福田若之『自生地』 qqq氏のAmazonレビューへの佐野波布一コメント

  • 2018.05.20 Sunday
  • 21:17

 福田若之『自生地』

 qqq氏のAmazonレビューへの佐野波布一コメント

 

 

   匿名俳人によるステマレビューはいいかげんやめたらどうか

 

 

qqq氏による福田若之『自生地』のAmazonレビュー

 

みずみずしさ       qqq

2018年4月20日

Amazonで購入

たしかに青臭い表現もところどころあります。とくに散文部は読んでいてすこし恥ずかしくなるところも……。しかしそれもふくめ、全体としてほかにはない質感が出ているのは間違いありません。

 

芸術はつねにその表現形式に対する問いを含んでいます。俳句的な俳句などといったものは単に無価値です。そういう意味で、本書は少なくともなんらかの問いは発している。むろんそれに対して「こんなのは句集じゃない」と答えることもできるわけですが、問い自体を拒否し根拠薄弱な想定にもとづく人格攻撃を繰り広げるようなひとは俳句以前に芸術をわかっていない。

 

ぼく自身の答えを書くならば、まず俳句については、率直に言って、面白い句もあればそうでない句もあるという印象です。しかしここで詳しく語るのは控えます(「文学の本質には「遅れ」があります」が、Amazonのレビュー欄は原理的にそれを奪うメディアなので)。

 

つぎに形式面ですが、散文の配置がこの句集の重要なポイントなのは明らかでしょう。句と句のあいだのどこに散文をおくか。いくつか個人的に違和感のある箇所はあるけれど、基本的には考え抜かれたうえで配置されているという印象を受けました。また本書はその装丁が重要な意味を持ちます。内容とも分かちがたく結びついているし、単純にモノとしても美しく、丁寧に作られている。むろん装丁がよいからといって必ずしも俳句自体もよいというわけではありませんが、句集という表現形式に対して自覚的であればそうした部分に気を配るのは必然的な帰結です(よい編集者にも恵まれたのでしょう)。

 

(以下、上記レビューへのコメント)

 

 

どうも、佐野波布一と申します。

 

qqqさんのレビューは巧妙に名指しを避けているとはいえ、

僕の文章をもじった引用もあることから、僕に対する文句だと読む人は解釈すると思います。

そのため、不本意ながらコメントをさせていただきます。

 

千葉雅也が不適切ツイートをして僕の福田若之『自生地』レビューを消去させたのが4月18日でした。

再び『自生地』レビューが掲載されたのが4月19日で、あなたの当レビューがその翌日の掲載です。

もともとの僕のレビューはずいぶん前から掲載されていたので、

千葉のツイート行為とあなたのレビューのタイミングが近いことに僕は因果関係を感じています。

 

プロフィールのレビュー表示を隠していることなどを考えると、

あなたは身元がバレることを相当に用心しなければならない事情がおありの方だと思いますので、

僕に対して返答をしていただけない可能性が高いと想像しています。

ご迷惑かと思いますが、僕があなたの文面から勝手に「推測」したことを一通り語らせてください。

もちろん僕の勝手な推測ですので、常識に照らして問題があればお詫びいたします。

 

まず、千葉雅也はこんなツイートをしています。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

俳句の人たちも佐野波布一氏のレビューには抗議した方がいいと思う。

午後10:32 · 2018年4月18日

 

あなたのレビューはこの直後ですので、必然的にあなたが「俳句の人」であることを疑わざるをえません。

あなたが不幸にも自己欺瞞ヒーロー千葉雅也の正体を見極めることもできない人物であることは残念ですが、

彼も匿名でAmazonレビューを書いて抗議しろ、という意味で言ったわけではないと思いますよ。

なにしろ千葉は僕のレビューのコメント欄に実名で書き込んでくるくらいのプライドは持っていたわけですから。

(そういえば、この千葉のツイートをリツイートしていた某俳人がいましたね)

 

あなたが俳人であり、自ら句集を出した経験をお持ちであることは、文面から易々と想像できます。

「本書はその装丁が重要な意味を持ちます」なんて本作りをしていないとなかなか言えませんよ。

「句集という表現形式に対して自覚的であればそうした部分に気を配るのは必然的な帰結です」

一句という単位ではなく、「句集という表現形式」で考えている方だから「必然的な帰結」と断言できるのですよね。

そりゃあ、福田と価値観が近いのもよくわかります。

 

あと『自生地』を語るのに「芸術は〜」などと大上段の物言いをするのもただの読者としては不自然ですよ。

そもそも『自生地』を芸術だと考えるのは、ごく内輪の人だけだと思いますので、

あなたが福田の近くにいる俳人で、俳句を芸術だと言ってはばからない勘違いをしている方だというのはよくわかりました。

 

看過できないのは、「俳句的な俳句などといったものは単に無価値です」という文です。

あなたはこれをどういうつもりで書いたのでしょうか?

「俳句的な俳句などといったもの」がはじめから存在していたわけではありません。

なのに、俳句文化を支えてきた無名の作者たちや歴史に名を残した作者たちの何億という句を、

あなたの一存で無価値にできるとは、どれだけ非歴史性に寄りかかった偏狭な俳句観なのでしょう?

ご自分やお仲間の前衛を気取った俳句が、「芸術」のつもりで作られていたのか知りませんが、

あなたのくだらない自意識で多くの人が共有してきた俳句文化を無価値にできるものなのでしょうか。

そんな方の言う「芸術」など僕がわかっていなくてホッとしました。

 

肝心なことを言い忘れていましたが、

qqqさんの書かれていた人が、もし僕のことであれば、

僕が「根拠薄弱な想定にもとづく人格攻撃」をしているというのは、怒りで目が曇っているだけですよ。

著作の内容から作者について語ることは、人格攻撃には当たりません。

(そもそも作品を批判されたくらいで「攻撃」とか「被害」とか言いたがる人間のメンタルの弱さには付き合いたくないんですよね)

僕の文章にも触れずに文句だけを書くあなたの方がよっぽど「人格攻撃」をしているのは明らかです。

漱石の作品を読んで作者の漱石の批判をしたところで、それを「人格攻撃」などと言う人はいません。

福田が今生きているから、そんな勘違いが起こるのであって、それこそ「遅れ」の意味が何一つわかっていませんね。

 

そうそう、たとえあなたが何者であろうとも、僕が一番言っておきたいことは、

「文学の特徴には「遅れ」があります」と僕が書いたことの意味をあなたが全く理解できていないということです。

あなたは「Amazonレビュー欄は原理的にそれを奪うメディアなので」と書いて僕に当てつけたつもりでいますが、

この発言はあなた自身の教養の乏しさと理解度の低さを示しただけであると言っておきます。

 

