佐野波布一のAmazonレビュー全削除への佐野波布一のコメント

  • 2018.07.18 Wednesday
  • 08:40

 佐野波布一のAmazonレビュー

 全削除への

 佐野波布一のコメント

 

 

 

 

 

 

   突然の一律削除は「暴力」でしかない

 

 

どうも、佐野波布一と申します。

今朝、僕のAmazonレビューが全削除されていることに気づきました。

アクセスしてなかったので、もしかしたら昨日から消えてたのかもしれませんが、

これがAmazonの自発的行為ではないことは、新たなレビューをアップしていなかった時期なので、誰が考えてもすぐにわかります。

おそらく、一人や二人の抗議ではこのようなことにはならないと思いますので、

一定の人数が同時に徒党を組んで、「赤信号みんなで渡ればこわくない」とばかりに僕の言論を弾圧する運動をしたのでしょう。

タイミングからして、自分たちが犯人だと類推されても構わないということでしょうが、

Amazonレビュー上で生じた問題でもないことを理由に、なぜAmazonレビューが消去されなければならないのか、

僕にはこの不条理が納得できないのですが、

おそらく、こういうことを「ざまあみろ」としか思わない奴が一定数いるのだとわかりました。

(もちろん久留島元が無関係ということはありえないと言い切れますが、

これ以上返答しないとか言っておいてやることが中傷を弄した弾圧行為とは、どこまでクズなんだコイツは)

 

千葉雅也のレビューの時でもわかる通り、Amazonは自らのガイドラインに違反していないと審査して判断したにもかかわらず、

著者クレームがあったりすると、レビューを消去します。

それでも再度の掲載が可能であるわけですので、

つまりは自分たちが責任を負いたくないがための「その場対応」であるのですが、

今回も同様のクレームを受けた「その場対応」のつもりでAmazonは軽々しく僕のレビューを全削除したのでしょう。

 

Amazonには現在問い合わせ中ですが、

ヤツらは情報公開を絶対にしない暴力的な集団なので、

適当なことを返答してごまかすのは目に見えてます。

 

僕は週6日10時間以上働いています。

休日は日曜だけで、その時間の多くをレビュー活動に捧げてきました。

家族にも多大な迷惑をかけて成立していたのが僕のAmazonレビューです。

こんな結果になって妻にも応援してくれた親友にも申し訳ないと感じています。

 

正面から反論をせずに、裏から弾圧運動をする連中に対しては、

その程度のヤツラだとわかっているため、驚くほど何も感じませんが、

僕に知らせることもなく、一方の意見だけでレビューの全削除を行うAmazonのアンフェアで暴力的なやり方には、

呆れ果てるほかありません。

というか、Amazon側にどのような正当性があるのか本気で理解できません。

こんなことをする企業とは、正直つきあいたくもないのですが、

それはAmazonにとって願ったり叶ったりなのでしょう。

 

再掲載ができるか試してみたところ、

ガイドラインに抵触したので再掲載ができないという結果でした。

これまで掲載してきたくせに、1日にしてすべてのレビューが一律でガイドラインに抵触したとか、

本当にガイドラインがあればありえないことだとすぐにわかります。

それどころか、新たな商品にもレビューを書こうとすると、

 

申し訳ありませんが、お客様からのこの製品レビューを受け付けることができません。

本商品に投稿されたカスタマーレビュー ガイドラインに抵触した可能性があります。 カスタマーレビューは商品の批評が自由に投稿、閲覧できる仕組みであり、お客様に公平なご意見をご提供することを意図しているため、広告、プロモーションであるという誤解を招く可能性が高いとみなされるものは掲載を中止する場合があります。

 

という表示が出ます。

過去に投稿したこともない商品なのに「投稿された」ことになっていて、ガイドラインに抵触したとか言われます。

もうウンザリです。

僕が何の「広告、プロモーション」をしたというのでしょうか。

ちょうどレビュー活動にも飽きてきたので、今後のことを考える機会にしようと思います。

 

 

 

久留島元の汚いやり口への佐野波布一のコメント

  • 2018.07.16 Monday
  • 20:43

 久留島元の汚いやり口への

 佐野波布一のコメント

 

 

 

   久留島元という人物に対する証明4つ

 

 

どうも、佐野波布一と申します。

先日、久留島元という京都精華大学に籍を置く研究者から悪口を言われ、

それに対する説明を要求したところ、久留島は説明になっていない身勝手な暴論を展開したあと、

自分から悪口を言ってきたくせに、これ以上は不毛だから返答しないと「ブロック」同然の扱いをかましてきました。

僕と妻は久留島のルール無用のふるまいに「なんて最低な態度なんだ」と憤り、朝まで寝つくことができませんでした。

(残念ながら僕には日曜しか休日がありません)

 

この文章は主に久留島元に宛てたもので、他の方々には退屈だと思われますので、

興味のない方は読み飛ばしていただきたいと思っています。

それでも一応は第三者にもわかるように手続きは取っておこうと思います。

 

まず、久留島の悪口をもう一度掲載しておきます。

 

佐野波布一という人のAmazonレビューについては、おもしろく読みました。ただ「サブカルは文学ではない」という強固な価値観によってサブカル的感性の俳句を一律否定したうえ、人格に否定まで筆が及ぶことが多く、心穏やかに読みにくいものがありますね。

 

特に福田若之くんの句を評価する青木亮人さんを研究業績のない寄生虫とまで罵っているのは明らかに「坊主憎けりゃ」の類いです。

 

人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義というべきで、島宇宙的ともいえるのではないですか。

 

これに対し、僕はいくつかの点について説明を要求しました。

久留島は自ら論点を4つに整理して、それぞれに応答するフリをしながら、支離滅裂なことを書き綴りました。

久留島が自身のブログ「曾呂利亭雑記」(http://sorori-tei-zakki.blogspot.com)の7月15日付で、僕の文章を以下のようにまとめています。

 

アニメはサブカルだと僕は思っていますが、サブカルは文学ではないと思っているわけではありません。

僕はサブカルを否定しているのではなく、サブカル的感性で書かれた「特定の」作品の「レベルが低い」と批判したのです。

 

それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、

僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。

また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。

 

意味がわからないのは、

「人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義」という部分です。

「分断主義、排他主義」という言葉は辞書にもないので僕は存じ上げないのですが、

 

そもそも、久留島のように特定の立場にコミットした人間は、自分が客観的でフェアな視点を欠落させがちなことに自覚的であるべきです。

僕に文句を言うなら、僕の言論を弾圧するリツイートを垂れ流した「オルガン」のクサレ俳人についてはどうなのでしょう。

 

まず言っておく必要があるのは、上記は僕の文章からのコピーで構成されているにもかかわらず、

久留島が整理した論点じたいにすでに捏造が行われていたり、

論点のすり替えが行われていたりすることです。

それが彼の読解力の不足によるのか、意図的な汚いミスリードによるのか、僕には判断がつきませんが、

こちらが説明を要求したことに答えるのではなく、話をズラしていては回答にならないことは言うまでもありません。

 

まず,砲弔い撞徇嬰腓呂海鵑覆佞Δ鵬鹽しました。

 

これについては私の認識がゆるかったので、やや訂正すべきかと思います。

佐野波さんの膨大な書評すべてを閲する労を怠ったため認識が雑だったことは申し訳ないのですが、「サブカル的発想に富んだ舞城王太郎やたら持ち上げられた。」「サブカル的なファッション俳句」「「ライトノベル(もっと言えば西尾維新)の影響」の一言で終わる福田の散文世界」といった評言から、サブカル的感性・ライトノベルに対する評価の低さを読み取ったうえで、「本質はアートではなく、サブカルでしかないわけですが、教養のない人にはその違いがわからないようなのです。」とあり、

 「アート」>「サブカル」

といった図式を持っていると判断したものです。

もちろん「サブカル的であっても、それだけでは否定しません。」という発言もあるので、

 

 サブカルに対する低評価からサブカル的感性の俳句に手厳しい

 

とでもすべきだったでしょうか。

 

自分の認識が間違っていたのに、「私の認識がゆるかった」と自らを甘やかし、

間違いを認めるのではなく、「やや訂正すべきかと思います」などと基本の主張は間違っていないかのように書いています。

あのね、間違いは間違いなんですよ。

だいたい「アート」>「サブカル」とか言いますけど、アートをサブカルより上に評価する価値観って、一般的じゃないですか?

それだけで「「サブカルは文学ではない」という強固な価値観」などと言われなければならないのでしょうか。

 

まあ、ひとつハッキリしたことは、久留島自身は「サブカル」>「アート」という価値観を持っていて、

サブカル的感性による俳句はアート以上にすばらしいと考えているということです。

おっと、ちょっと調べたら、京都精華大学ってマンガ学部があるんですね。

なるほど、自分の大学での世渡りの都合が影響しているわけですか。

久留島ってヤツの抜け目がないことがよーくわかりましたが、そんな己の立身出世事情で僕のすることに文句を言うのはお門違いです。

証明終わり。

 

証明 ゝ徇嬰膰気魯汽屮ルをアートより上位に置く価値観の持ち主であり、サブカル的感性の俳句を高評価するため、「オルガン」連中の俳句に肩入れしている。

 

では、次に△悗醗椶蠅泙靴腓Α

ここで久留島の説明を見る前に、僕自身が書いた文章を引用させてください。

いかに久留島が編集作業によって僕の文章を捏造したかがよくわかります。

 

それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、

僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。

そのような微妙な記述だけをファクトとして取り上げて、他の部分は本文参照もなく「決めつけ」で文句を言う、

これに悪意を感じないわけにはいきません。

そもそも福田若之に対する記述ではなく、青木の著書に対する記述でもなく、瑣末的な「言葉遣い」を取り上げて佐野波布一の評価として語るのは、

僕が労力をかけて論理を構築したレビューに対する文句としてはアンフェアだと思います。

(そんなことに文句を言うより、寄生虫と言われない研究実績を示せばいいことだと思うのですが)

 

