講演会で話す人間を、僕は残念ながら信用する気にはなりません。

ハイカルチャーをオタク的に享受しているだけでは、ハイカルチャーをハイカルチャーとして理解したことになりません。

言うことが浅いにしても大概にしてほしいと思ってしまいます。

ちなみに僕も九〇年代後半に駒場でない大学にいましたが、そこでもサブカルを授業で扱っていました。

 

あと、千葉が自身を「文学的」だとアピールしていることに関しては、

その自己欺瞞のひどさが許し難いので指摘しておきたいと思います。

千葉は「自分自身も文学作品的なものを作ろうと思っているわけなので」などと述べていますが、

博論と『勉強の哲学』程度の著書しかないのに、安直にクリエイターぶる自信はどこからくるのでしょう?

まずは千葉の文学観から見てもらいましょう。

 

文学というのは、言葉を自由に使うことで、常識の枠内で考えているような意味的つながりとか、物語的つながりを壊していくことだと僕は思います。

 

〈俗流フランス現代思想〉の特徴は「意味」を否定することに価値があるという勘違いなのですが、

「壊す」だけでは文学どころか作品自体が成り立つわけがありません。

「壊す」ためには誰かが作ったものが必要ですし、ただ「壊す」だけでは依存的でしかありません。

千葉は「文学というのは」とか語っていますが、千葉の語る定義が成立するとすれば、

それは「異化作用」という現代詩の一部においてだけで、彼の知識がいかに文学ビギナーのレベルであるかを示しています。

初身者レベルの理解で「文学」を偉そうに語る神経は、根本的に彼が文学を侮っていることの現れでしかありません。

(佐々木敦程度の本に感心する千葉がどの程度文学を読んできたのかが率直な疑問です)

恣意的に文学の意義を狭めておいて、この人は何様なのでしょうか?

参考までに引用しますが、2017年8月の幻冬社plusで千葉は國分功一郎との対談で小説についてこんなことを語っています。

 

千葉 小説、苦手なんです。というか、人間と人間の間にトラブルが起きることによって、行為が連鎖していくというのがアホらしくてしょうがない。だって、人と人の間にトラブルが起きるって、バカだってことでしょ。バカだからトラブルが起きるんであって、もしすべての人の魂のステージが上がれば、トラブルは起きないんだから、物語なんて必要ないわけです。つまり、魂のステージが低いという前提で書いてるから、すべての小説は愚かなんですよ。だから、僕は小説を読む必要がないと思ってるの。

國分 ここでいきなりものすごいラディカルなテーゼが出たね(笑)。

千葉 でも、詩には人間がいないから。物質だけだから。それはすばらしい。

 

思弁的実在論の影響を受けているため、千葉はオブジェクトとか物質とか言って得意気なのですが、

「魂のステージが低い」ので「小説を読む必要がない」と言っている人間が「文学というものは」などと大文字で語ってしまう、

それをおこがましいとも恥ずかしいとも思わないのは、東大で受けた教育にも問題があるように感じます。

(詩には人間がいない、という発言から千葉に詩の素養がないこともハッキリします)

千葉雅也の登場以来、僕は東大の教育レベルにも正直疑問を抱いています。

現在、文系学部の大学に残る人間はあまり優秀でない人が多いというのが僕の実感ですが、

東大の大学院は入りやすいこともあり、やはり社会に出たがらない人材を抱えすぎていると感じます。

自分自身の魂のステージがどの程度かもわからない人に、物語は魂のステージが低いなどと言わせてはいけないと思います。

 

もう一つ傑作なところを引用しましょう。

 

僕が研究者を目指したのには、家庭環境も影響しています。父親は、印刷会社から独立して広告代理店をやっている自営業者だったので、そもそもサラリーマンになるという人生のビジョンがほとんどなかった。アーティストになるか社長になるかしかないと思っていました。どちらかと言えば、アーティストからの置き換えとして哲学の研究者になった、そんな感じだと思います。

 

もうおわかりでしょうが、千葉は東大のネームバリューでスター扱いされているだけの裸の王様であるにもかかわらず、

驚くなかれ、アーティストでもあるかのような気分でいるのです。

(准教授ってサラリーを受け取っているはずですよね?)

自己欺瞞もここまでくるとつける薬は存在しません。

周囲も千葉の鉄壁のナルシシズムに気を遣って、誰も彼に本当のことを言うという徒労を避けているのだと想像がつきます。

誰にも本当のことを言ってもらえない、ということは、真の友達がいないということでもあります。

まあ、彼と同等の魂のステージにある人は少ないでしょうけどね。

 

最後に、書き下ろしの第四章に決定的な欺瞞があるので指摘します。

千葉は現代において接続過剰なツールとそこから逃れるツールを区別して使いこなすのがいい、と述べます。

 

接続過剰なデジタルツールを使うのをやめて孤独になれ、というのは無理です。接続過剰状態がもたらすメリットはあまりに大きい。

 

ツイッター中毒状態の千葉からすれば、接続過剰を弁護するのもある意味当然ではあるのですが、

千葉の博士論文『動きすぎてはいけない』は接続過剰を批判して話題になったはずです。

その一貫性のなさは学者としては致命的と言えますし、

接続過剰批判をしないのなら、二度と「切断」などと語らないでほしいものです。

おまけにそこから逃れる「別のツール」として千葉が挙げているのはEvernoteだったりするので、

こっちもデジタルツールじゃん! というツッコミが抑えられません。

接続過剰批判をした人間が過度の接続過剰人間だったというオチはまったく笑えません。

 