文学は遅れて真価が問われるものです。

つまり、現在Amazonレビューでどんなに批判されようと、本当に文学的価値があれば、

あとで勝つのは作品の方であってAmazonレビューなどどこにも残っていないのです。

僕はすぐにも消えていくようなものを書いているのですから、

『自生地』に本当に芸術(笑)や文学としての価値があると思うなら、あなたはAmazonレビューなど恐れる必要もないのです。

それなのに同時性のウェブ上にあるAmazonレビューが文学の「遅れ」を奪うなどと、

まあ、ご自分の知性の程度と文学への信頼の無さを恥ずかしげもなく晒したものですね。

と同時に、あなた自身が『自生地』にAmazonレビューより長く生き残る価値を認めていないことを自ら示してしまったのですよ。

ああ、これだから匿名で書くしかないのですね。

俳人として名をさらしてこんなことを書いたら大恥ですから、匿名にしておいてよかったですね。

 

僕はコミュニカブルな人間なので、一応あなたの反論をお待ちしています。

 

 

 

評価:
福田若之
東京四季出版
¥ 1,836
(2017-08-31)

『神道入門』 (ちくま新書) 新谷 尚紀 著

  • 2018.05.20 Sunday
  • 10:27

『神道入門』 (ちくま新書)

  新谷 尚紀 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   「神道とは何か」を通史で解き明かす試み

 

 

本書は「神道とは何か」を柳田国男の系列にある民族伝承学の立場から探求したものです。

最初こそ折口信夫の「かむながら」という語についての考察が取り上げられていますが、

本書全体の内容は通史的なアプローチが中心なだけに、

歴史的な手続きや文献の紹介は相当にしっかりしているという印象がありました。

読者は著者の専門を特に意識しなくても読んでいけると思います。

 

「神道は、その本質は、素材materialsにではなく、形式formeにある」

新谷はそう述べて、神道は「容器」であるという結論を冒頭で示しています。

一般的に宗教には教祖・教義・教団の3つの要素があると言われますが、

神道はそれらが曖昧であるため、一般的な定義としては宗教と呼びにくいことは確かです。

乱暴に言ってしまえば、これという内容がないために、「容器」だと言うしかないということでもあります。

 

新谷は指摘していないことですが、一般的な宗教は特定の国家と密着していないものです。

しかし、神道は日本という「場」にひどく密着しています。

「容器」にしても、その容れ物が日本という「国」とあまりに密着しているのはなぜなのでしょう?

(ユダヤ教はユダヤ人と密着しても、「国」とはさほど密着していません)

新谷の考察がこのことに及ばなかったことが僕には不満ですし、

そのために本書の結論が不明瞭で曖昧なまま終わってしまったように思います。

 

記録の中で「神道」という語が初めて登場したのは『日本書紀』ですが、

神祇信仰と神祇祭祀を意味で宗教的な体系性はなかったと新谷は述べています。

桓武王権の時に使われた「神道」の語には、古来の神器祭祀という意味に加えて、

世に益を与える目的を備えた儒教的な徳治思想の考え方が混じります。

任命天皇の勅では、神道は仏法に従属するものとされていたりします。

このように、神道は儒教や仏教の混合物のようになっていて、

実際は儒教や仏教に対して独立した同一性を持つものと考えるのは難しいことがわかります。

これを新谷は「神道」という語の「包括力の強さ」としています。

 

中世の神道、近世の神道、近代の神道、それらに一貫して見出すことのできる特徴とは、まさにこの、どんな意味でも吸い込んでしまう「神道」という語の包括力の強さなのである。

 

こうして新谷はそれぞれの時代の「神道」の意味するところを描き出していくわけですが、

「どんな意味でも吸い込んでしまう」ということを裏から考えれば、

これといった歴史的同一性を持っていないということになるわけです。

そのつどそのつど自分を満足させる「言い訳」さえあればいい、

そのような場当たり的な肯定感(スキゾフレニー!)こそが日本という「容器」の正体ではないかと僕は疑っています。

 

それが最もよく現れたのが、室町時代後期に創唱された新しい神道である吉田兼倶の吉田神道・唯一神道ではないでしょうか。

吉田神道は密教や道教や陰陽道を模倣しつつ、神道が仏教伝来以前から日本に存在した正統な教えであることを主張しました。

外来文化を取り入れて成立したものが日本文化であるのに、それに先立って日本独自の本質があったと主張したがる、

このような心理は明治以後の国家神道にもつながっています。

 

兼倶の独自性は、積極的にみずから経典を偽作し(「神明三元五大伝神妙経」等々)、神話を捏造して(国常立尊を大元尊神として主神として、天照大神が天児屋根命に授けてその子孫である卜部氏が代々相承してきた神道だと主張するなど)、仏教中心ではなく神祇信仰を中心とする新たな神道説を強引なまでに主張しそれを実際に広めていった点にあった。

 

吉田兼倶は偽造と捏造によって、神道が万法の根本であって、仏教や儒教はその枝葉にすぎないと主張したのですが、

その考えも兼倶のオリジナルではなく、『鼻帰書』をもととした両部神道の流用だと新谷は述べています。

新谷は中世神道の姿として語っていますが、僕は典型的な後進国のやり方だと感じます。

 

近世神道になると、江戸幕府の支配イデオロギーである儒教を背景にした神道論が見られるようになります。

林羅山の理当心地神道では、儒学は神道を含むものとされ、神道の実践が儒教的な人徳の政治の実践だとされました。

山崎闇斎が唱えた垂加神道は、朱子学の理と神道の神を結びつけ、

人の心には天の理である神が内在し、神が心の本質をなしているとして、

それを「天人唯一之道」と表現しました。

これを唯一具現したのが天照大神であるとしたことで、

「君(天皇)の地位は絶対不変であり、君が不徳の場合でも君臣合体の境地に至るまで相互に努力すべきである」としたと新谷は述べます。

天皇への絶対的な信仰を説いたこの垂加神道は、のちに尊王論へとつながっていきます。

 

平田篤胤の復古神道は戦前の国家神道との関係でイメージが良くないのですが、

新谷はその後のことはともかく、当時の平田篤胤の実像を描くことに精を尽くしています。

しかし、僕にはやはり平田の思想自体に戦時国体の精神につながるものを感じないわけにはいきませんでした。

 

平田篤胤は、あらゆる事物の背後、究極に神が実在する、という考えをもとにして、人間の本性を、産霊神の御霊によって授けられた情・性・真の心であり、それに対して偽らずに生きる道を、真の道だ、と解説したのである。

 

このような思想は戦時の浄土真宗から登場した暁烏敏の思想と酷似しています。

つまり、現世の欲望を偽らずに解放する享楽的生活こそが神の道であるという考えです。

儒教も仏教も人の真の情に逆らった実行不可能な掟を立てている、として、

平田はそれらを退けて皇神の道を語るのですが、

新谷は平田の教説にも儒教や仏教の類似が見られると指摘しています。

 