また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。

そこまで言うなら、僕の文章にのっとって言うべきではないでしょうか。

「批判」と「否定」という日本語の違いくらい研究者なんだから当然認識できているはずだと思います。

たとえクリエイターの「人格」に筆が及んだとしても、

その人と個人的な付き合いのない僕が問題にしているのは、作品上に現れている人格でしかありません。

その意味で、いつも問題にしているのは作品自体でありますし、書き手の「知性」や「能力」です。

普通に読めばそうわかるように書いていると思うのですが、「知性」や「能力」と「人格」とは全く別です。

 

上記の文章を見ればわかる通り、青木亮人に「寄生虫」と書いたことがやりすぎであることは僕も認めています。

その部分と「人格に否定」と言うが僕が誰にそんなことを行なったのか、という文章は段落を分けていますし、

「また」と別の話とわかる接続詞を入れています。

それなのに久留島はその二つの話を意図的に接合して、「人格否定」から話をそらして「寄生虫」の話へと持っていくのです。

もう一度、久留島の整理した文を見てください。

 

それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、

僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。

また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。

 

このように、最後の文が前の段落の続きであるかのようにくっつけています。別々の内容をくっつけて、「人格否定」の話を強引に「寄生虫」のことにつなげる手口です。

では、久留島のインチキ回答を見てください。

 

については、何をかいわんや、Amazonでは消したけどブログには載せているのですから、評言として看過しがたいのは言うまでもありません。

青木さんの研究上の業績については、国文学論文目録データベースでも検索していただければ多数ヒットします。

青木さんは私が知っている限りでもトップクラスに筆の速い研究者であり、論文数だけでも抜きんでた存在です。佐野波という人物がどんなに知識人ぶってもまったく研究の実態がわかっていないことは明らかです。

また、40歳未満の新進俳文学研究者に贈られる「柿衞賞」の第17回受賞者であることからも、(佐野波さん個人の素人的判断は措いて)すぐれた研究者であると認められた存在であることは自明です。

ところが当該の文中では「微妙な記述」どころか「寄生虫」という罵倒は5回も登場しており、およそ簡単に人を「寄生虫」呼ばわりする人物が、「否定」と「批判」の区別を人に説いて聞かせるという凄惨な喜劇に頭を抱えたくなります。

 

結局、僕が落ち度を認めている「寄生虫」のことを蒸し返しているだけで、僕が説明を要求した「人格否定」についてはごまかして終わっています。

 

最初に言っておくべきでしたが、僕が自分の文章を見直してみたところ、

僕は青木について「研究業績のない」などと書いていないのです。

僕の文章では「研究での目立った活躍はなく」と書いているだけです。

専門的な国文学データベースで検索しないとヒットしない論文をいくつ書いていようが、

「目立った活躍」ではないわけですから、僕の書いたことが間違いだとは言えないわけです。

僕の書いていないことを捏造しておいて、その捏造した文章に立脚して僕の悪口を言うような人物が、

研究者の資質があろうはずがありません。

久留島こそが大学の寄生虫であることは間違いないので、さっさと辞めて社会人としての常識を学ぶべきだと思います。

 

こういう他人の文章を捏造したり、勝手に削ったりくっつけたりして内容をズラして平気でいる態度だから、

鴇田智哉の助詞の勝手な入れ替えを「最強の文体」などと言えるのだとよくわかりました。

 

だいたい、人を「寄生虫」呼ばわりする人物が相手だからといって、

自分の書いたことへの説明をしなくていいなどということはありません。

それこそ僕の人格を否定した態度であることは明らかです。

僕は「寄生虫」という言葉は「口汚い」とは思いますが、真実であると今でも思っていますので訂正する気はありません。

相手が平気で悪口を書く人間だから、自分の吐いた悪口に対して説明を要求されようが応答は必要ない、などと考える人間こそが、

自分の書いたことに責任も負わず、相手の人格を否定する最低野郎であることは誰が見ても明らかなのではないでしょうか。

証明終わり。

 

証明◆ゝ徇嬰膰気倭蠎蠅力世鯤慎い肺埖い掘悪口に対する説明要求にも回答を拒む、相手の人格をないがしろにする人物である。

 

次にですが、これに対しては久留島が本気で頭が悪いのかもしれませんが、

「分断主義」「排他主義」という言葉が辞書にあるかどうかという話にすり替えられています。

彼が引用した僕の文章にも「僕は存じ上げない」とあるように、自分の辞書に出てなかったので僕が知らないと言っているだけの文章ですよ。

誰が「そんな言葉は辞書に載っていない」などと書いたのでしょうか?

コイツは本気で日本語が読めないのでしょうか。

 

え、辞書にないのか、と思ってとりいそぎ『日本国語大辞典』を調べたところ、たしかに分断、排他はあっても排他主義はありませんでした。ただネット上では「実用日本語表現辞典」に掲載がありましたので引いておきます。

排他主義 読み方:はいたしゅぎ

自分と自分の仲間以外のものを容易に受け入れず、むしろ排斥するあり方や態度。他を排斥する主義。

これについては、「四ツ谷龍と関悦史、関悦史と青木亮人は友人であり、若手俳句の一部に目立つ「俳句のサブカル化」に深くコミットした人物」のように、一部の交友関係をとりあげて云々するやり口を上げれば充分でしょう。

恣意的に交流関係をあげ自分の気に入らないたちを特定団体のごとくあげつらう評は、これが俳壇内情にくわしい人物なら楽屋落ちというべきでしょうが「結社の人間」ことを重ねて強調するからにはネットで類推されたのでしょうか。

私は佐野波さんに友だちがいるかどうかは知りえませんが、「僕のレビューに好意的な投票をした人が相当数いる」ことを盾に、事実かどうかわからない(何があったかは、推して知るべし/つまり彼自身は関知していない)「大学から戒められるような千葉の行為」に「寄ってたかってリツイートで言論弾圧行為に加担する」俳人たちを、「クサレ言論弾圧俳人」と呼ぶような行為は、目に余ります。

インターネット上での言論行為において問題視されるのは「悪質性の高い」「中傷」を書き込んだ場合であり、政治的権力も持たない一般人がSNSにおいて拡散した程度で誹謗中傷される謂われはないと思います。

 

もう久留島の暴論に付き合うのもウンザリしますが、

「恣意的に交流関係をあげ云々するやり口」とか僕の批判をしていますけど、

四ツ谷は「オルフェウス」という匿名のAmazonレビュアーとして、関悦史と鴇田智哉の句集にレビューを書いています。

それが事実であることを四ツ谷は態度で認めているわけですから、「恣意的に」というのは事実に反しています。

だいたいネットだから立証が難しいだけで、ステマ行為はAmazonに禁止されている行為です。

僕が気に入らない人を特定団体としている、とか言いますが、

僕が捏造しているかのような書き方は図々しいのではないですか?

僕はたしかに俳句外部の人間ですから、ある程度の類推はあるかもしれません。

しかし僕の書いたレビューに対して、内輪事情を知る人から「その人間関係は事実でない」などという反論を見かけたこともありませんし、

久留島も「類推」とケチをつけるだけで事実でないとは言いません。

オマエだって実情を知っているだろうに、僕が勝手に嘘を書いているかのような論法でよく来るな、と思います。

外部にいる人間が内輪事情を書くには類推が入るのは仕方ないだけに、

こちらが外部にいることを盾にした汚い汚い汚いきたなーいやり口であると憤りを感じます。

 

決定的なのは、久留島の書いたことが何一つ僕が「排他主義」と言われることの妥当性を証明していないということです。

俳人の交友関係を書いたからって、どこが排他主義なんですか?

何も説明になっていないのに態度だけは偉そうなのはどういうこっちゃ。

マジでコイツのルールのないやり口をどうにかしてほしいです。

僕は今まで色々な人に文句を言われたり、攻撃されたりしましたが、久留島はその中で間違いなくルール無用の最低なヤツだと感じています。

(千葉雅也や高山れおなや「てーこく」の鴉越え、おめでとうございます)

 

「クサレ言論弾圧俳人」という言葉については、僕は彼らが謝罪をしなければこの言葉を使うと宣言してあったはずです。

被害者であるこちらのことは無視して、被害を糾弾する側の取るに足らない言葉遣いを「目に余る」とか、

オマエは本当に何様なんだ。

 

「政治的権力のない一般人がSNSで拡散した程度で誹謗中傷される謂われはない」という感覚も異常だと思います。

だいたいスクショまでアップして事実に立脚しているのが明らかな行為に対しての非難を「誹謗中傷」とは言いません。

それより四ツ谷の「頭がおかしい」というツイートは誰が見ても「誹謗中傷」です。

どうしてそこは触れずにスルーするのでしょうか?

また、その界隈でファンを動員できる有名人を、「政治権力のない」という理由で「一般人」とするのも身勝手な強弁だとしか思えませんし、

「SNSで拡散した程度」だと悪く言われるに値しないという感覚も理解できません。

 

以上でわかる通り、久留島の立場はまったくフェアなものではなく、どっぷり「週刊俳句」や「オルガン」の連中と同一化しています。

俳句界において「週刊俳句」や「オルガン」の俳人と僕とでは、どちらが「政治権力のない一般人」なのでしょう。

本当に世の中をナメた物言いだと思いました。

俳人が一般読者をよってたかってイジメておいて、それに文句を言うと、「誹謗中傷される謂われはない」ですか?

オマエ本当に一度生まれ直してこいよ。

千葉のツイートの内容が正しいとするなら、ちゃんとそれを証明してから使うべきです。

問題となるのは「悪質」な「中傷」とか書いていますが、それはいったい誰が判断するものなのですか?