さて、このように千葉の呆れるような自己欺瞞の実態を書き連ねても、

僕のような権威のない無名人から言われるだけでは、千葉は論理不在の侮辱で応じるだけでしょう。

そうやって彼はこれからも自己欺瞞でナルシシズムを保存していくしかない人生です。

千葉は「自己破壊」どころか、自分のうすっぺらい実像と向き合うことを避けるために「アーティスティックな研究活動」をしています。

そんな動機の人間が書くものに共感するのは、同種の人間だけでしょう。

千葉が自分自身と向き合うことを避け続けるかぎり、内輪の世界に居続けるしかありません。

 

ちなみに僕は千葉が俳句をやるより前から俳句のレビューを書いていますし、

鏡リュウジのレビューにも書いた通り、タロット占いもしています。

僕の関心領域の外に全然出ていけない(というより後追いという結果になっている)のに、

「基本アホ」などと僕を侮辱できる身なのか少しは考えてほしいものです。

勉強が自己破壊だと本気で思うなら、Amazonに抗議したりツイッターで感情的な態度をとるのではなく、

大学の外にも自分より賢い人間が大勢いることをまずは「勉強」するべきではないでしょうか。

 

はじめは本書を読んだらすぐに売ろうと思っていましたが、

ナルシストの自己欺瞞のサンプルとしてのデキはすばらしく、

10年後くらいに読み返したいので、それまで手元に置いておこうと思います。

 

 

  (注) このレビューは審査を理由に1か月以上もAmazonでの掲載が見送られています。

    問い合わせたところ、2月14日からずっと審査中だそうです。

        過去の審査は長くて1週間でしたので、今回は異常だと感じていますが、

        Amazonに審査が長い理由を尋ねても返答してくれません。

 

 

『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』 (人文書院) グレアム・ハーマン 著

  • 2017.12.25 Monday
  • 21:37

『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』 (人文書院)

  グレアム・ハーマン 著/岡嶋 隆佑、山下 智弘 他訳

 

   ⭐

   理論のゲームとなった哲学は退屈

 

 

本書はオブジェクト指向存在論(OOO)の中心人物であるグレアム・ハーマンの著書です。

語り口が理解しやすく内容が圧縮されているので、邦訳で「入門」とつけているのだと思いますが、

特に入門書という意図で書かれたものではないと思います。

 

ハーマンはアメリカの学者ですが、大陸哲学を扱っているので日本の「フランス現代思想」信仰者たちに「新潮流」とありがたがられています。

ただ、実際にアメリカ本国の思想界でハーマンが高い評価を受けているのかはよくわかりません。

 

ハーマンはとにかく「対象」(とその実在)にこだわっています。

カンタン・メイヤスーと同じくカントを仮想敵として、人間のアクセスできないところに対象を位置づけることに執心しているようです。

素朴な疑問なのですが、僕たち東洋人にとってはハーマンの思想を実在論と受け止めるのは難しいのではないでしょうか。

東洋は素朴実在論が基本ですので、人間にアクセスできないものが実在的な対象であると言われても、

どこが「実在」的なのかピンとこないと思うのです。

ハーマンはカントを批判しているのですが、僕にはむしろカント的な「物自体」に依拠しているように見えてしまいます。

雑誌「現代思想」などは大陸哲学の流行だから、と盲目的に賛美していますが、

ただ流行に接続するのが目的なら、それは哲学の顔をしたファッションでしかないと思いますし、

思想の社会的無意味化(ただの趣味化)の証拠といえるでしょう。

 

しかし、単なる思想的読み物と考えても、本書は退屈極まりないものでした。

まずハーマンは第一章で、これまで対象を批判してきた思想のやり方を、

解体と埋却というキーワードで整理します。

唯物論にいたっては解体と同時に埋却するとか言って批判するのですが、

そんなに簡単に切って捨てていいのか? と疑問の嵐です。

このあとのハイデガー思想の扱い方もそうなのですが、議論がメタ的というかゲーム的というか、かなり自己都合的なのです。

 

ハーマンは対象を現象学に依拠しつつ感覚的対象と実在的対象に分けています。

経験のうちにだけ存在するのが感覚的対象で、

あらゆる経験から「退隠」するのが実在的対象だとします。

さらにそれぞれの諸性質を示す感覚的性質と実在的性質を加えて「四方対象」として図式化します。

 

ハーマンはこれをやたらハイデガーの四方界と重ねようとしますが、

後期ハイデガーの四方界は言語を中心とした思考なので、ハーマンの四方対象との関連性はあまり感じられません。

ハーマンはハイデガーが放棄した1919年頃の初期の四方界の方が自説と近いとした上で、

後期のハイデガーが退化したとか書いているのですが、

ハイデガーの思想において「退化」といえるだけの論証をするわけでもないので、

たいした根拠もなく自己都合で言っているだけだとわかります。

 

特にハーマンのハイデガー思想の乱用に関しては、不愉快きわまりないレベルでした。

これが学説としてまともに評価されるとは門外漢の僕でも正直信じられません。

ハーマンはハイデガーの道具分析だけを利用しています。

ハイデガー哲学は手許性と手前性の二元論に「ほぼ全て」が解消されてしまう、と乱暴としか言いようがない整理をします。

その結果、「私はハイデガーが時間の哲学者であるという考えにも反対したいと思う」などと言い出します。

ハイデガーの時間性とは瞬間を現在、過去、未来に三重化したもので、単に現在にのみ関わる孤立的瞬間の哲学者としてしまうのです。

 

正直、普通にハイデガー研究者が聞いたら不勉強だと笑われるのではないでしょうか。

そもそも、ハイデガーは道具分析を肯定的に捉えていないと思います。

むしろそのような有用と無用の二元論を超えることに興味があったと思いますし、

そこで導入されるのが時間だったのではないでしょうか。

ハーマンの読みからすると、ハイデガーの「時熟」の概念はどうなるのでしょうか。

ハイデガーの思想の意図などを無視して、単に自分の都合のいい部分を取り出してきているだけという印象を受けました。

論の全体性を無視した断片的な引用や流用をハイデガー自身はものすごく嫌っていたことも付け加えておきます。

 