本書はこのあと明治政府による神道政策や国家神道について見ていくのですが、

新谷は明治政府の神道政策は長州派の維新官僚が作り上げたもので、平田などの近世神道とは直接の関係を持たないと考えています。

しかし、僕はこのような神道の歴史を見てみると、現在まで続いている日本人の「らしさ」というものを感じないではいられません。

外来文化を勤勉に摂取し、それを自己流に工夫し利用して、最終的に集団的ナルシシズムの充溢をめざすというルートです。

 

これを段階的なものとしてまとめましょう。

佐野波布一の日本精神の歴史的段階論とでも言っておきましょうか。

 

 ヽ依菠顕修龍佇戮弊歇

◆ヽ依菠顕修鮗己流に工夫して利用

 それを自らのアイデンティティとして捏造

ぁ^きこもり的内輪享楽にふけって自滅、混沌、衰退

 

日本人のメンタリティはだいたいこれの繰り返しではないでしょうか。

戦後日本の歩みもこの流れに合致すると思います。

もちろん現在は第い涼奮にあたります。

共同体のあり方を個人がどうにかできるはずもなく、僕はこの流れを冷静に見つめていくだけですが、

歴史の必然には逆らえないのではないかと思っています。

 

 

 

『ヘーゲルと現代社会』 (晃洋書房) 寄川 条路 編著

  • 2018.05.15 Tuesday
  • 22:05

『ヘーゲルと現代社会』 (晃洋書房)

  寄川 条路 編著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   現代に生き続けるヘーゲル思想

 

 

日本では20年以上の間、出版業界やマスコミでは現代思想というと〈フランス現代思想〉一色で、

〈フランス現代思想〉ファシズムと言ってもいい状態を続けてきました。

そのため、マルクス・ガブリエルのようなドイツ思想家の紹介文や対談相手まで、

〈フランス現代思想〉研究者が指名される滑稽な国になってしまいました。

このような状況下で、

ドイツの現代思想研究者は日本に存在しているのか、と疑問に感じるのは僕だけではないと思います。

それで大きな書店で探してみたところ、本書と出会いました。

晃洋書房──やっぱり商売気の強い出版社ではないんですよね。

 

日本でほとんど過去の人扱いされているF・ヘーゲルの思想は、

海外ではヘーゲル・ルネサンスと言われるくらい取り扱われています。

(それを考えるだけでも、日本の〈フランス現代思想〉偏重が非学問的動機を背景にしていることがわかります)

その見取り図を示したのが、本書の姉妹編といえる『ヘーゲルと現代思想』ですが、

マルクス・ガブリエルについて書かれた論考が入っていたので、こちらを先に読ませてもらいました。

 

小井沼広嗣が執筆した第1章は、ヘーゲルを再評価したチャールズ・テイラーを取り上げます。

テイラーはヘーゲルを共同体主義者として評価しています。

近代になって登場した自由な個人は、

自分自身で自分の生き方を規定する「自己規定する主体」となりましたが、

そのかわり、自己を束縛するいかなる具体的な状況をも拒否するために、

現実に着地できない存在となってしまいました。

そこでテイラーは状況によって自由を規定する「状況づけられた主体」が重要だと考え、

ヘーゲルの「客観的精神」などを援用しつつ、それを探求したのです。

 

総括的にいえば、テイラーは、ヘーゲルが啓蒙主義に由来する「自己規定する主体」を批判し、代替として「状況づけられた主体」を探求した点において、ヘーゲルを評価する。しかし、そこで提示された自己、ならびにそれを可能とする文化的共同体が、最終的には宇宙的精神が自らを表現するさいの媒介物として解釈される点については、ヘーゲルに対し否を突きつける。

 

小井沼がこう述べるように、テイラーは言語などの文化的な共有財産によって成立したヘーゲルの「客観的精神」を評価するのですが、

ヘーゲルがその先に見た形而上学的な「宇宙的精神」については受け入れていません。

ここでは「状況づけられた主体」に基づいて多文化主義的なアイデンティティの相互承認の重要性に至る、

テイラーの共同体を重視した思想のあり方がまとめられています。

 

岡崎龍による第2章は、G・ルカーチの「物象化」論を再構成したアクセル・ホネットの思想と、

それに対する批判を紹介しています。

ホネットは「承認」を人間にとって本来的なものと捉え、物象化が承認を忘却すると批判しました。

岡崎はこのホネットの論に対するD・クヴァドフリークとJ・バトラーの批判を確認したあと、

再びルカーチの物象化の考察へと戻ります。

 

自分に属する契機がすべて商品化されたプロレタリアートは、客観的存在としての主体でしかないとルカーチは言います。

主体を否定して客体化したプロレタリアートは、その物象化した状態を逆説的に主体性としているのです。

岡崎はルカーチに関連するヘーゲルの『精神現象学』を読み直し、

客体としての「事そのもの」が、主体へと移行することを考察することで、

ルカーチの物象化論の構想を捉え直そうとしています。

 

鈴木亮三の第3章では、J・ハーバーマスの『自然主義と宗教の間』を取り上げて、

哲学の脱宗教化についてヘーゲルの祭祀=供犠の考察を参照しつつ考えていきます。

 

岡崎佑香の第4章は、J・バトラーが『アンティゴネーの主張』で展開したヘーゲル批判を扱っています。

岡崎はバトラーとヘーゲルそれぞれの解釈を比較して、ヘーゲルが女性の欲望と共同体をどう関連づけていたかを明らかにします。

 

飯泉佑介が書いた第5章はマルクス・ガブリエルの新実在論を扱っています。

ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』は体系的な思想書として完成しているとは言い難いため、

その後のガブリエルの学術論文を読んだであろう飯泉の論考が楽しみでしたが、

読んでみて、彼の主張には大いに不満が残りました。

 

飯泉は重層的な対象領域や意義領野(Field of Sence、「意味の場」)に基礎付けられたガブリエルの存在論を、

「階層理論的な無世界論」と捉えて、ヘーゲルの思想と照らし合わせていくのですが、

僕がガブリエルのレビューで書いたように、彼の「意味」(意義)の再評価に着目せずに世界の不在だけを語る理解は、

ガブリエルの思想を去勢するような読み方でしかありません。

 

伝統的に形而上学が「実在の全体」(omnitude realitatis)を対象としてきたことを踏まえるならば、無世界論的な新実在論はまさしく「メタ形而上学的ニヒリズム」と呼ばれるにふさわしい。「世界は存在しない」という主張は、形而上学の対象そのものが存在しないことを意味するからである。しかし、そこから新実在論の意義が何よりも反形而上学的な考え方にあると推測するのは誤りである。なぜなら、この考え方だけを取り出すならば、それは、ハイデガーやルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの形而上学批判にも見て取れるからである。

 