僕にとっては千葉のツイートこそが「悪質」であり、「中傷」であったわけですし、

僕と同様に感じた人が一定数いたことも、僕に対するリアクションから証明されているはずだと思うのですが。

 

本当に久留島は自己中心的で非倫理的な言い分を平気で垂れ流す最低な奴です。

LINEいじめでクラスメイトを不登校に追い込んでも、久留島にとっては「政治的権力がない一般人」のすることだから問題ないわけです。

(もちろん、それが「悪質」だと判断されるのは、自殺のような取り返しのつかない事態が起きた後のことです。

つまり、僕が彼らのリツイートによって遺書を残して自殺していれば、千葉や彼らの行為は「悪質」と認定されるはずです)

 

結局久留島にとっては僕のやることはすべて悪いし、その僕に対してであれば何をしても悪くないというだけでしかありません。

「誰が」という視点だけで考えて、「行為」に対する客観的な視点をまったく持つこともありません。

内輪のすることは正しく、外部は悪だと考えているからこんな暴論が書けてしまうのです。

本当に大学は一部で社会不適合なクズを養っていると感じます。

 

そもそも僕が要求した説明は、僕に味方がいるのかというものでした。

個人の価値観をイデオロギーというのか、という問いもありました。

味方を作らない僕に「二分法で敵味方にわける低劣な分断主義、排他主義」という言葉は合わないという主張です。

なぜに「佐野波さんに友だちがいるかどうか」という話になっているのでしょう?

明らかに俳句界においての敵味方の話をしているわけですから、友達の有無など無関係だと思うのですが。

久留島にはこういう姑息な論点のズラしが多すぎます。

しかし、これで敵と味方に分けた二分法で物事を判断しているのが久留島自身だということは証明されたと思います。

証明終わり。

 

証明 久留島元は他人に排他主義と濡れ衣を着せて、内輪の行為は正義、外部の行為は悪という自分自身の排他主義的な価値観をごまかす人間である。

 

あ、ちなみに「分断主義」という言葉の説明が書いてないということは、辞書になかったんですね。

半分しか見つからないのに、よく反論として書くよな、ホント。

 

い砲弔い峠颪のも寝不足なので疲れてきましたが、

とりあえず頭の悪い人間を相手にするにはきちんとした手続きをとることが重要です。

 

これは◆↓で充分例証できると思いますが、小津夜景さんを「おフランスかぶれのセレブおばさん」などと揶揄する言動が、「作品に現れる知性や能力の評価」を越えた人格誹謗に近いと私は思います。

 

もとより私は自分自身が中立だと思ったことなどありませんが、私こそ佐野波さんとは一面識もなく、佐野波さんの文章からその立ち位置を類推するだけに過ぎません。

しかし「AというならBはどうなんだ!」というのは、論理のすりかえを感じます。

これは私見ですが、レビューという場で俳人の「行為」を糾弾するという態度にもいささか疑念を覚えます。たとえば高浜虚子『五百句』のレビューに、虚子は秋桜子を排除した人物で云々と作家の行動に関わることばかり書かれていたら、私はうんざりします。

また、小津さんの知識において佐野波さんが垂れ流している「「類像性」などという言葉は聞き覚えがないのですが、学術用語なんでしょうか」「「倒装法」をグーグルで検索すると、すぐに久保忠夫の論考が登場して、他の論文は出てきません。」などという印象操作は、前者は「グーグルで検索」すると英文法に関するページが多くヒットしますし、後者は日中辞典や芥川龍之介の文章がヒットすることを申し添えておきます。

 

大前提の話をしておきますが、「人格否定」というのは人間としての人格を認めていないということです。

つまり、「朝鮮人はゴキ◯◯だ」のようなものです。

「おフランスかぶれのセレブおばさん」は小津夜景のフランス「趣味」を揶揄はしていますが、

それが明らかに「人格」を問題にしているわけではないので、

「人格誹謗に近い」というのは行きすぎた久留島の主観的判断でしかありません。

(コソコソと人格「否定」でなく「誹謗」に言い換えるあたりも卑怯なやり口ですよね)

だいたい久留島自身が自分で「揶揄」と書いているではないですか。

なんで「揶揄」だと自分で認識しているのに「人格誹謗に近い」などと書いてしまうのでしょうか。

こういう支離滅裂な文章が、相手憎しで理性を失った物言いであることを証明していると思います。

 

久留島が「レビューという場で俳人の「行為」を糾弾するという態度にもいささか疑念を覚えます」と

書いているのは僕のどの記述に対してなのかよくわからないのですが、

クサレ俳人の言論弾圧行為については僕のブログに「コメント」として出しているものなので、

「レビューという場」ではありませんけどね。

仮にそこでもダメだとなると、じゃあどこで糾弾すればいいのかを久留島には答えてほしいですね。

ネット上での「レビューという場」しかフィールドを持たない僕に、

「レビューという場」で俳人を糾弾するな、と書くことは、僕の言論行為そのものを禁じたのと同じことです。

つまり、久留島は僕に対する言論弾圧の欲望をしれっと語ったわけです。

いやあ、本当に最低このうえないですね。

自分がアカデミズムの寄生虫だからって、一般人の言論を禁じる権利がオマエにあるのかと言いたいです。

 

ちなみに「倒装法」の検索の件など、相変わらず論理の核心ではなく瑣末なことにばかり文句を言うのが好きなようですが、

久留島が引用している僕の文に「他の論文は出てきません」とあるように、

僕が「論文」を対象として書いているのは明らかです。

「日中辞典や芥川龍之介の文章」は当然僕も検索したので見ていますが、いやはや、これが「論文」だとは知りませんでした。

(そもそも芥川の文章は小津が参考文献に挙げているので読んでますよ)

「類像性」が英文法の本でヒットしたらしいですが、じゃあ、詩を語るのにはあまり使わない語なんですよね。

英文法の本を読まない僕が「聞き覚え」がないのも、別に問題はないと思うのですが。

こういうのを「印象操作」とか言って僕の批判に使うのは、もう言い飽きましたが最低のやり口だと思います。

論の骨子が理解できないからって、わかりそうなところに適当に文句をつけるようなやり方は、

終始悪意しか感じませんので、非常に不愉快です。

 

これほど支離滅裂な説明とも言えない暴論を書いておいて、

久留島はこんな一方的な物言いで締めくくっていきます。

 

俳句に対する評価に関してではなく、このような互いの誹謗中傷の不毛なやりあいは、これきりにしたいと思います。以後、私はこの件について沈黙しますので、ご寛恕願います。

追記.なお、対談記事を読んでいただければわかるとおり、佐野波さんへの言及は対談の本筋とは関わらない部分で、獄舎さんのたってのご希望で掲載したものです

 

自分から悪口を言っておいて、僕が説明を要求したら、一方的に言いたいことを言って「これきりにしたいと思います」ですって!

「ご寛恕」などできるはずがありませんので、僕はオマエが謝罪するまで許すことはないと言っておきます。

(いずれ機会があれば、面と向かってお話ししましょう)

あげく「本筋とは関わらない部分」だとか高田獄舎の希望で掲載したとか言い訳をしていますが、

それがオマエの発言を免罪する理由になると思っているのか、と言いたいです。

だいたい久留島は高田が二人の対談記事を、「週刊俳句」の掲載前に自分のブログに掲載したことに対し、

「仁義を踏み破り、企画の横取り」だなどと文句をツイートしていたはずです。

「私自身の評言が、勝手に、意図しない形で公開されるのは不愉快である」と高田を糾弾していたりもしますが、

僕の文章を捏造して文句を言うようなヤツがよくも言ったものだと呆れ果てます。

手柄になるところは俺の権利に属する、と主張しながら、危ういところになると高田が希望したのだと逃げを打つ。

こういう人間をどう信用したら良いのでしょうか。

 

ひとつハッキリしたことは「子宮回帰」のようなサブカル的感性を俳句に持ち込みたがる人間には、

まともな論理は書けないということです。

自己中心の子宮世界を生きている「つながりたがりの幼稚園児」なので、

いつでも自分から見た視点を絶対化し、内輪の世界を絶対視してしまいます。

そういう人にとって外部からの批判はすべて悪でしかありませんので、

イベントをやったり、ディナーショーをやったりして、内輪意識でファンを選別し、

猿山の大将の気分に浸りつつ外部の視点を拒否する「引きこもりメンタリティ」となるのは火を見るより明らかです。

証明終わり。

 

証明ぁゝ徇嬰膰気枠稟集析世涼動気鰺瀚召靴討い襪燭瓠言論弾圧を肯定する人間であり、「子宮」大好きの幼稚園児であるため、論理はもちろん、おそらく日本語もイマイチ使いこなせていない。

 

シンプルな話ですが、他人から文句を言われたくなければ、自己反省をすればいいと思うのです。

久留島の駄文は、僕の指摘を受けた後に自分自身で読み直しても反省できる明白な問題点に富んでいます。

少しでも自分の知性にプライドがあるならば、自分の書いた文章に責任ある態度を取るべきだと思います。

あなたの書いたものを読むのは内輪の人物に限らない、ということを強く意識することをお勧めします。

 

 

(7月17日追記)

 

久留島の書いたことで引っかかることがあります。

久留島は「俳句に対する評価に関してではなく、このような互いの誹謗中傷の不毛なやりあいは、これきりにしたいと思います。」

などと書いているのですが、

僕の文章を見ていただければわかることですが、

僕は悪口を書いた久留島に説明を求めはしましたが、よく知らない彼のことを誹謗中傷などしていないのです。

久留島はなぜ「このような互いの誹謗中傷の不毛なやりあい」などと書くのでしょうか。

彼は過去に匿名や別の名前で僕と何かやりとりをしたことでもあるのでしょうか。

そうでなければ、これは捏造でしかありません。

 

要するに、久留島にとっては説明を求められることさえ「誹謗中傷」となるということです。

こんな連中が「批判」と「否定」もしくは「誹謗」の区別がつかないのも当然です。

おまけに自分が「誹謗中傷」をしていることに関して自覚的なのはタチが悪すぎるのではないでしょうか。

僕は久留島から一方的に根拠なき悪口を言われたと思っていますが、

(もちろん、今回の文章を含めたとしても、僕の方は彼の文章を根拠に「証明」をしているので、誹謗中傷ではありません)

ハッキリ言って、一部の俳人のマナーの悪さはどこの界隈でもありえないレベルです。

 

僕は久留島がこんなクソな態度を平気でとれるのは、

僕に対してなら、どんな酷いことをしても喝采してくれる腐った仲間がいる、

内輪という「子宮」に守られていると確信しているからだと思います。

こういうマナーのない奴を受け入れている人間が、

いかにイジメじみた行為を助長しているかを、それ以外のマトモな俳人の方々には真剣に考えていただきたいと切に願います。

そうでないと、俳人すべてがこういう人間と同類だと考えざるをえなくなります。

 

こちらがAmazonガイドラインなどの一定のルールにおいて著作を批判をしているにもかかわらず、

批判者にはルール無用、マナー無用で排撃していいなどと考えている人間については、

「人格」について批判をする以外ないと考えます。

僕が「子宮」大好きのサブカル的「引きこもり」感性を批判するのは、

それこそが内輪を全体化する日本型ファシズムの温床であるからです。

(研究者が「現在」にコミットすることを高らかに宣言する末期症状!)