ハーマンの四方対象ですが、その四分割された対象それぞれのつながりについては、

びっくりするくらい適当な説明しかされていません。

別の本で詳しくなされる可能性はあるのですが、僕はあまり信用していません。

トランプのスートを持ち出して解説するあたり、いかにもゲーム的で辻褄合わせという印象を受けます。

「人間がアクセスできない」という補助線を引いてしまえば、僕らの実感になんら訴えかけない説でも、理論の辻褄が合えば大丈夫ということなのでしょう。

 

この本を読んでいて、僕は素粒子論の本を読んでいる気分と近いことに思い当たりました。

重力と電磁力、大きい力と小さい力の4つの力がどのような関わりを持っているのかとか、

クォークの種類が理論的にはあといくつかあるはずとか、

人間が直接アクセスできない領域の科学は、ほとんど理論的ゲームに近いと僕は思っています。

そこでは実証が語られますが、それも人間が理解できる範囲のことでしかありません。

ハーマンの理論は出来の悪いSF程度のものに思えます。

 

対象に理解不能な神を宿すハーマンの試みを汎神論的と理解することもできますが、

ただ対象は退隠している、というお題目を唱えるだけでは誰も神など感じることはないでしょう。

本当にこの程度の理論が哲学の新潮流であるとしたら、哲学もいよいよ科学の前に御役御免ということになるのかもしれません。

早く哲学も大学から救い出さないとロクなことにならないと感じました。

 

 

 

『現代思想 2017年8月号 特集=「コミュ障」の時代』 (青土社)

  • 2017.09.01 Friday
  • 19:16

『現代思想 2017年8月号 特集=「コミュ障」の時代』

  (青土社)

 

   ⭐⭐⭐⭐

   本当に日本はコミュニケーション圧の強い社会か

 

 

本誌の特集は「コミュ障」となっていますが、
精神医学の分野でのコミュニケーション障害だけでなく、
「コミュニケーションに不器用」という広く社会的な視野で論考が寄せられています。

劇作家の平田オリザは以前から一貫してこのような問題について提言を行ない、
演劇による実践プログラムも行なっているため、発言に非常に説得力がありました。
サブカル作品を例にとって「コミュ障」文化を系譜的にまとめた樫村愛子の論考は、
紹介する作品の選び方もすぐれていて、その分野への明るさを感じました。

オープンダイアローグについて対談や論考で取り上げられていましたが、
読んでも「複数でやるのか」くらいしかピンとこない感じで、
僕には理解できたかといえばちょっと怪しい感じでした。

大黒岳彦の論考は、吉本隆明の「共同幻想」などをふまえて、
〈社会の外部〉の消失をテーマに社会の変化を描き出していました。
相変わらずのカギカッコを多用する書き方は読みにくい人もいる気がするのですが、
内容そのものは非常に興味深いものでした。
「対幻想」的な二者関係をN・ルーマンの〈親密システム〉として把握したあと、
そのような「純粋相互行為」という〈社会の外部〉がSNSによって消去されつつあるとします。
SNSは「対幻想」を〈自己幻想〉へと内部化してしまい、最終的に〈社会幻想〉へと回収してしまいます。
インターネット上で生み出された〈社会幻想〉が生成する基準から外れた者は「コミュ障」と判定されるのですが、
その〈社会幻想〉への対抗策はまだ見つかっていないとします。

以上、なかなか充実した内容だと思うのですが、
気になったのが、現代の日本がコミュニケーションの圧力が強い社会だという了解です。
(討議での千葉雅也や斎藤環などがそう発言しています)
本当に今の日本はコミュニケーション圧の強い社会なのでしょうか?
日本に来た外国人が、日本ほどコミュニケーションをせずに生活ができる社会はないと発言したのを聞いたことがあります。
「阿吽の呼吸」や「空気を読め」などでも明らかなように、
日本は同質性により非言語的な「コミュニケーションなきコミュニケーション」を発達させてきた社会です。
そもそも言語的なコミュニケーションが少ない社会であった日本が、
ある程度国際標準レベルに近い言語コミュニケーションを求められるようになっただけだと僕は思うのですが、
これを「コミュニケーション圧が高い」とか「コミュニケーション偏重社会」などと表現するのは違和感を感じざるを得ません。

また、「討議」として掲載されている國分功一郎と千葉雅也は特集とそれほど関係が深い研究をしている人とは思えません。
(本誌で平田オリザは価値観が近い親しい者同士のおしゃべりを「会話」と定義しているので、
これは「討議」でなくて「会話」と言うべきなのでしょうが)
この雑誌はことあるごとに千葉雅也を掲載したがるので、僕はその不適切な関係を説明してほしいと何度も書いているのですが、
「現代思想」編集部は何も返答をしてくれたことがありません。
(僕にとっては「現代思想」編集部こそがコミュ障ではないかと思っているのですが)

相変わらず千葉雅也の発言は自己を省みない口先だけのものが目立ちます。
二人はわかりやすい「エビデンス」を重視するあり方を批判して、
それを言葉の価値の低下と捉えています。
この批判自体は僕もその通りだと思います。
つづいて國分が「この場合のエビデンスは何なのでしょうね。
世の中では数字とか言われているけれど」と発言すると、
千葉は「多様な解釈を許さず、いくつかのパラメータで固定されているもの。
もちろん代表的には数字です。それに対して言葉というのは、解釈が可能で、
揺れ動く部分があって、曖昧でメタフォリカルです」
と答えてエビデンスにはメタファーがないとか言い出すのですが、
このように偉そうにメタ的に語っている本人がエビデンス主義に則って他人を侮辱していたりするのです。