このように飯泉はガブリエルの新実在論が「反形而上学」であるという理解を「誤り」とまで強調するのですが、

その根拠がハイデガーやヴィトゲンシュタインの形而上学批判が結果的に形而上学だったから、という意味不明なものなのです。

ハイデガーが存在の全体を「無」と捉えたことと、ガブリエルの世界の不在という主張を結びつけ、

世界の不在=無世界と解釈してしまうわけですが、これは飯泉の手前勝手で短絡的な解釈でしかありません。

それは世界の全体を語ることを禁じるガブリエルの主張に逆らう行為でしかありませんし、

普通に考えても、「世界は存在しない」という言明と「世界の全体は無である」という言明が、

同じ意味を表していると解釈することは論理的に誤っていると言えます。

もし、ガブリエルが世界の全体を無世界と考えているとするなら、ガブリエルの文章を引用してそれを立証するべきでしょう。

「ハイデガーもそうだったから」では理由になりません。

 

ドイツ観念論の研究者であるガブリエルに形而上学的な志向がないとは僕も思いませんが、

それを「世界」という全体性の観念で捉える形而上学に関しては、ガブリエルは明確に反対していると思います。

その意味では反形而上学的な解釈を「誤り」とまで断言することが妥当だとは思えません。

このように飯泉はガブリエルの主張に反して世界の全体を語る形而上学視点を守り続けるため、

最終的に矛盾を自ら露呈するような文章を書いてしまいます。

 

ところでガブリエルの領域存在論も、無限の諸領域の動的な階層構成によって「世界」を考察する方法論だった。それゆえ、ガブリエルはヘーゲル哲学の方法論的特徴を摂取し「再構成」して、自分の領域存在論を練り上げたと推測できるのである。

 

飯泉の中では「世界は存在しない」ことを主張したガブリエルの論が、

「階層構成によって「世界」を考察する」領域存在論になってしまっています。

世界を考察する方法だったら、世界は存在しているじゃん!

もうガブリエルの主張が台無しです。

あげくヘーゲルの「再構成」とまで言うのですが、F・シェリング研究者であるガブリエルにシェリング思想の影響はないのでしょうか。

(まあ、「推測できる」らしいので勝手に書いても良いのでしょうが)

 

僕はガブリエルの思想には、人間主体を基盤とした意味の再評価によって、非人間的領域のメタ化を禁じる狙いがあると思います。

自然科学の一元的専横などの、人間不在のメタ化を戒めたいという思いは、

ガブリエルが意味を重視していることでも明らかではないでしょうか。

もし、飯泉の解釈が正しいのなら、なぜ彼の解釈からはガブリエルが意味を重視したことが抜け落ちてしまうのでしょう。

自分にとって都合の悪いところは無視し、都合のいいところを「再構成」してわかった気分になる、

日本の西洋思想研究にありがちな態度だと感じました。

(ガブリエルが2015年以降に『意義領野』とか『意義と存在』という題名の論を出していることはどうなるのでしょう)

〈フランス現代思想〉は日本では本国の思想とかけ離れたインチキ思想になりましたが、

こういう論を平気で書くようだと、ドイツ思想の研究者も同じ穴のムジナだということになってしまいます。

 

帯には「社会問題に切り込む実践の書」とありますし、「まえがき」にも「ヘーゲル哲学の実践編となる」とありますが、

本書には具体的な社会問題が言及されているわけでもなく、実践的な要素は皆無でした。

本書はどう見ても思想を紹介したり考察したりする普通の思想書です。

題名や本全体の方向性のアピールについては、もっとふさわしい書き方があるように思います。

 

 

 

評価:
寄川 条路
晃洋書房
¥ 2,052
(2018-03-30)

他人の問題行為に乗っかって言論弾圧に加担するクサレ俳人への佐野波布一コメント

  • 2018.05.10 Thursday
  • 23:39

 

  他人の問題行為に乗っかって言論弾圧に加担する

  クサレ俳人への佐野波布一コメント

 

 

 

   集団で悪口をリツイートするのは「イジメ」の構造そのもの

 

 

去る4月16日に立命館大学の准教授でフランス現代思想の研究者である千葉雅也が、

彼の著書『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する僕が書いたAmazonレビューに対して、

ツイッターで「侮辱」だ「中傷」だと騒ぎ立て、自分のフォロワーを僕への批判投票に駆り立てただけでなく、

自らAmazonに毎日毎日違反通告をして、僕のレビューを6回も消去させました。

 

そのツイッターの文面とそれに対する僕の反論は4月25日のブログに載せてあります。

そこでも書いていますが、Amazonレビューにはガイドラインがあり、誹謗中傷や扇動と見られるレビューは非掲載となります。

繰り返し掲載できるということは、アマゾンの判断ではガイドラインには抵触していない、誹謗中傷ではないということです。

つまり、千葉は自分にとって不都合なレビューを、「侮辱」「中傷」と難癖をつけて消去しようとしたのです。

こういう態度は不都合な内容を書き換えてしまう財務官僚と同様のものと言えると思います。

 

さらに問題をはっきりさせておきたいのですが、

僕のような自分の文章から1円たりとて収入を得ていないアマチュアの書くものを、

プロであるはずの人物がAmazon上から排除しようと必死になるのはなぜなのか、ということです。

所詮はアマチュアの言っていることなのですから、放っておけばいいはずなのです。

それなのになぜ千葉はファンを動員するパワハラを行ってまで、執拗に僕を攻撃するのでしょうか?

 

それはおそらく、僕のレビューに好意的な投票をした人が相当数いるからです。

変な人が勝手なことを言っているだけなら、自然淘汰されるのがAmazonレビューです。

僕の書いた千葉の著書のレビューはいつも上位に位置していました。

このように批判者が可視化されることに、千葉は我慢がならないのだと思います。

賛同者が一定数いるのに、千葉は僕のことを「悪質」だのなんだのと文句を言い、

果ては「弁護士が中傷と判断している」などと僕のレビューのコメント欄に貼り付けて、

まるで僕が違法行為でもしているかのように印象操作を行いました。

千葉が有名であることを利用して言論弾圧をしていると僕は感じました。

 

あまりに不愉快だったので、

僕は千葉雅也を雇っている立命館大学に、このような千葉の行為が教育者としてふさわしいと考えているのか、

メールで問い合わせました。

無責任な教育機関である立命館大学は返答をよこしませんが、

それ以後、千葉が僕を名指しで悪く言うツイートはなくなりました。

何があったかは、推して知るべし、というところです。

 

つまり、千葉の僕に対するツイートはあらゆる角度から考えても不適切なものだったわけです。

千葉自身が悪口ツイートと違反通報を控えたことに、彼のツイートの不適切さがハッキリと現れています。

 

さて、ここからが本論です。

このような千葉雅也の恥知らずな言論弾圧ツイートの尻馬に乗って、

それをリツイートして世間にばらまいた卑怯な俳人たちがいるのです。

これらの俳人は宣伝塔として積極的に僕の言論を弾圧する行為の片棒を担いだわけですが、

集団で同時多発的に事実に基づかない不適切ツイートを拡散させることが、

僕に対する「イジメ」(もしくはネットリンチ)に当たるのは明らかです。

 