戦中に詩が果たした役割を反省してきた戦後詩人たちが世を去っていき、

バブルに踊った無知な世代が過去の汚点に学ぶこともなく、

批判を排除した日本的な内輪陶酔によって、「いつか来た道」へと帰っていくのは、

もはやどうしようもないのかと半ば諦めています。

 

 

 

高田獄舎と久留島元の対談への佐野波布一のコメント

  • 2018.07.15 Sunday
  • 10:50

高田獄舎と久留島元の対談への佐野波布一のコメント

 

 

   久留島元の根拠なき中傷に対して説明を要求します

 

 

どうも、佐野波布一と申します。

俳句についてのコメントが最近多くて自分でも辟易としていますが、

久留島元とかいうよく知らない人から、事実でないレッテル貼りをされていることが看過できませんでした。

調べてみたら久留島は京都精華大学に属する研究者のようなのですが、

そういう人が文章に基づかない「決めつけ」で文句を書くのは問題だと思います。

 

問題の文章は「週刊俳句」や高田獄舎のブログ「愚人正機」(http://guzinsyouki.blog.fc2.com/blog-entry-37.html)にあります。

 

佐野波布一という人のAmazonレビューについては、おもしろく読みました。ただ「サブカルは文学ではない」という強固な価値観によってサブカル的感性の俳句を一律否定したうえ、人格に否定まで筆が及ぶことが多く、心穏やかに読みにくいものがありますね。

 

特に福田若之くんの句を評価する青木亮人さんを研究業績のない寄生虫とまで罵っているのは明らかに「坊主憎けりゃ」の類いです。

 

人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義というべきで、島宇宙的ともいえるのではないですか。

 

久留島は僕が「サブカルは文学ではない」という「強固な価値観」でサブカル的感性の俳句を「一律否定」したと言っていますが、

いつ僕がそんなことをしたのでしょうか。

 

たとえば僕は富野由悠季監督のアニメ映画「伝説巨神イデオン」についてのレビューで、この作品を「文学」だと語っています。

アニメはサブカルだと僕は思っていますが、サブカルは文学ではないと思っているわけではありません。

 

僕はサブカルを否定しているのではなく、サブカル的感性で書かれた「特定の」作品の「レベルが低い」と批判したのです。

僕の批判をただの「サブカル排除」へと読み換えて批判するのは、あまりに不正確で安直なのではないでしょうか。

 

それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、

僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。

そのような微妙な記述だけをファクトとして取り上げて、他の部分は本文参照もなく「決めつけ」で文句を言う、

これに悪意を感じないわけにはいきません。

そもそも福田若之に対する記述ではなく、青木の著書に対する記述でもなく、瑣末的な「言葉遣い」を取り上げて佐野波布一の評価として語るのは、

僕が労力をかけて論理を構築したレビューに対する文句としてはアンフェアだと思います。

(そんなことに文句を言うより、寄生虫と言われない研究実績を示せばいいことだと思うのですが)

 

また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。

そこまで言うなら、僕の文章にのっとって言うべきではないでしょうか。

「批判」と「否定」という日本語の違いくらい研究者なんだから当然認識できているはずだと思います。

たとえクリエイターの「人格」に筆が及んだとしても、

その人と個人的な付き合いのない僕が問題にしているのは、作品上に現れている人格でしかありません。

その意味で、いつも問題にしているのは作品自体でありますし、書き手の「知性」や「能力」です。

普通に読めばそうわかるように書いていると思うのですが、「知性」や「能力」と「人格」とは全く別です。

いいかげん話のすり替えをやめていただきたいものです。

僕が丁寧に本文引用をしているのは見ればわかるはずなのに、

そういう「事実」を無視したかのように文句だけ書く人を、どうしたらいいのでしょうか。

 

意味がわからないのは、

「人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義」という部分です。

「分断主義、排他主義」という言葉は辞書にもないので僕は存じ上げないのですが、

お笑い種なのは、「敵味方にわける」とか言っている部分です。

僕には味方と言えるような人はいません。

どうやって二分法で分けるというのでしょうか。

いや、僕に味方がいるなら、どこにいるのか教えていただきたいものです。

誰が僕の味方にあたるのですか?

『自生地』を批判した人間は僕の味方だ、などと僕がどこに書いたのでしょうか。

「排他」という言葉を辞書で引くと、「仲間でない者を排斥すること」とありますので、

仲間を作らない孤独な人に使うのは不適切です。

 

『自生地』を評価した人の俳句観は信用できない、というのは僕の意見ですし、個人的な思いです。

それに立脚して評価した人間は「信用できない」としても、僕個人の意見であることはハッキリしています。

そこのどこに「主義」などが介在しているというのでしょう。

自分の意見を言うだけでイデオロギーを振り回しているとでも言うのでしょうか。

久留島のツイッターなど見たくはないのですが、その辺りの説明をきちんとしていただきたいので、

sorori名義のツイッターでもいいので、研究者ならしっかりと論理的に説明して後始末をしてください。

 

そもそも、久留島のように特定の立場にコミットした人間は、自分が客観的でフェアな視点を欠落させがちなことに自覚的であるべきです。

僕に文句を言うなら、僕の言論を弾圧するリツイートを垂れ流した「オルガン」のクサレ俳人についてはどうなのでしょう。

作品批判から作者の資質に筆が及ぶことよりも、批判言説そのものを「集団で」弾圧する方が罪が軽いと言うのでしょうか。

それだけでなく、彼らは僕の謝罪要求に関しても無視し続けています。

僕に対して根拠もなく「頭がおかしい」とツイートした四ツ谷龍は、まさに人格否定を行なったわけですが、

久留島はそういう「俳句界の内輪」の人間に対しては同様の文句を言うことは絶対にありません。

おまえこそが敵と味方の二分法で低劣な二枚舌を弄している排他的な人間ではないか、と思われても仕方ないと思います。

 

最近、僕は嵯峨直樹という歌人の『みずからの火』という歌集にレビューを書きました。

それに対して嵯峨本人がブログで、素人である僕の厳しい批判にいろいろ文句を言いたいのを我慢して、生産的な応答をしていました。

しかし俳人は本人が直接応じることを避けて、仲間が出てきて文句を言うことが常態化しています。

関悦史の批判をすれば高山れおなが文句を言う。

鴇田智哉の批判をすれば四ツ谷龍が「オルフェウス」という匿名レビュアーとして文句を言う。

福田若之を批判すれば、関やオルガンの連中が言論弾圧リツイートを拡散する。

青木亮人の真実を暴露すれば久留島元が文句を言う。

こんなことばかりです。

嵯峨は「短歌界は健全です」と書いていたと思うのですが、この発言には「俳句界と違って」という意味が含まれていたように感じました。

こういう批判封じに仲間が出てくることこそが、内輪集団の「排外的行為」と批判されるにふさわしいのではないでしょうか。

 

 

小津夜景の「オルガン調」擁護のインチキ論への佐野波布一のコメント

  • 2018.07.12 Thursday
  • 22:57

小津夜景の「オルガン調」擁護のインチキ論への

佐野波布一のコメント

 

 

   エセレブ俳人のインテリ風嘘だらけ論は読むに耐えない

 

 

僕は「オルガン」という俳句同人誌を手に取ったこともないのですが、

その中心人物と目される鴇田智哉、田島健一、福田若之の句集のレビューを書いたことがあるので、

彼らの作品の特徴はなんとなく想像がつきますが、

鴇田のように意味を不明瞭にして雰囲気だけを共有する作風が「オルガン調」などと呼ばれているようなのです。

 

僕は彼らの作品がいかに時代遅れのポストモダン的な言語遊戯に根ざしているかを解き明かしています。

「オルガン調」を問題とするのなら、内実のない言語遊戯について議論をしなければ意味がないわけですが、

実際には不毛な議論しか行われていないことが、7月8日に「週刊俳句」のウェブ上に掲載された

小津夜景「器に手を当てる 宮本佳世乃「ぽつねんと」における〈風景〉の構図」(http://weekly-haiku.blogspot.com/2018/07/blog-post_8.html)という文章でわかりました。

(初出は『豆の木』第19号(2018年5月20日)だそうです)

 

僕はこの小津夜景という人の本にレビューを書いています。

そこにも書いたように、小津の作風は鴇田智哉の模倣に見えますし、

彼女の『フラワーズ・カンフー』の帯文は鴇田が書いているので、

小津が鴇田(やオルガン)と非常に近いところにいる、ほぼ内輪の人物であることは念頭に置いておく必要があります。

作風が近いということは、鴇田に影響された宮本の弁護は、小津にとって迂遠な「自己弁護」でもあるということです。

「週刊俳句」あたりに書いている人たちは、この手の「内輪弁護」を慎む意識が全くないのですが、

僕のように、擁護してくれる内輪の存在しない孤独な言論人からすると、

「仲間」だからと見苦しいまでの内輪擁護を慎まない態度には、

自分たちが甘ーいあまーい、お母ちゃんのおっぱいから離れられない幼稚園児同然のメンタリティであることを、

世の中に露出して平気でいるようにしか感じません。

まあ、小津の場合は身内擁護というより、迂遠な「自己弁護」が目的であるため、

幼稚園児のようなピュアさもなく、より不愉快ではあるのですが。

 