 千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 読書好き、研究者の間では、アマゾンの低評価レビューは基本アホが
 書いているので全無視というのが常識なのだけど、世間的にはあれに
 意味があると思ってしまう人もいるっぽいから厄介だ。読書術の基本
 事項。アマゾンレビューに建設的な批判などめったにないので、無視
 する。プロの書評を読むこと。
 午後9:30 · 2017年6月6日

 千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 僕も本を買うときにアマゾンを参考にするときがあるが、低評価レビ
 ューはほとんど「読めてない」レビューなので苦笑いしながら読むし
 かない。参考にすべきは、詳細に書かれた高評価レビュー。これは知
 識の基本スキルだと思う。
 午後9:33 · 2017年6月6日

 千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 今の話は、自分の本のレビューについて言っている自己弁護だろ、と
 思われるかもしれないけど、そうではなく、プロの間では共有されて
 いる常識です。しかし、一般にはあまり明確に認識されてないかもし
 れない。
 午後9:36 · 2017年6月6日

これは千葉雅也が自著『勉強の哲学』のAmazonレビューに低評価のものが並んだことに耐えられず、
Amazonレビュアーをツイッターで侮辱した文章です。
批判をする人を単に「アホ」呼ばわりする態度も教鞭をとる身として不適切ではないのか、
と彼を雇う立命館大学に尋ねてみたい気もしますが、
それ以上にAmazonレビューの「低評価」というのは、星がいくつついているかという「エビデンス」による判断だということが問題です。
一般の人に向けて「プロの常識」として、Amazonの低評価レビューはまともな批判はほとんどないから無視しろ、
とツイートしているその「低評価」の基準は、
一般の人にとっては間違いなく星の数になるはずだからです。

星の数は数字というパラメータと何ら変わるところはありません。
千葉自身がレビューの内容(当然言葉によるものです)を無視して、
数字というパラメータでレビューを判断しろとツイートしているくせに、
この「会話」ではしたり顔でそういう行為を批判してみせるのです。
こういう無責任極まりない発言をする人間を「現代思想」は殊の外好んでいるわけですが、
もう一度本誌編集部に尋ねますが、どうして千葉雅也を知識人のような扱いで起用したがるのですか?

さらに指摘させてもらえるなら、
本誌の山森裕毅の論考では、F・ガタリの「制度分析」が扱われていますが、
山森は「制度分析」は集団は言葉をつかまえる装置だとし、
「集団総体を相手にすることが求められ」る「集団をひとつの主体として接する態度」だとします。
集団内での区別を減らすことにより、集団内の横断性を高めて、集団において豊かな言葉をつかまえるというのです。
その上で山森は、「それに対して、外部からその集団の健全で正常な人を選別して声をかけるのは、
集団内に病者/正常者の分断を引き起こすことにつながるだろう」と述べます。

千葉がやっていることはAmazonの中で自らに都合のいい「健全な人」を選別して声をかける態度です。
これは集団の横断性を阻害し分断を引き起こす、ガタリ的には好ましくない行為であるわけです。
千葉はガタリの翻訳をしていたはずですが、相変わらず自分自身はメタな位置に保存されたまま、
読んだことを自身に反映させることもなく、単なる知識として語るだけの存在、
つまりはただ本に書いてあることを語るだけの「口パク学者」として活動しているようです。

千葉に代表されるように、日本の〈フランス現代思想〉の著名人は現実から逃走しメタに立つことで、
ナルシシズムを巨大化させることを正当化してきました。
今回の千葉と國分の話でも、「貴族的」であることが一つの結論として語られていました。
ここで言う「貴族的」とはもちろんメタ的であることを言い換えているだけのことです。
まったく進歩のない人たちだと感じます。

國分功一郎も自分大好きという点では千葉雅也に負けないようで、
2012年に講談社のインタビューにマルクスを刺繍したシャツで現れて、
「伊勢丹メンズ館で見つけた時、『これを着るのは俺以外いない』と思いましたね(笑)」
などと語っていたのですが、
そんなマルクス好きな人が「貴族」とか言うわけですから、
彼らが思想家をいかにアイドルか何かと勘違いしているかがよくわかります。
もう〈フランス現代思想〉発のアイドルたちの勘違いはたくさんです。
歌唱力のないアイドルを起用しなければ「口パク」は必要なくなると思うのですが。

 

 

 

評価:
國分功一郎,千葉雅也,平田オリザ,斎藤環,信田さよ子,森川すいめい,武田砂鉄,貴戸理恵,綾屋紗月,上岡陽江,磯崎新
青土社
¥ 1,512
(2017-07-27)

『僕らの社会主義』 (ちくま新書) 國分 功一郎 著

  • 2017.07.19 Wednesday
  • 22:04

『僕らの社会主義』 (ちくま新書)

  國分 功一郎/山崎 亮 著 

 

   ⭐⭐

   葛藤のない社会変革はファンタジーでしかない

 

 

書名に「社会主義」をかかげたり、帯文に「社会革命を語ろう!」とあったりしますが、
オルタナティヴな社会構想を掲げる本ではありません。
國分と山崎の二人は現在の日本の状況を19世紀イギリスと似ているとし、
(格差と労働環境だけでそう言っちゃうのですが)
その時代の「イギリス社会主義」を担ったジョン・ラスキンやウィリアム・モリスについて「楽しく」語り合う本です。