この俳人たちが自分の著書への批判レビューを「根に持っていた」ことは想像できますが、

自分自身では僕に反論もしなかったのに、

あろうことか大学から戒められるような千葉の行為を利用して、

寄ってたかってリツイートで言論弾圧行為に加担するという汚いやり方で、自分の復讐心を満足させたのです。

なんて程度の低い人間たちなのでしょうか。

 

リツイート程度の行為に罪がないということはありません。

たとえばマット上の人間に上から大勢が覆いかぶさって圧死させたとして、

1人目には罪があり、7人目には罪がないなんてことがあるでしょうか。

「中傷」に乗っかって裏から言論を弾圧する人間が、いっぱしの表現者の顔をしていることが僕には許せません。

コイツらが僕に伝わるように謝罪しないならば、

(どうせそんな勇気があるわけはないでしょうが)

僕がコイツらを「クサレ言論弾圧俳人」と呼んでも誹謗にも中傷にも当たらないことを先にことわっておきます。

 

では、僕がつきとめた性根の腐った弾圧俳人どもを発表しましょう。

関悦史、鴇田智哉、田島健一、宮崎莉々香、大塚凱の面々です。

本当にクズですね。

あとで証拠のスクリーンショットを貼っておきますが、

コイツらは俳句素人の千葉による的外れの文句を、

お仲間の福田若之『自生地』を擁護したいから(もしくは僕への意趣返し)という理由でリツイートしています。

そのツイートの一つがこれです。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

検索してみたら、福田若之『自生地』に対する佐野波布一のレビューを見つけたのだが、これがまた本当にひどい。福田さんの作品をラノベ的感性によるナルシシズムの発露と決めつけている。なんでもナルシシズムだと断罪すれば批判できたつもりなんだろう。

午後7:36 · 2018年4月16日

 

福田の『自生地』の散文が雑誌「ファウスト」経由のラノベと類似していることについては、

福田を褒めた青木亮人という学者も同様のことを書いています。

(青木は舞城王太郎を想起すると書いたのですが、舞城は「ファウスト」で執筆していた元ラノベ作家です)

それから「ナルシシズムの発露」であることは、福田の文章を丁寧に読解したプロセスがあるのですから、

同意できないからって「決めつけている」と言われる理由はありません。

またナルシシズムが「ラノベ的感性による」なんて、僕はどこにも書いていません。

福田の散文にラノベの影響があると書いただけです。

 

千葉という男は根拠を示しているのに「中傷」と言ったり、

著書を引用して書いているのに「罵詈雑言」と言ったり、

人の書いたものをまともに読む気がない不遜きわまりない虚言モンスターなのです。

こういう病人一歩手前の人間の書いたものを、内容を確かめもせずに垂れ流す行為がいかにクズであるか、

クサレ言論弾圧俳人どもは「相手憎し」となると考えもしないわけです。

(そもそも自分で考える力自体がないのかもしれませんが)

俳人ともあろう者がこんな的外れな内容のツイートを拡散することには「悪意」しか感じません。

 

彼らが僕をイジメたがっているのは、僕に批判的なレビューを書かれただけでなく、

千葉の時と同じように、そのレビューに賛同の投票が相当数集まっているからです。

つまり、一定数の人が同様に感じているのが明らかにもかかわらず、

自分の作品を反省するのではなく、発信した僕を貶めればいいと考えたわけです。

こういう人間は端的に「文学自体をナメている」と断言できます。

作品が良ければ僕が悪く書こうと多くの人が賛同するはずありません。

 

作品の良し悪しは作品と向き合った読者が決めるものなのに、

コイツらは作品そのものよりツイッターのようなメディアに依存して生きているため、

メディアで悪い評価を発信した奴がいなければ、作品への悪い評価自体がなくなると考えているのです。

こんな勘違いは俳句自体の力を信じていないことを表明しているだけですし、単なる責任転嫁でしかありません。

 

他人の行為に乗っかって気に入らない奴に仕返ししてやろう、という態度がいかにくだらないか、

そんなことも自覚できなくなるからツイッターというメディアはクソなのです。

手っ取り早い自己宣伝メディアであることはわかりますが、

自分で責任を負うことなく、怪しげな内容で風評被害を巻き起こす、悪性のプロパガンダ・メディアという危険な面も持っています。

千葉のような素人の誤った意見に乗っかって悪意を垂れ流し、

自分の名前では僕の批判をしようとしないこの日和見俳人たちが、

いかに三流の表現者でしかないか、自ら思い至る必要があると思います。

彼らが少しでも自分自身に責任を持てる人間であるならば、自分の行為を反省するはずです。

それもできないで、したり顔で麻生太郎や社会問題の批判をする資格などあるはずもありません。

 

そもそも、自分自身で責任を負わないリツイートによる批判は、

言葉を持たない弱者のとる手段であって、表現者ヅラした人がやるべきことではありません。

個人の自由なのでダメとは言いませんが、ザコな人間であることを自ら示していることくらい自覚しておいてください。

つまり、間違ってもコイツらには表現者やアーティストの資質もなければ、覚悟すらないということです。

結果として僕の批判はやっぱり正しかったわけです。

まあ、今の腐った日本ならザコの悪事ぐらいでは目立たないで終わるのかもしれませんが。

 

さらに言えば、集団で風評を垂れ流すのもみっともないし、感心しません。

自分の名前で意見も言えず、人を貶める行為すら一人でやれない人たちだから、

いつまでもみんなで寄り集まって低レベルの合同句集を出すしか脳がないのです。

まずはお友達から離れて一人で言論活動をしてみてくださいな。

いつまで幼稚園のお遊戯気分なのでしょうか。

いや、ホントに、キミたちいくつでちゅか〜。

 

本当にクソすぎてコイツらの卑怯さに僕は自然と腹が立ってしまうのですが、

おそらく俳句界では内輪主義が普通になっているため、

彼らの言論弾圧の後押しがいかに問題行動であるかが、外部の人より見えにくくなっていると想像します。

ですが相撲界と同じく、外の社会常識を尊重することは大切です。

俳句界の外の人間だから無責任な方法で「イジメ」てもいいだろう、などと考える連中を、

俳句界が自浄できないのであれば問題です。

こういう人間を内側からちゃんと批判しないから、外部を遮断すればすむという甘い考えを持たれるのですよ。

 