僕が小津の論に言っておかなくてはならない、と感じたのは、

小津が「〜における」などと題をつけ、参考文献も提示するような学術論文であるかのような体裁で、

まったく論理的でもない欠陥だらけの論を書いていることに対して、どうせ俳人たちには批判する能力がないと思ったからです。

こういうアカデミックな手続きをした「こけおどし」が通用するとなると、俳句界にとっても利益はないと思います。

 

まず、小津の「オルガン調」弁護の主旨をまとめておきます。

小津は「オルガン調」を「鴇田智哉の作品との類像性ないし影響関係が感じられる句をそう呼ぶようだ」として、

宮本佳世乃の句を具体例として提示します。

(ちなみに「類像性」などという言葉は聞き覚えがないのですが、学術用語なんでしょうかね)

 

くちなはに枝の綻びつつまはる

ふくろふのまんなかに木の虚のある

 

小津はこれらの句が「くちなはの枝に綻びつつまはる」「木の虚のまんなかにふくろふのある」とあるところを、

「語順を入れ替えることによって詩趣を生み出」したものだとしています。

そもそも、語順の入れ替えにこそ「詩趣」の源泉があるという主張が、決定的な錯誤であると思えるのですが、

こういう言語遊戯即詩的であるという発想こそが、オルガンと同種の感覚の持ち主であることを雄弁に物語っています。

 

まず小津のインチキ議論の第1のポイントは、「オルガン調」とは語順の入れ替えのことを言うのか、ということです。

僕であれば、オルガン調とは「語順の入れ替えが実感に乏しい言語遊戯として行われている」と定義します。

実は小津はこの文章の中で「オルガン調」の内容定義をしっかりとやっていません。

レトリックでごまかしながら、「オルガン調」=「語順の入れ替え」として議論を進めていきます。

このような問題の矮小化が詐術であることに、俳人であればすぐに気がつかなくてはいけません。

 

最初にインチキな定義を通してしまえば、あとの議論は簡単です。

なにしろ、どんな形式であれ、詩において語順の入れ替えなどは珍しくもないからです。

そして小津はくだらない茶番を進めていきます。

 

ここでまず確認したいこと、それは文法上・論理上の語順を入れ替えることによって詩趣を生み出すこの技法が鴇田智哉の考案ではないという基本的事実である。この種のレトリックは俳諧の成立過程においてすでに存在し、具体的には杜甫の倒装法を芭蕉が真似たことに由来している。

 

小津はこんなことを述べるのですが、「語順の入れ替えで詩趣を生み出す」のは鴇田が元祖ではなく、

芭蕉が杜甫の「倒装法」を真似したことが最初だとするのです。

「倒装法」などと名前をつけて提示すると、専門技法であるかのように見えるわけですが、

このような「こけおどし」に騙されてはいけません。

前述したように、語順の入れ替えで詩的効果を高めることなど、古今東西の詩を探せばいくらでも出てくるはずだからです。

 

小津は「倒装法」を紹介した久保忠夫の文章を参考文献として挙げていますが、

そもそも久保忠夫を調べると、漢詩の研究者ではなく近代詩の研究者のようです。

また、「倒装法」とは杜甫の漢詩の注釈書で使われている言葉であるようですが、

「倒装法」をグーグルで検索すると、すぐに久保忠夫の論考が登場して、他の論文は出てきません。

つまり、このような言葉を使っている人は一般にはほとんどいないと考えられます。

こういうマニアックな文献だけで「オルガン調」とは「倒装法」であり、そのルーツは芭蕉にあるから伝統的だ、

などという論理が成立するはずもありません。

 

少し考えればわかることですが、芭蕉が俳人として現在の地位にあるのは、杜甫からパクった「倒装法」のためではありません。

芭蕉の詩趣が語順の入れ替えから生まれたと考えているとしたら、小津の俳句観がどれだけ信用のできないものかわかるのではないでしょうか。

それなのに、芭蕉が語順の入れ替えをしている、鴇田も語順の入れ替えをしている、

だから鴇田は芭蕉に連なる伝統を受け継いでいるのだ、などという三段論法は稚拙極まりないとしか言いようがありません。

このような三段論法が成立するなら、インド音楽はシタールを使っている、ビートルズの「ノルウェイの森」ではシタールを使っている、

だからビートルズはインド音楽の伝統を受け継いでいるのだ、と言うのと同じことです。

 

小津が引用した文章で久保が芭蕉の「倒装法」について「どれほど成功をおさめてゐるかといふことになると、甚だ疑問である」と書いているように、

それ自体、成功していると評価しているわけでもないのです。

芭蕉の「海暮れて鴨の声ほのかに白し」が「倒装法」であるかどうかも、久保がそう言っているだけで甚だ怪しいと思います。

自己弁護をするのに芭蕉というビッグネームを持ち出せば箔がつくと思ったのは容易に想像がつきますが、

こういう大学生のヘボ論文レベルのやり方には問題しか感じません。

誇大妄想家が集まっている「週刊俳句」に掲載される文章のレベルを云々するのも馬鹿馬鹿しいのですが、

このような猿知恵を慎むくらいの知性は持っていただきたいものです。

 

一応、専門的な議論もしておきましょうか。

「オルガン調」というものが本当に「倒装法」であると言えるのでしょうか?

僕はそれは間違っていると思います。

問題になっている杜甫の「秋興八首」の語順の入れ替えについて確認しましょう。

「倒装法」として例に挙げられているのは次の詩句です。

 

香稻啄殘鸚鵡粒(香稲啄余鸚鵡粒)

碧梧棲老鳳凰枝

 

この箇所について講談社学術文庫版の『杜甫全詩訳注(三)』では、次のような注釈で説明されています。

 

それぞれ「鸚鵡啄残香稲粒」「鳳凰棲老碧梧枝」の語順を入れ替え、「香稲」「碧梧」に焦点を合わせた表現。

 

岩波文庫の黒川洋一編の『杜甫詩選』では次のような説明があります。

 

 普通にいえば「鸚鵡啄余香稲粒 鳳凰棲老碧梧枝」とあるべきところを、「鸚鵡」と「香稲」、「鳳凰」と「碧梧」とをひっくり返して、奇抜な効果をねらったものである。

 

どちらにも「倒装法」などという言葉は使われていないので、やはり一般的に用いられる名称ではないわけですが、

僕が問題にしたいのは、このような語順の入れ替えの持つ意味が、日本語と中国語では全然違うということです。

中国文学者の吉川幸次郎が「膠着語の文学」で書いていることですが、

中国語は孤立語といって単語がモノシラブルで構成されていて、

「つまり意味の最小の単位である単語は、音声の最小の単位である一シラブル、ただそれだけであらわされる」ため、

中国語の一つ一つの語には断絶があるというのです。

孤立語が語の交換に対して柔軟であることは言うまでもありません。

中国は句の断絶性が強いため、次の語との関連は弱いので、それが転倒されてもそこまでの違和感は生まれないのです。

 

漢詩には音声上の法則、つまり平仄の決まりがあります。

それは決まった伴奏に乗せて歌うことを目的としていたからです。

「香稻」と「鸚鵡」、「碧梧」と「鳳凰」という入れ替えた名詞は、律詩の平仄二六同の法則に対応しています。

法則上、対応することが要求されている第2語と第6語の単語が入れ替わったとしても、

聞く側に対応関係は理解しやすく、読者の理解を困らせることは少ないと言えます。

 

しかし、膠着語である日本語ではそうはいきません。

吉川は膠着語について次のように説明します。

 

膠着語とは何であるか。私の考えによれば、言葉の流れが常に次に来たるべきものを予想し、予想された次のものにくっつき、流れ込もうとする態勢を、強度にとることである。いいかえれば、連続を以って言語の意欲とすることである。

そうした意欲は、まず、「てにをは」の存在となって現れる。

 

吉川は膠着語を「前なる語が、常に後なる語を予想する」連続性として整理しています。

そのため、日本語はダラダラと文が続く長文になりやすいのです。

「てにをは」などの助詞は続く語を予想させるため、助詞がくっついてしまえば日本語は語順を変えても意味が通ります。

つまり、助詞があるかぎり語順の入れ替えは日本語では意味がないことになります。

となると、意味を転倒させるには語順ではなく、くっついている助詞を入れ替えるほかなくなります。

 

さて、僕が鴇田などの俳句が「倒装法」などというものとは全く違うと思うのは、

それが孤立した名詞の交換ではなく、助詞の使い方に特徴があるからです。

僕は鴇田の『凧と円柱』のレビューで、すでに鴇田が語にくっつけるべき助詞を入れ替えていることを指摘しています。

本来あるべき助詞を入れ替えるということは、故意に読者の予想を裏切るわけですから、

読者を騙すトリックとしてやっていることになるわけです。

これが中国語と日本語の言語的な違いに由来することを無視した小津の論はまったくインチキでしかないわけです。

 

漢詩の「倒装法」なるものは、語順を入れ替えても元のかたちがすぐにわかりますが、

「オルガン調」では元のかたちはそれほど自明ではありません。

それは、「オルガン調」が作り手の自己満足を優先し、読者を欺くことを目的にしているからです。

この事実ひとつをとっても、「オルガン調」が「倒装法」にルーツを持つ伝統技法だという主張が、

いかに欺瞞であるかがよくわかるのではないでしょうか。

 

「膠着語の文学」が俳人にとっては興味深い読み物であることを僕は疑いません。

なぜなら吉川は日本語の性質に反発した文学として俳句を挙げているからです。

吉川は俳句を日本語の性質に逆らう文学形式だと把握し、その特徴を断絶に見ています。

断絶とはすなわち「切れ」であるわけです。

俳句における「切れ」つまり断絶がいかに日本的なものに対して否定的にはたらく生命線なのか、

志の高い俳人なら誰でも意識しなければいけないところでしょう。

俳人が内輪の仲間とつながることばかり考えていることを僕が軽蔑するのは、

このような俳句の「原理」を実行する資質に欠けていることを自ら証明しているからでもあるわけです。

(身内で寄り集まる連中が、自分たちで俳句地図を作って「俳句原理主義」を名乗っていたのはお笑い種だとわかりませんか?)