ただ、二人の話を聞いてもラスキンやモリスの思想にそれほど詳しくなるわけではありません。
多くは建築物の装飾性がモダニズムにおいて失われたことと、
山崎の活動をもとに住民参加型の地域コミュニティということが語られます。
このような内容は資本主義下でも実行可能なものですから、
モリスなどの名前を出さなければ「社会主義」という看板を掲げる必要はないものです。

そもそも、建築物の装飾性については、日本の文化と直接には関係していません。
彼らは徹頭徹尾西洋を題材にしているのですが、そのくせ日本社会の変革を想定しています。
それこそがモダニズムの発想でしかないと思うのですが、
彼らにはそうした葛藤が全くないのです。
僕には彼ら(特に國分)のこのような「歪み」に対する「無葛藤」が、
決定的な思想的欠陥に思えてなりません。
自分の国の現実と向き合わない人に地域コミュニティの話をされても、どこか欺瞞を感じてしまいます。
(安易にメタに立つ無責任さがリベラル陣営が保守ナショナリズムに対抗できない主原因だと思います)

「無葛藤」は二人の「社会主義」に対する語りにも現れています。
國分は「はじめに」で二人が心奪われた「社会主義」について語っているのですが、
その説明には美辞麗句が並んでいます。

 一言で言うならば、それはとても素敵な社会主義である。
 楽しさと美しさを心から肯定する、そのような考えの社
 会主義だ。

社会主義のイメージを改めたいのはわかるのですが、
あまりに都合がいいことを言い過ぎていて実感がわきません。
彼は「楽しさを自給しながら、生活を美しく飾ること」とも述べていますが、
これならオシャレな生活写真をインスタに上げて満足すれば達成できそうです。
こういう現代社会との葛藤のない内容を語って「社会革命」とか言われても、
言葉の軽薄さと無責任さが印象づけられるだけです。

山崎も「おわりに」でこんなことを述べています。

 僕らにとっての社会主義は、つまみ食いする対象としての
 社会主義である。美味しそうな部分もあるし、不味そう
 な部分もある。美味しそうだと思うところだけをつまみ
 食いしながら、次の地域社会について考えたい。

都合のいいところだけ取り上げるなら、葛藤など起こりません。
実現できれば結構なことだと思いますが、そんな現実があるのでしょうか?
僕はこういう発想は非常にSNS的だと感じました。
「いいね」だけが流通するウェブ上のまやかしの世界。
これは架構されたコミュニティの個人享受であって、
現実のコミュニティに着地することのないファンタジーでしかありません。

このように本書では「社会主義」という看板を掲げているわけですが、
実態はあいもかわらぬ「ポストモダン」の立て直しを訴えているようにしか見えませんでした。
むしろ、それを隠蔽するために「社会主義」を持ち出したという印象です。
第4章で國分は住民参加はポストモダンだとして、
「ポストモダンの民主主義を考える」などと言いだすのですが、
さて「社会主義」はどこに行ったのか、と詐欺にあったような気分になりました。
そもそも住民参加をわざわざ「ポストモダン」に結びつける必要はないと思います。
結局、國分は有効性がない自分の仕事を弁護したいだけなのでは? という疑問を抱きました。

本書を読む限り山崎の活動は大事だし、いいことを言っていると思いますが、
國分に担がれてしまってポストモダンの擁護に利用されているのが気の毒でした。
帯にはさわやかなイケメン学者二人の笑顔が並んでいて、
衝動的に「いいね」と言いたくなるのですが、
書物はやはり内容で評価しないわけにはいきません。
「楽しい」本に水を差すレビューで申し訳ありませんが、
葛藤のない現実などありえないことを身をもって示した次第です。

(付記)
最近の文学の衰退の大きな原因はこのような現実的に避けられない葛藤を排除する欲望にある。
村上春樹のような葛藤のないナルシス作品だけが生き残ったのもそのためである。
本来、〈フランス現代思想〉は否定性や他者性を重んじる思想だが、
日本の〈俗流フランス現代思想〉は知の商品化を進めた消費資本主義に乗って、
現実の否定面やそれとの葛藤の排除に勤しんでいる。
(低評価レビューを書く人は「基本アホ」とツイートした千葉雅也などが典型であろう)
現実との葛藤こそが文学であるはずだが、日本の文芸誌とかいう文化は、
いまだ〈フランス現代思想〉の連中の対談を掲載したりしていて、知の商品化のパラダイムから抜け出せずにいる。
現状を分析するなら、現実のネット(による人間の欲望)世界に対する敗北である。
現実的葛藤の排除はそのわかりやすい現れであり、
「僕らの社会主義」どころか藤田省三が言った「安楽の全体主義」の完成でしかない。

 

 

 

評価:
國分 功一郎
筑摩書房
¥ 864
(2017-07-05)
コメント:『僕らの社会主義』 (ちくま新書) 國分 功一郎 著

『勉強の哲学 来たるべきバカのために』 (文藝春秋) 千葉 雅也 著

  • 2017.05.04 Thursday
  • 21:25

『勉強の哲学  来たるべきバカのために』 (文藝春秋)

  千葉 雅也 著

 

   ⭐⭐

   なぜ〈フランス現代思想〉というコードは脱コード化しないのか?

 

千葉雅也の論に感じる疑問はいつも同じなので簡潔に述べます。

書いていることを千葉雅也自身ができていないため説得力がない、ということです。

 

読み始めると、けっこう読みやすく書かれていますし、

「私たちはつねに、何かの環境に属している。特定の環境

にいるからこそできることがあり、できないことがある。

圧縮的に言えば、私たちは「環境依存的」な存在であると言える」

などの一言多い文も千葉雅也ワールドという感じで面白く読みました。

文章については一皮むけた印象がありましたが、

肝心の内容は彼自身の壁を打ち破るものではありませんでした。

 

千葉の言う「勉強」とは、

今の環境に囚われたノリから、自己享楽的な別のノリへと移ることのようです。

要するに現行のコードから脱するため、アイロニーによってメタな立ち位置を獲得し、脱コード化を果たすことを言っているのですが、

こういう「いかにもポストモダン」というノリ自体から千葉がいつまでも変われないことを僕は問題視しています。

 

言語だけでノリを変えられるという発想も疑わしいのですが、

アイロニーによるメタ化を称揚しても、主体が無責任化して、ネット民的なメンタリティに流れ着くのがオチです。

ネット民になることが「勉強」だと言われても、そんなのスマホひとつですぐにできることだと思うんですよね。

みんなが芸能人の不倫を責めるノリでいるときに、

自分一人スマホをいじっていれば、そのコードに乗らなくてすむわけですから。

(千葉は周囲を冷ますツッコミを入れてちゃぶ台返しをすることを求めてますが、

自己享楽という動機でちゃぶ台返しをして周囲から浮くなんて変な人でしかありません)

 

そう述べる千葉雅也自身はいつまでも時代遅れの〈フランス現代思想〉というコードにしがみついているのが問題です。

何十年前のノリを脱コード化できずに、浅田彰東浩紀的コードの上で逃走(中断)を称揚しているのが千葉雅也です。

絶対の真理がないのにそれに耐えられず、何かを真理だと決めてしまうのが「決断主義」だと千葉は批判しますが、

僕には千葉自身がそれを実行しているように見えています。

 

こういう本に感動する人がいることは仕方ないと思いますが、

たいした学説を著したわけでもない若手研究者をスター扱いするノリに対して、

まったくアイロニカルになれないのに、本書の内容を理解したことになるのでしょうか。

そのあたりをしっかり考えたほうがいいと思います。

 

 

   (注)このレビューはAmazonのイチャモンにより消去され、掲載できなくなっています。

 

 

 

『終わりなき対話 I 複数性の言葉 (エクリチュールの言葉)』 (筑摩書房) モーリス・ブランショ 著

  • 2017.03.12 Sunday
  • 09:07

『終わりなき対話 I 複数性の言葉 (エクリチュールの言葉)』

  (筑摩書房)

  モーリス・ブランショ 著/湯浅 博雄/上田 和彦 他訳

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   ようやくの邦訳登場

 

 

ブランショといえば文学の人でまちがいはないはずですが、
思想家としての面に注目するなら、本書を読むべきでしょう。
本書を読めば、デリダはもちろんですが、
ブランショがドゥルーズにも影響を与えていることがわかると思います。

フランス語ができない僕は邦訳を探して現代詩手帖特集号を入手しましたが、
ほんの一部の訳でしかないことに失望したものです。
すべてを翻訳で読むことはあきらめていただけに、
今回の出版は涙が出るほどに喜びを感じています。

ただ、『終わりなき対話』は全体が三部構成になっています。
そのため3冊に分けて出されるようです。
本書だけで4500円を越えるだけに、相当な出費を覚悟しなくてはなりません。
250ページという量からすれば値段設定が高くないですか?
喜び勇んで値段を見ずにレジに持って行ったので驚いてしまいました。
もちろん、待ち望んでいた僕に不満があろうはずはありませんが。

僕個人はデリダもドゥルーズも好きではないのですが、
久々に読んでも、やはりブランショは興味深くおもしろいと感じました。
〈他なるもの〉もしくは他なる言語を追い求めるブランショの言葉が、
哲学に着地しない文学的な問いとしてなされているからでしょうか。

『終わりなき対話』という題名の通り、
章のいくつかは二人の人物の対話のようなかたちで進みます。
ブランショが対話に置く意味に関しては、
二種類の「中断」として述べられています。
一方では統一性をめざし、他方は異邦性と関係を結ぶエクリチュールの言葉を導くという
話すことの二重化を対話による「中断」が可能にするのです。

ブランショの思想はアポリアのかたちをとっています。
「現前的=現在的であることのありえないものの現前」とか、
「内に立つこと=近づいていることの内奥性であると同時に〈外〉の拡散=錯乱」
などは、言語が持つアポリア(言語化することで失われるものが言語にとって重要であるということ?)
を考えているからではないかと僕は安直に言語化したりしてしまうのですが(笑)

ドゥルーズ思想にも接続と切断の両面があるらしいのですが。
こと哲学となるとアポリアに耐えられず、片面だけの世界に陥りがちです。
(他への逃走=切断ばかりに偏って人間不在になったメタ的発想などが典型です)
最近は文庫などでヘーゲル本の新刊が出るようになっていますが、
弁証法の発想を見直す必要があるという動きであれば納得できます。

訳者あとがきを読むと、
この本を書いている間にブランショはレヴィナスの『全体性と無限』に出会ったらしく、
その前に書かれたものと後に書かれたものを追うことで、
ブランショがどのようにレヴィナスに応じたのかがわかるようです。
僕にはついていけそうもない観点ですが、一応参考までに。

 

 

 

「2017年1月臨時増刊号 総特集◎九鬼周造 ―偶然・いき・時間― (現代思想)」 (青土社)

  • 2017.03.11 Saturday
  • 21:57

 

「2017年1月臨時増刊号 総特集◎九鬼周造 ―偶然・いき・時間― (現代思想)」

  (青土社)

   ⭐⭐⭐⭐

   千葉雅也の自己宣伝エッセイはいらない

 

 

「現代思想」と千葉雅也には(安倍晋三と籠池泰典よりも?)、
特別に親密な関係があるように感じています。
編集長の栗原一樹はその説明をすべきだと以前レビューで書いたのですが、
いまだその説明がされているようには見えません。
増刊号ならいいだろうと思ったのか、また千葉雅也を起用しているのですが、
必然性に欠ける起用にしか思えませんでした。
(それだけに特別な関係をより印象づけています)

本誌は九鬼周造の特集号です。
僕は遠い昔に『いきの構造』を読んだきりで、九鬼をしっかり読んだことがなかったので、
今回の特集にあわせて『偶然性の問題』と『人間と実存』を読んでみました。
それでも本誌の論考はどれも難しく、僕の理解の及ばない部分も多々ありましたが、
力作ばかりで非常に勉強になりました。

中でも宮野真生子の和辻哲郎と九鬼周造の比較をした論考は興味深いものでした。
人間存在を間柄として把握した和辻に対し、九鬼が人間存在の根源的偶然性をみているというのです。
和辻の間柄「である」は日常性に通じ、九鬼の事実的偶然性「がある」はその根底にあるという整理はあざやかです。

ただ、この問題は個人的にとても難しいものだと感じました。
根源的偶然性は大澤真幸が根源的偶有性と言ったものと同じだと思うのですが、
大澤はその説明をするときに塹壕戦で隣の兵士が射殺された例を持ち出し、
死んだのは自分であってもおかしくない、というような話をしていました。
このように根源的偶然性を認識する非日常の場にふさわしいのは、戦場だったりします。
ハイデガー思想にしてもそうなのですが、存在の根源性を考える場合、
これをどう訴えるかが難しいところです。
下手に全体化すると日常の破壊を肯定することになるからです。
ハイデガーの影響が濃い九鬼の思想を再評価する際にも、
その後の歴史を踏まえてこのことへの注意を促しておく必要があると感じます。

橋本崇の論考は九鬼の偶然性からマルクス・ガブリエルの論を考察しています。
九鬼の「原始偶然」はシェリングに由来するはずなので、
シェリング研究者であるガブリエルが持ち出されるのには必然性が感じられます。
ガブリエル思想の説明も非常にわかりやすく、興味深く読みました。

しかし、九鬼をカンタン・メイヤスーの思想と重ねるのには疑問を感じずにはいられませんでした。
千葉雅也のエッセイというのがそういう内容で、
九鬼の「原始偶然」を取り上げ、世界は別様でもありうるとするメイヤスーと類似する、としています。
僕は九鬼をにわかでしか勉強していませんが、にわかに信用できない論だと思いました。

まず、前述したように「原始偶然」はシェリングの概念です。
それとメイヤスーが類似するなら、
シェリング研究者のマルクス・ガブリエルがメイヤスーを痛烈に批判している意味がわからなくなります。  
また、九鬼の偶然論は時間論と密接な関係を持っていますが、
「祖先以前性」を持ち出すメイヤスーにはメタ的発想があるだけで、時間論があるようには思えません。

また、「原始偶然」が「絶対的形而上的必然」と結びつけられていることの意味を千葉は無視しています。
このことの重要性は、本誌でも他の論考で書かれています。
たとえば古川雄嗣は「原始偶然」についてこう述べています。

 強調すべきことは、原始偶然の概念は「経験の領域にあって全面
 的に必然の支配を仮定」することによって得られるものであると
 いうことである。つまり、彼はここで、因果的必然性に基づく決
 定論の立場に立っているのである。

古川は九鬼の哲学を「因果的必然性と因果的偶然性の矛盾結合」と言っていますが、
僕が九鬼を読んで受けた印象もこちらに近いものでした。
メイヤスーは「偶然性の必然性」と言っていた気もしますが、
その「必然性」は強調のためのレトリックであって、偶然性と対置する意味での必然性を意味しません。
もちろん両者の矛盾結合を意図していることにはならないと思います。

古川の論はそこから九鬼が「運命」を導き出したことを語りますが、
ここには実存の問題が関わるにちがいないので、
人間不在の世界を考察するポスト・ポスト構造主義と類似するはずもありません。
また、本誌では古荘真敬も九鬼周造の運命論を考察しています。
ここでも偶然性と必然性の異種結合が語られています。

これをふまえると、
九鬼を偶然性の面だけでとらえた千葉の主張は僕には強引としか思えないのですが、
本誌の編集後記を読むと、本誌の編集者はこの千葉一人のあやしげな見方を重視していることがわかります。

 世界の非人間性への感度といい、偶然性への照準といい、九鬼の
 哲学は、彼ら(注:メイヤスーとガブリエル)が代表する現代の
 「思弁的唯物論」、あるいは「新しい実在論」との奇妙な近似を
 示しているようにも思える。

本誌ではもう一人、山内志朗がメイヤスーを引用していますが、
ライプニッツと対置しているだけで、
九鬼と類似しているとは全く書いていませんので、
この編集者の認識は千葉雅也によってもたらされた(もしくは偶然気が合った)ものでしかありません。
僕が「特別に親密な関係」と言うのはそのためです。

僕は千葉が九鬼をメイヤスーに近づけるのは自己宣伝が目的だと思っています。
思想的な必然性が薄いのですから、自己利益のためとしか思えないのです。
学問と宣伝の区別がつかない人間に思想をやる資格があるのか疑問ですが、
雑誌「現代思想」がその片棒を担ぎ続けているのは、
読者を軽んじる態度ではないかと怒りを覚えています。
何度も言いますが、そんなに千葉を起用したいのならば、
彼を特別扱いする理由を説明してください。
このレビューのコメント欄を利用してくださって結構です。

〈フランス現代思想〉を現代の真理と考えて、
それと似たことを言っているという視点で過去の思想を掘り返すことに創造性はありません。
ただ、ハリボテの権威を強める保守的な効果をもたらすだけです。
こういう現在至上主義は資本主義だけでたくさんです。
僕は商売気の強い人の「適当」で「笑止千万」なエッセイなど読みたくはありません。

 

 

 

『ローティ: 連帯と自己超克の思想 (筑摩選書) 冨田 恭彦 著

  • 2017.02.15 Wednesday
  • 14:52

『ローティ: 連帯と自己超克の思想  (筑摩選書)

  冨田 恭彦 著 

 

   ⭐⭐⭐⭐

   ローティ思想をわかるのは大変だとわかる本

 

 

ローティはパース、ジェイムス、デューイなどの古典的プラグマティズムと、
20世紀後半のネオ・プラグティズムをつなぐ位置にある思想家です。
著者の冨田は長らくローティと実際に交流があったことを明かしています。

帯文には「その思想の全貌を明らかにする」と書かれていますが、
ローティの哲学的視野は広大なのですべてを書き表すのは大変です。
冨田は広く表面的な記述を避けて、内容を生涯と重要なトピックにしぼっています。

第1章はローティの生涯を紹介しています。
ローティの父は反スターリン主義の左翼ジャーナリスト・作家で、
トロツキーの秘書を自宅にかくまったりしていたようです。
第7章でローティは自らを「改良主義的左翼」と称して、
革命よりも富の再分配を重視したことが書かれていますが、
彼の生涯を知るとこうしたことの理解がしやすくなります。

第2章と第3章では、ローティの「言語論的転回」批判について書かれます。
批判の意義について理解するには、まずその批判対象を理解する必要があります。
つまり、ローティの批判の意義を理解するには、「言語論的転回」へと向かった分析哲学の理解が欠かせません。
冨田は丁寧にも第2章をすべて批判対象となるラッセルやヴィトゲンシュタインなどの分析哲学の説明にあてました。
必要な手続きであるのはわかるのですが、
ローティへの興味で読んでいる読者には前置きが長すぎるのは苦痛でした。

ローティは言語についての分析を哲学と見なす考えを「言語論的転回」と呼んで批判します。
しかし、肝心のローティの考えはなかなか紹介されず、
理想言語に関わるベルクマンの論の紹介が長すぎたりして、
素人読者の僕にとっては相対主義の迷子に突入する気分になりました。

ローティは言語論的転回が概念を認めないある種の「唯名論」だと捉えているようです。
概念についての考察は、言語表現の考察によってしかできないからです。
冨田は「この唯名論こそ、当の言語論的転回の自己解体を促すものだった」と書いています。
言語が言語外の何かを忠実に捉えることを否定する「唯名論」は、
「観念」や「表象」への純粋なアプローチが無意味であることを示します。
そうなると、認識論哲学も言語論的哲学も意義を失うというのです。
これを「自己解体」と表現する冨田の意図は、くりかえし読んでもイマイチわかりませんでした。

第4章はローティの『哲学と自然の鏡』を中心に、
ロックとカントの「認識論」に対する批判を取り上げています。
ローティが言語論的転回の上位にある認識論への批判へ向かうのはわかりますが、
ここでもクワイン、セラーズ、クーンの思想が前置きとして紹介され、
今何の話をしているのか迷子になりかけますが、
ようやくローティの「解釈学的循環」という考えにぶつかりました。

解釈学的循環はクーンのパラダイム論と歩調を合わせ、 
世界の理解の仕方はその都度のものであり、
ことあるごとに全体を見直し、整合性を図ろうと質的変化を遂げていきます。
つながりにくいものをうまくつなげていく努力のくりかえしを循環と捉え、解釈学的循環と呼んでいます。
認識論が特定の特権的な考えであらゆる文化を整えようとするのに対し、
解釈学は質的変化によって新たな見方を探り出すのです。

解釈学へ向かうとなると、ハイデガーが登場するのも納得です。
第5章はハイデガーと連帯について取り上げます。
ローティはある共同体へ貢献することで人生の意味を実感することを「連帯への願望」と考え、
人間ならざるものに直接関わることで人生の意味を実感する「客観性への願望」よりも重視します。
ローティが「自文化中心主義(エスノセントリズム)」の主張に至るのは、
連帯との関係によるものだということが本書でよくわかりました。

冨田はローティの「自文化中心主義」を、
自らの言明はさしあたって自分の属した共同体を基準にするしかない、
という態度だと説明していますが、
この考え方には相対主義という批判が避けられません。
冨田は批判を「誤解」として退けますが、イマイチ説得力が足りない印象でした。

ローティは転回(ケーレ)以後の後期ハイデガー思想を評価しているようです。
ローティはフッサールの現象学とカルナップに代表される実証主義的分析哲学が、
「あらゆるものの相互のつながりを見ることのできる視点にまで昇りつめたいという伝統的なプラトン的希望」を共有し、
非歴史的な絶対性をもつ「形式的図式」を探求していると言います。
これを「詩的」な立場から「数学的なもの(タ・マテーマタ)」と呼んで批判したのがハイデガーです。
ローティは後期ハイデガーを援用して、科学主義的哲学観を批判したのです。

第6章はロマン主義的感性について書かれています。
ローティにとってプラグマティズムの核心は表象主義批判にあります。
ロマン主義というのも、想像力が理性よりも優位に立つという意味で言われています。

僕は冨田の説明がまとまりを欠いていてわかりにくい、と書きましたが、
自分のレビューも思いのほか長くなって、まとまりに欠けていると感じます。
ローティの思想内容についてまとめるという作業の大変さの一端がわかった気がします。
冨田が論文でローティを扱いたいという学生にやめるようアドバイスしていた、
と本書で書いていますが、身をもって納得した次第です。

 

 

 

 

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