僕は四ツ谷龍という俳人にも、彼のステマ行為を批判したことで「頭がおかしい」などとツイートされたのですが、

俳句界には倫理というものがないらしく、いつまでも謝罪をしません。

自分を批判する人間は人間扱いしなくていいとでも思っているのでしょうか。

そういう専制的な態度が、いかに外部の人間を見下す姿勢からきているかがよくわかります。

関悦史も鴇田智哉も四ツ谷龍に最高得点を入れてもらって田中裕明賞を受賞した人物ですし、

プライベートでも親しくしている関係ですので、

年配の四ツ谷がこんな態度であれば「若手」もそれに倣うのは当然なのかもしれません。

外部の人間に対する態度こそが、その人の「真の」人間性を表しているのだということを、

(本気でフランス思想に興味があるのなら)彼らは肝に銘ずるべきだと思います。

 

 

   クサレ俳人たちのリツイート集

 

 

関悦史

 

 

鴇田智哉

 

 

田島健一

 

 

宮崎莉々香

 

 

大塚凱

 

 

 

 

 

評価:
鴇田智哉
ふらんす堂
¥ 4,882
(2014-09)

評価:
田島 健一
ふらんす堂
¥ 2,592
(2017-01-17)

『高学歴モンスター : 一流大学卒の迷惑な人たち』(小学館新書) 片田 珠美 著

  • 2018.05.09 Wednesday
  • 10:48

『高学歴モンスター : 一流大学卒の迷惑な人たち』

(小学館新書)

  片田 珠美 著

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   自己愛過剰社会が高学歴モンスターを生む

 

 

学歴偏重社会である日本では、高学歴というだけで価値がある人間だという評価が得られたりします。

本来立派であるはずの一流大卒の高学歴な人が周囲に迷惑を巻き起こす事例が最近目立っています。

そんな「高学歴モンスター」の精神構造を、精神科医である片田が豊富な実例とともに分析し、対処法をレクチャーするのが本書です。

 

冒頭は「この、ハゲーッ!」発言で知られる豊田真由子元衆議院議員の事例で始まります。

高学歴エリートがモンスター化する例としてはこれ以上のものはないため、つかみは完璧です。

他にも務台俊介、今村雅弘、山尾志桜里、大王製紙の井川意高などを取り上げて、

片田はこれらの人物の特徴を以下のようにまとめています。

 

 ゞい特権意識

◆〜杼力と共感の欠如

 現実否認

ぁ‐況判断の甘さ

ァー覚の欠如

 

学歴によって「自分は特別だ」という特権意識を持つため、

他人への想像力のない自己中心的な振る舞いを平気でしてしまう、

その自己中心的発想を正当化するために現実を認めないので、

状況判断もできなければ、自分を客観視もできないのです。

精神医学の学問的背景があるだけに、この分析に関しては非常に妥当だと感じました。

おそらく、誰もが周囲にいる肩書きだけで中身のない人物について思い当たるのではないでしょうか。

 

片田は高学歴の人がこのような「モンスター」となる要因に、自己愛の強さがあることを指摘します。

アメリカの精神科医のグレン・ギャバードがナルシストを「無自覚型」「過剰警戒型」の2種類に分けたことを紹介し、

本書に取り上げた人物には「無自覚型」のナルシストの特徴が当てはまるとしています。

片田はその無自覚の奥には「鈍感さ」があるとして、その原因を以下の3つに整理します。

 

 ,發箸發抜脅性が低い

◆‖梢佑糧娠を遮断

 周囲の容認

 

片田は「無自覚型」になりやすい人物として、「先生」と呼ばれる人や、

「高学歴のうえ、社長の御曹司」という条件を挙げています。

この辺りの指摘も「身につまされる」ほどに納得しました。

 

僕が「身につまされる」というのは、実は僕自身が「高学歴モンスター」に嫌な目にあわされているからなのです。

僕が立命館大学の准教授である千葉雅也の著書に、Amazonで批判的なレビューを書いたところ、

千葉が自身のツイッターで「侮辱」だ「中傷」だなどと騒ぎ立て、

果ては僕のレビューのコメント欄に「弁護士に相談している」などと貼り付け、

なにか僕が違法行為でもしているかのような印象操作を行いました。

 

僕のレビューは千葉自身の文章への応答となっているので、よく読めば批判される原因はすべて千葉自身の文章にあるのですが、

千葉は自身の発言についてを省みることなく、一方的に僕の悪口をツイートしたのです。

本書を読んで、僕は千葉雅也が「無自覚型」ナルシストに加えて「過剰警戒型」の特徴もかなり持っているように感じました。

 

「無自覚型」が「他人の反応を遮断する」ことの理由は、

ナルシストが自己愛が傷つくことを恐れて、自己評価を守ろうとするからだと片田は述べています。

その傾向がさらに強まったのが、「過剰警戒型」ナルシストなのだそうです。

 

このタイプは、他人の反応に過敏で、他人の言葉に少しでも批判や侮辱が含まれていると感じると過剰に気にする。これは、羞恥や屈辱に人一倍敏感で、ちょっとしたことで傷つけられたと思いやすいためである。要するに、自己愛が傷つきやすいからこそ、過剰に警戒して守ろうとするわけだが、こうした傾向は「無自覚型」にも認められる。

 

この片田の記述を読んで、僕はまさにその通り、と思いました。

片田は本書の最後でエーリッヒ・フロム『悪について』に書かれた「悪性のナルシシズム」に触れています。

ナルシシズムにも良性と悪性があり、その分かれ目は努力の結果で得られたものか否かにあります。

努力や経験に裏打ちされたナルシシズムは良性ですし、基盤があるものなので他人の批判など恐れる必要はありません。

しかし、与えられたものによって成立した悪性のナルシシズムの場合、自分自身に基盤がないため、

高い自己評価は表面上のメッキでしかなく、小さな傷でペロッと剥がれてしまうということです。

 

これを反転させて考えると、

揶揄程度の批判でしかないものを「侮辱」だ「中傷」だと騒ぐ人は、

自分の評価がメッキで成立していると「無自覚」に認めていることになるのではないでしょうか。

千葉はたいした研究実績もなく、マスコミの引いたレールの上でチヤホヤされているだけの人なので、

与えられたメッキでしかない自己評価を守ることに必死になっているわけです。

 

准教授でもあるような人が、無名のネットレビュアーなどに執拗に文句を言っても得られるものはないはずなのですが、

高学歴エリートの中には幼児期のナルシシズムを引きずっている人がいて、

そういう人に「拒絶過敏性」が現れるそうです。

 

自尊心の傷つきを恐れるあまり、他人のささいな言動を批判や非難、ときには無視や拒否のように受け止めて否定的に解釈することもある。これは、精神医学では「拒絶過敏性」と呼ばれている。

 

「過剰警戒型」ナルシストと類似していますが、

うすっぺらい自尊心を持つ人間ほど、ほんの少しの批判にも過剰に反応するということでしょう。

俗に言う「弱い犬ほどよく吠える」ということですね。

千葉のような勉強が自慢の人が専門領域で反論をすることもできないなんて、自分の中身がないことを自ら証明しているだけなのですが、

それが「無自覚型」ナルシストというやつなのでしょう。

 

話を本書に戻します。

本書に感心したのは、単に困った人の症例を紹介するだけにとどまらず、

その原因が社会にあることにまで踏み込んだ点です。

片田によると「アメリカは世界一の自己愛過剰社会なのだ」そうですが、

その原因として心理学者たちの自尊心ブームがあると見ています。

アブラハム・H・マズローが自尊心の欲求を上位の階層に位置づけて、

ナサニエル・ブランデンが自負心を「人生の鍵」とまで評価したため、

自尊心とナルシシズムが混同されて、自己愛過剰の状態に陥ってしまいました。

その影響が遅れて外来思想をありがたがる日本にも到来し、子供を褒めて育てればいいという、

いたずらにナルシシズムを高めるやり方が広まりました。

 

フロイトは「経験によって強化された全能感」こそが健全な自己愛としているのですが、

「叱らず、ほめる子育て」が横行し、「経験にもとづかない全能感を抱く子供が増えた」と片田は述べます。

問題はそんな幼児的全能感を大人になっても抱え続けている大人が多いことです。

片田はハッキリとは書いていませんが、まともに叱れない親に問題があると言えます。

 

片田は高学歴モンスターを変えるのは無理だと言います。

その前提で対処法を述べているのですが、なるべく関わらないほうがいいという方向性でした。

関わったあとの有効な対策が書かれていないことが少し不満でしたが、

片田が「無自覚型」ナルシストの「鈍感さ」の原因として、「周囲の容認」を挙げていることを思い出す必要があります。

もともと高学歴を誇る人は、権力の源泉である世俗のヒエラルキーに従順です。

周囲が何も言わないから彼らはつけあがるのであって、

世俗権力から問題を指摘されれば態度を改めざるをえないわけです。

僕は千葉の所属する立命館大学に彼の行状を問い合わせるメールを送ったのですが、

それ以後、僕を名指しした悪意のツイートはパッタリなくなりました。

敗北した千葉の自分を納得させる勘違いツイートが傑作なのでちょっと載せます。

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中

@masayachiba

 

自分で自分を肯定するというのは簡単ではない。一時的ではあれ、それに成功した状態は、気持ち悪がられる。それが成功していない方が普通だからだろう。

午後11:14 · 2018年5月4日

 

千葉の自己肯定はナルシシズムの強化でしかないため、

ナルシストであることは簡単ではない、と言っているのと同じです。

なかなか成功しないことを成し遂げている僕はすごいから、キモがられるのだ、という難易度の高い(?)自己肯定発言です。

一生やってろ、と言いたいですね。

 

御神体が鏡であることでもわかるように、日本はもともと自己認識のメカニズムにナルシシズムを置いている国です。

それを暴走させないために「世間の目」を意識させる村社会構造が必要とされていました。

近代的個人の自覚を育てずに「世間の目」だけを解体したために、こういう勘違いした人間を多く生み出しているのです。

ある意味、「高学歴モンスター」はそれを容認する周囲の人間が生み出しているということ、

もっといえば学歴だけで人間を評価しすぎる「肩書き社会」に問題があることを、

片田にはもう少し強調してほしかったところです。

 

 

 

『若い読者のための経済学史』 (すばる舎) ナイアル・キシテイニー 著

  • 2018.05.07 Monday
  • 08:07

『若い読者のための経済学史』  (すばる舎)

  ナイアル・キシテイニー 著/月沢 李歌子 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐

   若くなくても十分面白い

 

 

イエール大学出版局のLittle Historiesシリーズの経済学にあたるのですが、

著者のナイアル・キシテイニーは学者ではなくて経済ジャーナリストなんですね。

イギリスの有名大の学者は手っ取り早い見取り図など示さないし、

イギリスのジャーナリストは広範な知識を持っていて、大学から認められるような体系的な本を書けるのだと思いました。

 

本書はトピックごとに40の短章で構成され、1章の中で経済学に関わる人物が何人か取り上げられています。

大きく見て時系列に進んでいくため、

原題はECONOMICS(経済学)でしかありませんが、「経済学史」と名付けても違和感がない内容です。

一冊で手っ取り早く経済学の流れを追いかけたり確認したりするには、

読者の年齢にかかわらず有用な本だと思います。

 

たとえば2章ではプラトンやアリストテレスが取り上げられます。

そこではアリストテレスが貨幣を交換のためではなく、

貨幣自体を増やすため、つまり利子を取って利益を得ることを批判していたことが述べられています。

 

6章ではアダム・スミスが登場します。

ここではスミスの主著『国富論』の内容をサッカーの喩えで説明しています。

サッカーでは個人の利益を追求すると全体の利益を害するので、全体の利益に貢献する選手が求められます。

しかしスミスの発想は全く逆で、人々が自分の利益を追求することで多くの人の利益になるとするのです。

サッカーには全体を統括する監督がいるが、経済にはそういう存在が見当たらないことを、

スミスが「見えざる手」と呼んだのだという説明はなかなか秀逸です。

 

10章ではK・マルクスの思想をコンパクトにまとめています。

商品を生み出す資本とは「権力」であり、財産を持つ者と持たない者との分断に依存しているなど、

教科書的な一通りの記述ではない、より身近に感じられる説明の仕方をうまく選んでいると思います。

 

16章では社会主義の中央計画経済の欠陥を、L・ミーゼスの論によってわかりやすく説明します。

資本主義では市場の価格変動によって自然と需要のある商品の生産が増えていくのですが、

社会主義ではこれをすべて政府が決めるため、非合理的だとミーゼスは考えました。

 

18章ではJ・ケインズのセイの法則批判を、浴槽とホースの喩えで説明しています。

僕は過去にセイの法則の説明をいくつか読みましたが、こういうアプローチは初めてでした。

19章ではJ・シュンペーターのイノベーションによる「創造的破壊」を取り上げて、

シュンペーターがどのように資本主義が終焉すると考えたのかが書かれています。

 

21章ではミーゼスの弟子F・ハイエクが登場します。

ハイエクは戦後の経済が資本主義と社会主義の「混合経済」と考え、

政府の経済統制が個人の自由を奪うとして『隷属への道』を書きました。

ハイエクからしたらアベノミクスなど問題外もいいところですが、

今の経済学者の多くはハイエクの考えには懐疑的であるようです。

 

アベノミクスのことを考えるなら、29章のM・フリードマンの「マネタリズム」が役立ちます。

フリードマンがノーベル経済学賞を授与されるとき、抗議者が現れて会場から閉め出されたという話は初めて知りました。

貨幣供給を増やすことでインフレ率を上げるというやり方が、短期的な効果として考えられていたこと、

M・サッチャーとR・レーガンが実行してうまくいかなかったことなどがよくわかります。

 

このような有名人以外にも、いろいろな経済学者の理論が紹介されています。

23章に登場するシカゴ大学のゲーリー・ベッカーは、経済原則を社会や人間の行動を分析するのに用いました。

たとえば、多くの時間を要する行為を「時間集約型」と呼んで、その間に働いて得られる費用によって表す方法などです。

ベッカーによって経済学は汎用性を増したのですが、一方で経済学の範囲が広がりすぎたとも言われます。

「人的資本」という考えを提唱したのはベッカーです。

 

「情報経済学」という新分野を切り開いたジョージ・アカロフが、

売り手と買い手の間に情報の不均衡があることを指摘したことを説明する33章も興味深く読みました。

読む人によって興味深い章はそれぞれ異なるかもしれませんが、

全部で40章もあるのでおもしろく感じるところに当たる確率は低くない気がします。

僕は順番に読みましたが、読みたいところを拾いながら読んでも問題ないと思います。

 

ただ、一つだけ不満を言えば、「若い読者のため」とするならば、

ソフトカバーで手軽に持ち歩ける大きさにして、価格を抑えてほしかったです。

何年後かにどこかで文庫版として出るならば、その時にはもっとオススメできる気がします。

 

 

 

『後醍醐天皇』 (岩波新書) 兵頭 裕己 著

  • 2018.05.06 Sunday
  • 10:05

『後醍醐天皇』  (岩波新書)

  兵頭 裕己 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   建武の中興から「国体」の問題まで浮かび上がらせる知的興奮に満ちた一冊

 

 

本書を読み始めてすぐに、わずかな違和感を感じました。

歴史学者らしくない書き方だな、と思って著者略歴を確認すると、

兵頭は『太平記』の校注を担当した文学畑の学者でした。

ちょっとだけ心配しましたが、厄介な歴史的事実が過剰に記されることもなく、読みやすいと感じました。

その上、先行研究もしっかりと紹介してくれるので、おそらく歴史マニアから見ても不満のない内容だと思います。

 

兵頭も何度か触れていますが、

『太平記』は法勝寺の円観恵鎮が足利直義のところに持ち込み、そこで修正が加えられて成立しているため、

室町幕府寄りの記述になっていて、後醍醐天皇側には批判的です。

(たしか『梅松論』も幕府寄りの内容だったはずです)

 

さすがに専門家だけあって、兵頭が『太平記』と史実との違いを明らかにしていくところは読み応えがあります。

たとえば、後醍醐天皇が中宮禧子のお産の祈禱を行なったことについて、

『太平記』ではお産は隠れ蓑で、実は幕府の調伏を狙っていたことにされています。

その影響で幕府執権の金沢貞顕の書状の解釈が正反対になってしまう論があったりするのですが、

その代表が網野善彦『異形の王権』です。

兵頭は後醍醐天皇が重用した真言僧の文観弘真を、網野が邪教の祖としていることにも反論します。

『太平記』で文観が悪く描かれているのは、その後任で足利尊氏に仕えた三宝院賢俊を持ち上げたい事情があったからだと述べています。

『太平記』の成立事情を考慮しないと誤った解釈が生まれることを指摘した部分は、

まさに兵頭の本領発揮という感じがしました。

 

本書を読むと、後醍醐天皇がいかに宋学に通じたインテリであったかがよくわかります。

『太平記』にも宋学で根本経典とされた『孟子』の語句が多用されているのですが、

この時代に宋学など儒教の影響力があったという兵頭の指摘は、

文学畑の発想ということでは片付けられない真実味があります。

この後醍醐天皇の宋学教養が「新政」に失敗をもたらしたと兵頭は見ているのですが、

日本人が海外の権威を単純反映して失敗することは、確かによくあることに思えます。

 

ちなみに後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を考えたのは、持明院統と大覚寺統との天皇交代制という「慣習」から、

中継ぎ天皇として一代での退位を余儀なくされていたため、

その世話役をしている鎌倉幕府を倒して自分の天皇の地位を盤石にしたいと考えたからのようです。

 

また『太平記』本文で「楠」正成と表記されているものが、現在「楠木」正成となっているのは、

明治に官選国史の編纂をした川田剛がそれまでの記述をひっくり返したことによるそうです。

兵頭は川田説を支持していないため、記述を「楠」で統一しています。

 

このように、本書の読みどころはいろいろあるのですが、

僕が最も感心したのは、建武の新政の考察から天皇の直接統治である「国体」の持つ意味を掘り下げたことです。

 

兵頭は後醍醐天皇が「無礼講」という官位や家柄の上下関係を無視した場を設けたことを重視しています。

後醍醐天皇は天皇に権力を集中させる「新政」(天皇親政)を行うために、

既存の序列(ヒエラルキー)を無視した抜擢人事を行いました。

宋学に通じた日野資朝や日野俊基がその代表ですが、

楠正成はもちろん足利尊氏よりだいぶ格下の新田義貞もそれに含まれています。

兵頭は後醍醐天皇の「新政」が失敗に終わった原因が、

宋学イデオロギーによる既存のヒエラルキーの破壊にあるとしています。

現代までさほど変わらないことですが、多くの日本人は閉鎖的な世界をこよなく愛しているため、

中国的な実力主義にはなじめず、門閥、家柄などの縁故主義を強く維持しようとするのです。

 

興味深いのは、後醍醐天皇の天皇親政のあり方が後世の「国体」に影響したという兵頭の考察です。

建武の中興において、天皇親政は「無礼講」に見られるような既存の権力序列を無化することを意味しました。

そのため、後世に天皇親政による身分社会の解体という「幻想」が育まれるようになったと言うのです。

 

政治思想史のうえでは、後醍醐天皇の「新政」の企ては、出自や家柄、門閥に根ざした身分制社会にたいするアンチテーゼとして、この列島の社会における「王政」への幻想を醸成することになる。

 

既存の身分社会や世俗の序列を解体し、神の前で万人が等しく平等であるように、

天皇がすべての民に等しく君臨する統治形態が「革命のメタファー」となったという兵頭の考察は、

すべて納得できるわけではありませんが、非常に面白い説ではあると思います。

 

天皇の絶対的権威に基づく国家を表す「国体」という言葉は水戸学のキーワードなのですが、

兵頭は「足利時代以降に失われた「国体」を回復する思想運動が、水戸学の尊王攘夷論である」として、

「国体」という観念が武家社会の序列を無化する力を持ちえたことに、

後醍醐天皇の建武の中興が影響しているとするのです。

 

縁遠いことを持ち出すようですが、

最近出版された白井聡『国体論』で、白井は国体の批判を展開しています。

天皇の権威に依存した体制を批判するのに、なぜか白井は冒頭とラストで今上天皇の「お言葉」を持ち出します。

僕にはこのような矛盾が不思議でしたが、

今でも既存体制の変革を訴える時に天皇が必要になってしまうのは、

兵頭が指摘する天皇についての日本人の根深い「幻想」が、今でも生き続けている証拠と言えるでしょう。

白井聡にも本書を読むことをお勧めしたいものです。

 

 

 

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