こういう「つながりたがりの幼稚園児」が本来あるべき俳句原理を否定していくのは必然です。

 

ここで小津夜景のインチキ論の第2のポイントを言っておくと、

「オルガン調」とは語順の入れ替えが問題ではなく、「切れ」の隠蔽にあるということです。

強い切れ字で切るべきところに「てにをは」などの助詞を入れて、「弱い切れ」へと入れ替えることで、

読者の後の予想をズラして意味を曖昧化するのが、鴇田もしくは「オルガン調」というものの欲望です。

 

もう一度、冒頭で小津が取り上げた宮本佳世乃の句を見直してみましょう。

「オルガン調」が読者を騙すことに重点を置いていることが、よくわかると思います。

 

くちなはに枝の綻びつつまはる

 

この句が、小津が指摘する通り「くちなはの枝に綻びつつまはる」を変形したものであるならば、

入れ替わっているのはやはり助詞の「の」と「に」であるのは明白です。

これが「倒装法」でもなければ、語順の入れ替えでもないことがおわかりいただけると思います。

助詞を入れ替えることで、助詞によって予想される後続の語をあるべき語でないところに接続しています。

海に続くドアを開けたら山に出たように読者には感じられるわけです。

文学をCGアートか何かと勘違いしているのでしょうか。

 

では、次の句はどうでしょう。

 

ふくろふのまんなかに木の虚のある

 

これを小津は「木の虚のまんなかにふくろふのある」として「話は簡単だ」と述べるのですが、

さて、こう名詞を入れ換えたところで意味がわかりやすくなっているでしょうか。

「ふくろふ」であるならば、どうして「いる」でなく「ある」となるのでしょうか。

ここには語順を入れ換えただけでは解決できない意味の脱臼があるはずですが、

結論ありきの小津のインチキ論ではそこが見過ごされています。

 

この句に関しては、語順の問題ではなく、「切れ」の問題として考えないと解決できないと思います。

つまり、読者へのわかりやすさを求めるのならば、「ふくろふやまんなかに木の虚のある」となるのではないでしょうか。

そして、このままの句であると、「まんなか」が何の「まんなか」なのかわからないため、さらに語順を変えて、

「ふくろふや木のまんなかに虚のある」としないと情景が描けません。

この手の込んだ細工が、いかに当たり前の情景を描くことからの「逃走」であるかがよく理解できると思います。

この技法の目的が「詩趣を生み出す」ことにあるとは僕には思えません。

CG的なメクラマシを「詩趣」などと感じる人の詩的感性がいかにインチキであるか、

俳句の文化伝統にプライドがあるなら絶対に騙されてはいけません。

 

このようにいかがわしい手法を使って俳句的な断絶を弱めてまで、

意味の脱臼を求める姿勢の先には何があるのでしょうか。

僕の予想では、彼らが模範としたいものは俳句ではなく現代詩となるはずです。

前々から現代詩コンプレックスを持った俳人がいることは知っていましたが、そういう人が「オルガン調」とやらに共感するのでしょう。

 

西洋の現代詩に憧れているから西洋の〈フランス現代思想〉もしくはポストモダン的な意味からの「逃走」という

時代遅れの産物に心惹かれてしまうのです。

こんなことに明け暮れた現代詩がどのような末路を辿ったかを知っている者からすれば、

今更俳句でそんなことを「新しい」と考えることの愚かさを指摘するほかありません。

だいたい、現代詩をやりたいなら現代詩を書けばいいのです。

俳句をある程度極めたわけでもないのに、現代詩っぽいことをやりたがるのは、

現代詩をやりたいのにその能力が足りないから、形式と技法に頼れる俳句を選んでいるだけに感じます。

 

小津夜景は漢詩の何たるかもわからずに、門外漢の俳人相手にファッション漢詩本などを出しています。

この手の人々は責任の生じる場所からズレて、好き勝手に趣味に浸ることを自由と考えているようですが、

この人がポストモダンに依拠した「おフランスかぶれのセレブおばさん」であることを忘れてはいけません。

小津の文章の最後に参考文献として挙げられている佐藤信夫『レトリックの意味論』という本は、

ソシュールやチョムスキーなどの西洋言語学に基づいた本で、漢字はもちろん、膠着語を視野に入れてはいません。

ポストモダンの「言語論的転回」にとっては重要でしょうが、そのまま俳句に役立つものではありませんし、

小津が持ち出した代換法は、「京都の夜」と「夜の京都」のように意味内容に変化がないものなので、

「オルガン調」の説明には不適切な例だと言えるでしょう。

出版が1996年であることを考えても、いかに小津が「死に体」のポストモダン思想に依拠した人間かが理解できるのではないでしょうか。

俳人の頭が悪いから侮られるのでしょうが、ポストモダンおばさんの漢詩を隠れ蓑にした牽強付会の論など、

インチキだと一蹴できないようでは俳句界の未来が思いやられます。

 

 

 

評価:
小津 夜景
ふらんす堂
¥ 2,000
(2016-10-17)

高山れおな朝日俳壇選者就任の不可解への佐野波布一のコメント

  • 2018.07.09 Monday
  • 12:59

  高山れおな朝日俳壇選者就任の不可解

                     への佐野波布一のコメント

 

 

   適切と思えない人を選者に起用する朝日新聞の不見識

 

 

どうも、佐野波布一と申します。

 

朝日新聞に一般公募の俳句から4人の選者が選んだ俳句を掲載する「朝日俳壇」というコーナーがあります。

そこで長らく選者を務めた俳句界の重鎮、金子兜太が亡くなって欠員が出たあとに、

その後釜に高山れおなが選ばれたと知り、

新聞を購読していない僕は7月8日の朝日新聞をコンビニで買ってみました。

 

高山れおなは以前に朝日俳壇のコラムを書いていて、すでに朝日新聞と「つて」があるのは知っていたので、

彼が選ばれたことにはそれほど疑問はなかったのですが、

朝日新聞の俳句に対するナメた認識に関しては正直不愉快さしか感じませんでした。

 

というのも、俳句の選者というのは単なる著名人の「興味」や「好み」で行われるべきものだとは思えないからです。

ある一定の理念のもとに結社の「先生」として後進を指導した経験を持っていたり、

実作や批評において広く尊敬される確固たる美意識を示している、

その実績においてこそ、その人の俳句の「選」というものが一般に通用することの秤となるのです。

しかし、高山は結社の先生として俳句の指導をしたことがないのはもちろん、

何かの賞の審査員などで確かな俳句の選をした実績もほとんどないのです。

その上、彼の実作者としての実力が一流と言えるかどうかという点にも大いに疑問が残ります。

他の選考者(大串章、稲畑汀子、長谷川櫂)と比べると見劣りすることは否めません。

高山は若手傍流集団のボス的地位にはありますが、それだけでは後者の条件にも見合う人物だとは評価できません。

 

金子兜太が前衛枠(そんな枠があるのか?)だと考えて、若手の前衛路線の人を選びたいにしても、

それならよっぽど賞の審査などを経験している関悦史を選んだ方が納得できる気がします。

まあ、マスコミ関係の仕事もしていて、朝日と「つて」があるから仕方ないのかもしれませんが、

高山がズレた俳句を評価して一般的な俳句を侮っている俳人であることは、

彼の同人誌「クプラス」の「いい俳句」特集に自ら寄せた文でもよくわかります。

 

「いい俳句」について、独自の意見という程のものもない。人々が「いい」とする句は、程度の差こそあれ大抵自分も「いい」と思う。この頃関心があるのは、「いいパイク」の方で、これはまず「わるい俳句」であることが前提となる。

 

俳句を「パイク」とズラしているのは、それが一般的には「わるい俳句」に見えるからです。

つまりは俳句らしくないけど面白い、というような価値観なのですが、

じゃあ前衛的な新しいものを好んでいるかといえば、

そんなことを言いながら、高山の実際の句作では過去の作品をプレテクストとしたものが主流なのです。

つまり、高山は「ズレ」を価値として評価する、今更ながらのポストモダン的な発想を評価している人なのです。

 

小さなズレを理解するにはプレテクストの理解が欠かせないのはオタクの世界と同じで、

ある種のオタク的知識が作品鑑賞の前提となるため、一般人や初心者とは縁遠い俳句観の持ち主であるのはハッキリしています。

僕は「週刊俳句」で関悦史に対して批判コメントをしたところ、この高山に俳句をやらない人間は俳句を語るな、とばかりに文句を言われました。

僕はこの発言に対して謝罪して退散したのですが、それでも「俳句は俳人にしかわからない」などという意識を持った人が、

新聞俳壇の選者にふさわしいとは到底思えません。

ですから、高山大先生にとっては、たいして俳句に詳しくもない一般人の俳句の選など、

心底気が進まなかったはずなので、「深く俳句を理解していない奴の句なんか読めるか」と強くつよーく固辞したに違いありませんが、

それにもかかわらず、こういう人を一般公募の新聞俳壇の選者に起用する朝日新聞の俳句文化に対する浅はかな理解はどうかと思います。

 

俳句指導の経験も乏しく、客観的な基準での審査経験もよくわからない人を選者に起用するということは、

その人の個人的もしくは私的な感覚で俳句選をしても良いと認めているに等しいからです。

選者が個人的な感覚で選をすることが当然となると、俳句の良し悪しに関する公的な基準がなくなるわけですから、

俳句観の怪しい選者の共感があるかどうかだけが基準になってくるわけです。

ならば、選者など誰でもいいではないか、ということにならないでしょうか。

 

さて、その高山れおな大先生の第一回の選句を興味深く拝見させていただきましたが、

最初に選んだのは北嶋克司さんの次の句でした。

 

不忘碑に蛍が一つ付いていた

 

「不忘碑」は戦時中に起こった新興俳句弾圧事件の記憶を風化させないために金子兜太らが作った「俳句弾圧不忘の碑」のようです。

「蛍が一つ付いていた」はその金子の句「おおかみに蛍が一つ付いていた」からの流用です。

金子の後釜に座った高山が前任者へのリスペクトを込めて選句したことを思わせるものでした。

 

ただ、プレテクストを参照する句を好むのは高山自身の句作そのものであることも忘れてはいけません。

いきなり1句目から自分の「興味」や「好み」で選句したということもまた事実です。

もちろん、このような選句は前衛性とは何の関わりもありません。

 

そもそも高山が前衛に位置する俳人であると僕は思ったことがありません。

前述したように、ただ伝統俳句や日常詠をズラすことに価値を認めている人という印象です。

金子兜太は安倍政権への反対を強く打ち出していましたし、原爆・原発などに反対する活動もしていました。

しかし、高山は前衛性もないただの「趣味人」でしかなく、政治性など皆無と言えます。

この人が金子の何を引き継ぐというのでしょうか。

高山の句にこのようなものがあります。

 

げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も

 

原発と前衛とを「おとなのあそび」で一括りにしています。

このように、ただ一人自分がメタに立って周囲を侮るような視点が、高山や関悦史一派の俳句の特徴です。

こんな俳句を書く人に金子は本当に後を受けてほしいと思っていたのでしょうか。

朝日新聞は政権に批判的な「左翼」系だと一般には思われていますが、

僕はだいぶ昔からこの新聞は魂を売ったファッション左翼のエリート新聞だと思って読むのをやめています。

金子から高山へのバトンパスは、その意味では必然的な流れだとも感じています。

 

それから、僕は高山や関悦史が戦中の「俳句弾圧」を取り上げ、

被害者の系譜に自らが連なっているかのような態度をすることが許せないと思っています。

ユダヤ人がホロコーストの被害者という立場でナチスを批判しながら、

イスラエルとして平気でパレスチナ人を虐殺しているように、

彼らは俳句弾圧の被害者への共感を漂わせながら、

自分たちを批判する者の言説を平気で弾圧してきた人間なのです。

こういう奴に限ってユダヤ的な〈フランス現代思想〉を表層的にしか理解せずに振り回したりしています。

クサレ俳人やその仲間を起用してしまうことで、新聞は自らの批判精神がいかにインチキであるかを立証し続けることになっています。

文化状況の裏面まで理解できないのであれば、

新聞は早く文化に関わるのをやめて、政治や経済のニュースに特化していくべきだと思います。

 

ついでなので書いておきたいのですが、

高山れおなが朝日俳壇の大先生になったことで、その手下の上田信治が四ツ谷龍のツイッターに難癖をつけた場面に出くわしました。

上田が問題にしたのは四ツ谷の次のツイートです。

 

四ッ谷龍@leplusvert

 

選考委員とか選者とか、できるだけやりたくない。他人に対する評価なんて、本質的にむなしいものなんだ。

裕明賞は裕明の賞だから引き受けて、必死にやっている。これは別のもの。

俳句の世界では、選者をやりたい人とか俳句地図を作りたい人がいっぱいいる。好きにやればと思う。

午後8:06 · 2018年6月17日

 

表面的には「俳句地図を作りたい人」が上田のことを暗に指しているということで上田が反発してモメたように見えますが、

僕はその前に四ツ谷が「選者をやりたい人」と書いた相手が暗に高山れおなを指していることに、

手下の上田が反発したのだろうと解釈しています。

ボスが出世するのは手下の喜びでもあるので、それを面白く思わない人には攻撃を浴びせるというのが彼ら一派のやり方です。

僕もよく攻撃対象にされるので、このあたりは非常によくわかります。

(こう書いておけば上田からのくだらないイチャモンを避けられるのではないかと期待しています)

 

しかし上田は、田中裕明賞で四ツ谷が上田のお仲間の句集に攻撃的論陣を張って受賞を阻んだとか何とかツイートしていましたが、

それってそもそも僕のレビューを嚆矢として言われるようになったことですよね。

僕の言説に乗っかってよく言うよ、と思ったことを付け加えておきます。

まあ、乗っかり虫は何にでも乗っかるのかもしれませんが。

 

 

『みずからの火』 (角川書店) 嵯峨 直樹 著

  • 2018.07.08 Sunday
  • 21:08

『みずからの火』 (角川書店)

  嵯峨 直樹 著

 

   ⭐⭐

   主体を隠したいがための空虚な修辞の群れ

 

 

僕は現代短歌をほとんど読んだことがないのですが、

嵯峨は僕と同世代ということもあって興味を持って手に取りました。

生活実感を描くというより、抽象的な表現によって情景を詠むような歌が多く、

おもしろそうだと思ったのですが、読み進めていくと、僕の世代にありがちな主体を薄める操作によって、

作品をかえって空虚なものにしてしまったように感じました。

 

もちろん短詩系の作品において、主体を薄めていくことは当然とも言えるので、

そこを批判するのはお門違いということになるのですが、

僕が違和感を覚えるのは、作中から主体を消去するのに適した詩型を選んでおきながら、

それにのっとって遠回しな自分語りをするアイロニカルなやり方です。

まずは嵯峨が主体を歌中から抹消する手続きを見てみます。

 

さえずりをか細い茎にひびかせて黄の花すっくり春野に立てり

花冠という黄の断面を晒しつつ痛ましきかな露を纏って

冬の雨ヘッドライトに照らされて細かな筋をやわやわとなす

見られいるひと粒急に輝いて跡形もなく消えてしまいぬ

 

前半2首は菜の花がテーマのようですが、1首目の歌は情景だけを描いているように見えます。

しかし、「か細い」と「ひびかせて」という表現で感じやすいナイーブさを表し、

「すっくり」「立てり」で健やかさを示していくというように、

実際の歌の印象は景を立ち上げるというよりは内面的なものが表に出ています。

嵯峨自身の内面的な「感じやすさ」を歌っているにもかかわらず、

歌中では菜の花の情景が主体の位置を占めるようにして作者自身を隠していきます。

2首目では「晒しつつ」の表現を受けた「痛ましきかな」が作者の感慨なのですが、

「露を纏って」の連用修飾語のように差し挟むことで、作者の感慨であることを薄めています。

このような主体の抹消をさらに進めていくと、次のような歌になります。

 

乖離する雲と尖塔 黄の花の盛んに咲いて陸は寂しき

 

このように「寂しき」という感傷を「陸」へと押し付けることで、主体の抹消が完成します。

 

後半2首はヘッドライトに照らされた雨粒を詠んでいるようですが、

「照らされて」や「見られいる」と受動態を用いることで、見ている「わたし」を隠します。

ヘッドライトに照らされた雨粒は静止画に近いので、むしろ硬質な印象になると思いますが、

続く「やわやわとなす」の「なす」のは光の影響であるはずなので、ここで言明されていることは嵯峨に「そう見えた」ということでしかありません。

最後の歌は映画的なクローズアップでしかないのですが、「消えてしまいぬ」と文語的に表現することで、

歌っぽい印象に差し戻そうとする作者の意図が浮かび上がります。

 

これらの歌には情景を見つめる主体の姿は直接描かれてはいないのですが、

歌の最後に「ように見えた」と続けたくなるような、単なる主観的な表現から抜け出ることができていません。

つまり、作中から主体を注意深く抹消したにもかかわらず、かえって歌全体を包み込むような主体の視点を意識させられてしまうのです。

 

僕は嵯峨の歌集を読んで田島健一という俳人の句集と似ていると感じました。

作中から主体を消す「逃走」に執心するわりに、表現したいことは幼稚な自意識(明るい、寂しい等)でしかないところが似ています。

個人の自意識にとどまるものにポエジーが宿るはずがありません。

詩的であるということは、主体から溢れ出ることであって、主体を抹消してメタ構造を持つことではないのです。

 

「ように見えた」というメタ構造が隠しきれず、歌中に「よう」「ごとく」が直接現れてしまう歌も目立ちます。

 

黄の花の穢しつづける宵闇に不在を誇るごとく家立つ

艶やかな文字の点れる伊勢佐木に煙のような月は昇れり

炎症のように広がる群落のところどころは枯れながら咲く

平らかな影の深部に美しい針のようなるものの閃き

 

このように「(わたしに)見えた」という私的印象にとどまってしまうと、

私を超え出る詩的イメージが立ち上がることが難しくなってしまいます。

村上春樹の登場以来、私的と詩的の区別がつかない文学愛好者が増えていますが、

抽象表現ならなおさら言葉の選択が作者の「個人的事情」でないことを読者に感じさせる必要があると思います。

しかし、嵯峨の抽象表現には抽象化しなくては伝えられないだけの奥深いイマジネーションはあまり感じられません。

そのあたりは、抽象的表現を好みながらも、光と闇や空と地下などのわかりやすい対比に回収される歌が多すぎることが問題になります。

 

ひかる街のけしきに闇の総量が差し込んでいる 空に月球

地下の水折られる音のとどろきの上には星の散らかった空

肉体の闇に兆した氷片は朝の陽ざしにぎとついている

平かな春の深部に美しい針のようなるものの閃き

 

闇の中に光が差し込み、光の中に闇が差し込み、と嵯峨の中では光と闇が等価であることが重要です。

このような対比を描くことには、プラスとマイナスをぶつけてフラットにしたいという欲望を感じました。

「肉体の闇」と表現するように、嵯峨は肉体をマイナスのものと捉えています。

それは、この歌集に性愛のメタファーが多く詠まれているのに、ほとんど男女が痕跡としてしか描かれないことにも現れています。

性愛を死との関連で描きたがるところでもそれは明らかです。

 

水映すテレビの光あおあおとシーツの上でまたたいている

あくる朝光る岸辺にうち上がる屍だろう甘みを帯びて

寝台にするすると死は混ざりゆく チョコレート割る冷やかな音

ひろらかな洞のうちがわ響かせる人の名前を呼び継ぐ声を

ふんわりと雪片の降る寝室に堆積しつつかたち成すもの

 

抽象を愛するためなのか、嵯峨は肉体を痕跡化したり、器官へと分解したりして物体の観念化=死へと近づけます。

結果、生命的なものは「血」「火」「熱」へと還元されるのですが、

それが力強いエネルギーを持つわけでもなく、実像から「逃走」する内実の乏しい修辞に彩られて、

うすっぺらく空虚に存在するだけになっています。

 

内へ内へ影を引っ張る家具たちに囲われながら私らの火

ひとという火の体系をくぐらせて言の葉は刺すみずからの火を

忘却の匂いきよらか薄らと霧をまとった熱のみなもと

血だまりに浅い息してゆうぐれの被膜をゆらす熱のぎんいろ

 

このような嵯峨の感性の源泉はやすやすと想像できます。

抽象化され薄められた生命と肉体の物質性を訴える痕跡化、闇への親近性をもとに、存在と非存在の境界を曖昧化していく欲望とは、

20世紀末の映画的と言うべきポストモダンの価値観をアーティスティックだと勘違いした人によく見られるものです。

嵯峨の歌には90年代のモラトリアム感が色濃く残っています。

同世代だからよくわかりますが、まだそんなことをやっているのか、というのが正直な感想でした。

 

秋雨はわれの裡にも降っていて居るか居ないかうつし世の雨

 

この歌集で「われ」が記された歌は珍しいと思います。

この明らかな自己にまつわる歌が「居るか居ないか」という存在と非存在の曖昧さを歌っているのは偶然ではありません。

雨が自身の内部に降るという感覚は、分裂病的な症状を「流用」したもので、

自我の成立以前の自他の区別の薄らいだ状態を示していると考えられます。

となると、嵯峨の歌う「われ」には自己の肉体を超克する「空中浮遊」を夢見るような

「虚構の時代の果て」が生き残っているように感じられてしまうのです。

 

ちなみに嵯峨の歌の多くは散文的すぎるという印象でした。

たとえば上の歌でいえば、「秋雨はわれの裡にも降っていて」だけで理解できるところを、

「居るか居ないかうつし世の雨」などと下の句でわざわざ説明してしまいます。

こういう歌は他にいくつもあります。

 

暗闇の結び目として球体の林檎数個がほどけずにある

水の環の跡形にじむコースター誰か確かに在ったかのよう

きららかな尾を長くひき落ちてゆく構造物の強い引力

長細い白骨のごと伸びている橋この上もなく無防備な

 

一首目は「結び目」と言っておいて「ほどけずにある」はどうかと感じました。

「球体の林檎」ってむしろ球体でないときにだけ形態を記述すべきなのではないでしょうか。

このあたりがいたずらに説明的というか、空虚な修辞が連なっている印象を強めています。

他の歌も、上の句の表現を下の句でもう一度説明するかたちです。

こういう歌を見ると、この人は本当は詩的表現を信用していない、もしくは散文をやりたいのだと感じます。

(まあ、メタファーが信じられないという気持ちは世代的に理解できないこともないのですが、そこは負けてはいけないところでしょう)

散文で発想したものを抽象的な修辞で味付けして表現したところで、詩になるとは僕には思えません。

自分が短歌をやることに対して覚悟が決まらないモラトリアムな心性を、

そのまま作品にしてしまうことに恥じらいがないのはどうかと思います。

説明をやめて短歌的な喩をもっと信頼すれば、この人はもっといい歌を詠めるような気がするのですが。

 

現実とぶつかることを避けて、頭の中の想念に閉じこもり、空虚な言葉と戯れてみせる、

現実に侵されない言葉は一見「緊密で美しいことばたち」に映るかもしれません。

しかしその挫折した幼児性という決して現実化しないピュアさを40代になって抱え続けていることを、

そのままピュアで美しいと真に受けて評価することは簡単ですが、

僕はこういう現実逃避的な自意識表現を評価しているようでは文学に明日はないと思っています。

 

 

 

評価:
嵯峨 直樹
KADOKAWA
¥ 2,808
(2018-06-01)

『【中東大混迷を解く】 シーア派とスンニ派』 (新潮選書) 池内 恵 著

  • 2018.07.06 Friday
  • 12:49

『【中東大混迷を解く】 シーア派とスンニ派』

  (新潮選書)  池内 恵 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   シーア派については詳しいが、スンニ派については物足りない

 

 

『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』に続く池内恵の【中東大混迷を解く】シリーズの第2弾は、

イスラム教の2大宗派のスンニ派とシーア派の対立を扱います。

イランはシーア派が主導的な国で、サウジアラビアはスンニ派主導で仲が悪いとか、

ISIS(イスラム国)はスンニ派に属するなどの情報は僕も知っているのですが、

実態としてどこまで宗派対立が中東情勢に影響を与えているのか、ということまではよくわかりません。

中東情勢に詳しい池内による本書が宗派対立の実際を学ぶのにうってつけだと思って読んでみました。

 

冒頭で池内は中東問題を宗派対立に還元する視点を否定します。

すべて宗派対立が問題だとするのは現実的な理解を妨げるとしながらも、

政治が宗派を利用することが実際に行われていて、「宗派主義による政治は、動かし難く存在している」と述べています。

宗派対立といっても教義においての対立ではない、としながら、宗派は政治的に構成されたとも言い切れない、とも言います。

結局、池内自身は宗派対立の現実について、まともな回答を避け続けているように感じました。

なかなか難しい問題なのは想像できるのですが、他人の見解を否定しておいて自身の見解が不明瞭なのには不満が残りました。

 

第2章はシーア派とは何かを歴史的に振り返ります。

シーア派が第4代カリフのアリーの血筋を正統だと考えていることは、

受験世界史の知識でも知ることができるのですが、

さすがに池内の説明はさらに詳しくわかりやすいもので勉強になりました。

 

シーア派とスンニ派はムハンマド死後の後継者問題に端を発します。

後継者である初代カリフはムハンマドの妻アーイシャの父アブー・バクルですが、

アブー・バクルからウマル、ウスマーン、アリーへと至る「正統カリフ」の権力継承を認める「主流派」がスンニ派で、

ムハンマドの娘婿のアリーが正統な後継者であるべきだった(イマーム)と考える「反主流派」がシーア派です。

個人的に興味深かったのは、シーア派が「あるべきだった権力継承」という理想に立脚して、この現実を超克する立場にあることです。

スンニ派という主流派によって「虐げられた民」であるシーア派というあり方が、

反体制勢力の原動力となり、権力を掌握して王朝を築き上げるまでに至りました。

その代表がアラブ人によって従属民の位置に置かれたペルシア人を中心とするイランだと池内は言います。

 

第3章は1979年のイラン革命について詳しく語られます。

西洋化を進めたパフラヴィー朝がウラマーというイスラム学者による統治体制に打倒されたのがイラン革命です。

池内はイラン革命の衝撃を物語る4つの要素を挙げています。

 

(1)近代化・西洋化に対する否定

(2)イスラーム統治体制の樹立

(3)スンニ派優位の中東でシーア派が権力を掌握

(4)反米路線へ転換

 

このように整理してもらえると、

現在のイランのアメリカやサウジアラビアとの葛藤がどこに根ざすのかがわかりやすくなります。

 

第4章はイラク戦争後の宗派対立について、第5章はレバノンの宗派主義体制について述べていきます。

「レバノン政治は、この本のテーマとなる宗派対立の元祖・家元とも言えるような存在である」と池内が語るように、

本書の目的のひとつにはレバノン情勢を語ることがあるように思います。

 

レバノンが宗派主義体制と言われるのは、国内の宗派の人口比率に応じて政治権限を分けているからです。

レバノンはイスラエルの北に位置し、シリアとも隣接する位置にある国ですが、

これまでキリスト教のマロン派が国内の多数派を占めていたようです。

キリスト教諸宗派の人口が多数派であれば、議会の議席もそれに応じて多数が配分され、

大統領はマロン派、首相はスンニ派、議長はシーア派というように決まっていく、と池内は述べます。

これは各宗派に権限が分散するための工夫ではあるのですが、

出生や移民による人口の変化によりシーア派が実質上の最大派になると、各派が外国勢力を巻き込んで内戦へと発展しました。

その後、1989年にマロン派の権限を弱める「ターイフ合意」で和解がはかられました。

これに反発したのがマロン派の「自由愛国運動」を率いるミシェル・アウン将軍です。

しかし、アウン将軍の部隊がシリア軍に鎮圧されたことで内戦は集結しました。

そのままシリア軍のレバノン進駐も黙認されることになりました。

 

2005年にスンニ派の首相ラフィーク・ハリーリーが爆殺され、シリアの関与が疑われると、

シリア軍撤退を求める大規模なデモが続き、親シリアの内閣が総辞職する

「レバノン杉革命」が起こり、

民主化への期待が高まりましたが、結果はさらなる混乱へと突入しました。

このあたりの経緯は複雑なのでぜひ本書を読んでほしいのですが、

たしかに宗派対立という単純な視点では理解しきれない複雑な出来事に感じました。

 

レバノンにはシーア派のヒズブッラー(ヒズボラ)という反イスラエル勢力が存在します。

ここにはパレスチナとイスラエルの問題も関係しますし、

同じシーア派のイランがヒズブッラーを支援していることもあり、

イスラエルに肩入れしているトランプがイラン核合意から離脱することも、

このあたりの知識がないと理解が難しいと思います。

 

本書ではシーア派についての説明に力点があり、

サウジアラビアなどのスンニ派の実情についてはあまり書かれてはいないようでした。

【中東大混迷を解く】シリーズがこれからどうなるのかわかりませんが、

アメリカやイスラエルがアラブに及ぼしている影響を、池内が客観的に論じた本も読んでみたいと思いました。

 

 

 

calendar

S M T W T F S
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031    
<< July 2018 >>

selected entries

categories

archives

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM