『AI言論 神の支配と人間の自由』 (講談社選書メチエ) 西垣 通 著

  • 2018.06.19 Tuesday
  • 07:56

AI言論  神の支配と人間の自由』 (講談社選書メチエ)

 西垣 通 著

 

   ⭐⭐

   屈折した自己都合の論理が読者にはチンプンカンプン

 

 

現在、AI(人工知能)の発達と実用化のビジネスが投資対象になるなど、AIが経済発展の鍵として注目を集めています。

情報学の専門家である西垣は、AIの基本思想がユダヤ教、キリスト教と深い関係にあるとして、

AIが人間の知性を超越すると主張するシンギュラリティ仮説を支持する人々を批判します。

人間を超えたAIによる支配が一神教的な神による支配と共通する、という西垣の言い分は僕にも納得できました。

 

しかし、本書の構成と主張には大いなる「屈折」が見られます。

シンギュラリティ支持者にユダヤ・キリスト的一神教の欲望を感じ取り、それを批判したいわりに、

なぜか西垣はカンタン・メイヤスーの思弁的実在論(というより思弁的唯物論?)を執拗に持ち出すのです。

思弁的実在論にアニミズム的な反一神教要素を見出す人もいるとは思いますが、それならメイヤスーよりグレアム・ハーマンを持ち出すべきでしょう。

どうして数学や科学へと接合するメイヤスーだけを取り上げるのか、まったくわからないのです。

 

細かいことを言えば、僕としてはメイヤスーの思想だけを取り上げて思弁的実在論と言い続けることにも違和感を感じました。

メイヤスー自身は自分の思想を「思弁的唯物論」と呼んで思弁的実在論と距離を置いたりもしています。

西垣にとってはメイヤスーの思想=思弁的実在論となっているようですが、本来なら正しい認識ではないと思います。

そのため、西垣は本当の思弁的実在論に興味があるのではなく、

日本の商業学者御用達の〈フランス現代思想〉の系譜に乗りたかっただけではないかという疑いを抱いてしまいました。

日本人にとっての〈俗流フランス現代思想〉でしかないからメイヤスーだけしか扱わないのでしょうし、

それなら本書の刊行時にその翻訳者である千葉雅也とイベントをしたのも理解できます。

 

疑念を深めるのは、西垣がメイヤスーを持ち出したことの意義がよくわからないことです。

西垣は第三章をまるまる「思弁的実在論」と名づけて、メイヤスーの概説書でもあるかのように説明するのですが、

たとえそれを読んでメイヤスーの思想を理解できたとしても、

それが西垣の主張であるシンギュラリティ批判とどう関わるのかがハッキリしないのです。

なにしろ、一章を割いてメイヤスーの思想をなぞるように説明したのに、その後の章でこんなことを述べてしまうのです。

 

現代科学技術の哲学的基礎を明確にしようという思弁的実在論の意図は十分理解できる。また、相関主義哲学の開祖であるカントの超越論的議論にたいし、祖先以前的言明を持ち出して有効性の限界を明らかにするというメイヤスーの論法は、専門的哲学者からは異論が出るかもしれないが、論理的には分からないわけでもない。しかし、基礎情報学的には、率直にいって首をかしげたくなる点も多いのである。とりわけ、数学的に表される自然科学的な仮説の形成が、即時的存在を直接指示対象としてあたかも人間の介在なしのごとくにおこなわれ、それを「事実」と見なすというのなら、その議論は、実際に科学技術研究の現場にいた人間からすると、承服しがたいものだ。

 

したがって、AIだけでなく現代の科学技術の哲学的根拠を明確にするためには、思弁的実在論よりむしろ、相関主義思想と類縁関係にあるネオ・サイバネティクスに依拠するべきだという気がしてこないだろうか。

 

こんなふうに結局否定的に評価するなら、なぜわざわざメイヤスーの思想をまるまる一章使って説明をする必要があったのでしょうか。

そのうえ西垣は直後で、「前節で、思弁的実在論の企図に関して疑義を呈したが、

本書は決してその価値を全面的に否定するものではない」などと再び態度を翻すのです。

(キミの批判はしたけど、決してダメだと言ったわけじゃないんだ、というセコいやり口!)

こんな態度では読者は「結局どっちなんだよ」としか思いません。

本書がわかりにくいのは、内容が難解であるためではなく、本書の論の構成に難がありすぎるからなのです。

 

本書の冒頭で西垣は、知とは生存する実践目的なのか真理を探求する形而上学的な目的のどちらなのか、

という問いを立てるのですが、この共感しがたい二者択一がどこから出てきたのかと訝しく思っていると、

後々西垣がこの曖昧さはキリスト教の三位一体の教義が原因なのだ、と主張するに至って、

自説の都合による問題設定であったことが判明します。

自ら形而上学的な問いかけをしたり、西洋哲学を持ち出したりして、西垣自身が西洋的な価値の中で思考していることを示しておきながら、

AI関係者の西洋的・一神教的な視点を、それも西洋思想を用いて批判するのは、僕には茶番としか思えませんでした。

そもそも本書の題名にある「原論」という言い方こそが、神の支配に通じる、すべてを基礎づける絶対知への欲望を示しているのではないでしょうか。

 

最も致命的な勘違いを挙げるならば、西垣が一神教的な西洋思考を批判するものとして〈フランス現代思想〉を持ち出していることです。

 

二〇世紀後半以降の現代思想は、そういう西洋思想のもつ唯我独尊的で侵略的でもある側面を克服しようとしてきたのである。構造主義/ポスト構造主義に代表される文化的多元(相対)主義は、この危険を西洋世界がみずから反省し自覚することから生まれてきた。

 

いまだポスト構造主義の影響にあるバブル脳の西垣は、ポスト構造主義の見かけの相対主義に騙されて問題の本質がわかっていません。

ポストモダン的な文化多元主義は新興国への投資を背景にした、資本の世界的還流運動への転換を学問的に裏付けたものでしかありません。

そんなものを「反省」などと解釈しているお人好しが西洋主義者でなくて何なのでしょう。

 

いまだポスト構造主義などを正しい考えだと思い込んでいる視野の狭さでは、物事の本質がわかるはずもありません。

西垣はポスト構造主義の本質についてまったく理解が足りていません。

〈フランス現代思想〉に代表されるポスト構造主義思想の根源にはユダヤ的な思想があります。

これについてはG・ドゥルーズ学者の檜垣立哉もヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学』の解説で同様のことを言っています。

 

近年のフランス思想の軸は、ギリシア思想対ユダヤ思想にあり、異質なものとしてのユダヤをギリシアに対抗させることでとりだされる「他」にあったようにおもわれる。

 

シンギュラリティ仮説の背後にあるユダヤ一神教を批判するのに、ユダヤ色の強い〈フランス現代思想〉を持ち出すのは、

専問が哲学でないにしても、思想の表層しか理解できていない人間の致命的な間違いだと言えるでしょう。

それがわかっている者からすると、この人は何がしたくてこんな本を書いたのか、首をひねるしかありません。

 

つまり、シンギュラリティ批判に〈フランス現代思想〉の系譜にあるメイヤスーの思想を持ってくるという、

西垣の論の立て方自体に大いなる矛盾があるわけです。

むしろ、ユダヤ一神教の思想を批判するのにユダヤ一神教の思想を持ってきてしまうことの愚かさに気づかない、

日本の知識人のポストモダン一元主義こそが問題にされるべきだと僕は思います。

真に相対的な文化多元主義を信奉するなら、〈フランス現代思想〉以外の現代思想も対等に扱ったらどうなのでしょうか。

分析哲学を排除し、J・ハーバーマスなどの後期近代主義を無視して、ポスト構造主義ばかりが現代思想だと思っている人たちに、

本当の文化多元主義も相対主義もあったものではないと思います。

 

 

 

「nyx(ニュクス) 第4号」 (堀之内出版)

  • 2018.06.17 Sunday
  • 21:00

「nyx(ニュクス) 第4号」 (堀之内出版) 

 

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   中世スコラ哲学を広い視座から捉え直す試み

 

 

日本人の西洋哲学史の一般的イメージだと、プラトン、アリストテレスなどの古代ギリシア哲学からR・デカルトへと飛んでしまいがちです。

その間に位置するスコラ哲学に陽が当たらないのは、日本人のキリスト教受容への抵抗心が関係していると思いますが、

陰になりがちなスコラ哲学を開かれたものにしようというのが今号の特集です。

 

スコラ哲学には僕もまったく明るくないのですが、

「スコラschola」は「学校」を意味する言葉で、多様なテキストを引用し組み合わせて自説を展開する総合的な哲学のことを意味しています。

当然のことながらキリスト教と密接な関係を持つ神学色の濃い思想で、

ドミニコ会のトマス・アクィナスやフランシスコ会のドゥンス・スコトゥスが思想家として有名です。

 

冒頭はトマス・アクィナス『神学大全』の翻訳をした稲垣良典と本特集の主幹である山本芳久の対談です。

山本はスコラ哲学がキリスト教思想とギリシャ哲学の統合を目指したことを述べ、

その魅力について、自然界、人間、神を全体的に考える視点と、概念や言葉を精緻に区分する視点が統合されていることを挙げています。

細分化しすぎている現代の学問を考える上で、スコラ哲学の体系的な発想が意味を持つとも考えています。

稲垣は学問や思想が我々の生と遊離していることを指摘し、

スコラ哲学が「人間として生きているというリアリティ」に結びついていることを強調します。

 

文化や学問が細分化によって生や生活に空虚なものでしかなくなっている現状を問題視して、

稲垣と山本がスコラ哲学の持つ全体的な視点を見直すことを提案していることに僕も共感しました。

デカルトにしてもマキァヴェッリにしても中世の思想家は多様な分野の知に通じていました。

最近は専門バカによるオタク的な発想を正当化したいがために、

それが選ばれし者の「芸術的」発想であるかのように仮構したがる輩も目立ちます。

狭い分野の生半可な発想をいたずらにメタ化することは、知性でもなんでもないという認識が、もっと共有されてほしいと思います。

 

松村良祐は擬ディオニュシオスがトマス・アクィナスの思想に与えた影響について書いています。

このディオニュシオス・アレオパギタについて僕はまったく無知だったのですが、

5、6世紀のシリアの神学者で当時はかなり影響力のあった思想家だったようです。

トマスも、アウグスティヌスと同様の扱いで擬ディオニュシオスを多く引用しています。

パウロの直弟子で『使徒行伝』を書いたディオニュシオスと混同されていたために、

実は別人ということを示すため「擬」とか「偽」とかつけられているようなのですが、

ちょっと気の毒な命名ですよね。

 

松村は『神名論』にある擬ディオニュシオスの「神の愛は脱我を作り出す」という言葉をトマスがどう理解したかを明らかにして、

トマス自身の「脱我」の思想を深く理解しようと試みています。

脱我は自己を離れて他者へと至る他者志向的な在り方です。

しかし、脱我は自己愛の優位性のもとにあるため、自己愛をモデルとして他者愛が派生するというかたちで把握されています。

では、トマスは愛の対象である他者を「もう一人の自分」として自己投影することで、

自己と他者の境界を取り去るような「合一」を考えているかというと、

そうではないというのが松村の主張です。

脱我は神の愛を通じて、自分ではなく愛の対象へと向かっていくために、

他者というものが自分と異なった存在であることを強調することになる、と述べるのです。

 

土橋茂樹の論考は東方神秘主義的な「神との合一」概念がトマスによって再生されるまでの流れを追っています。

プロティノスの「一者との合一」には「自己投企と受容」という対概念が欠かせないことを示し、

偽ディオニュシオス『神名論』において「自己投企と受容」がどのように語られているかを見ていきます。

 

ディオニュシオスは神との合一にあらゆる知性の働きを停止することを求めたのですが、

その後の彼の注釈者(スキュトポリスのヨハンネス?)によって、細分化された部分を総合する知性主義的解釈へと発展しました。

しかし、サン・ヴィクトル修道院のフーゴーからトマス・ガルスに至る学派では、

ディオニュシオスの論にラテン・キリスト教による「愛による合一」の要素が入り込み、

知性を超越した神秘主義的な解釈がなされていて、知性主義的解釈と対照を見せていました。

 

その後、トマス・アクィナスの『神名論註解』でディオニュシオス注解の集大成が成し遂げられるわけですが、

トマスは神から分有された完全性をもとに、その原因へと遡るかたちで否定的に神へと超越していく途を描きます。

除去による途、卓越による途、因果性による途の三段階を経て、第一の根源である神へと上昇する道を、

トマスはあくまで知性によって遂行されるものとして考えています。

そのため、トマスも知性主義的解釈の延長にあるといえるわけですが、

土橋は「自己投企と受容」の力動性を強調する神秘主義的解釈がトマスにも見られるとしています。

 

著書『トマス・アクィナス』で理性と神秘の関係について考察した主幹の山本芳久の論考「三大一神教と中世哲学」は、

前教皇ベネディクト16世の2006年の講演を取り上げ、中世哲学を媒介にイスラム教とキリスト教の現代的問題を考えるというものです。

 

ここで山本は理性と神秘の統合について考察しています。

山本は教皇の講演から中世哲学の理性観である「理性の自己超越性」を読み取ります。

神は人間の理性による把握を超えているのではなく、人間の理性で汲み尽くせない豊かさを備えるため、

理性によって「無限に認識されうるもの」だとして、超越が理性に開かれたものであることを示します。

その後、超越と理性の統合について、イブン・ルシュド、マイモニデスからトマス・アクィナスに至る変遷を追いかけています。

 

他にも勉強になる論考がたくさんあるのですが、書ききれないので割愛します。

個人的に感心したのは、三重野清顕の「トマスとヘーゲル」というヘーゲル論です。

F・ヘーゲルは『哲学史講義』の中でスコラ哲学を「煩瑣哲学」としてあまり評価していないので、

両者の関係を考える論は意外に思えたりもしますが、

三重野はトマスとヘーゲルを同一性と差異の問題において比較していきます。

超越と内在、同一性と差異とが最終的に同一に帰するという点で、ヘーゲルはトマスと異なるとしつつも、

ヘーゲルが対立者を統一的に把握する同一性の思想家という評価は一面的すぎると三重野は言います。

ヘーゲル思想には有限者と無限者を「切り離しつつ結びつける」否定性の概念があるからです。

 

三重野は『大論理学』「本質論」にある本質の自己同一性を取り上げ、

ヘーゲルによれば本質と存在は互いに排斥し合う関係であり、本質と存在は否定的関係にあります。

そのような否定的な在り方は共に存在の領域に属しているため、

本質はそれ自身が自己否定的に存在へとなることで、相互排斥関係を解消していきます。

つまり、本質の自己同一性は自己を無化する自己差異化を経由した上での同一性となるのです。

「本質は、自分でないことによって自分自身である、という否定性である」と三重野は述べています。

 

ここから絶対者を構成する「反省」論へとつながるようなのですが、紙幅の都合で詳細には触れていません。

統一と差異を統合するような反省の自己否定的な活動が、主観と客観を統一する絶対的同一性を導くことが軽く示されています。

対立者を統合するヘーゲル思想の同一性が自己の否定性(他者)を原動力としているという指摘は、非常に重要だと思いました。

 

アラスデア・マッキンタイアのトマス的実在論にも良いことが書いてありました。

マッキンタイアは哲学的な探求が、職業的な哲学者が一般の人々の問いを受けて進めているとしています。

つまり哲学は専門家の知的パズルなどではなく、人生の根本問題に関わるものだと言うのです。

哲学が学問としての自己保存のために、学問領域の興味にしか応えない「批判のための批判」になってしまえば、

それだけ一般の人々には関係のないものとなっていきます。

人間不在の思想などがまさにそれで、こういう思想は学問を言い訳にした「責任逃れ」だと僕も感じています。

 

本誌の第二特集は分析系政治哲学と大陸系政治哲学についてのものです。

政治哲学において大陸系も重要であるというような話でしたが、

正直僕にはそれほど興味深い論考はありませんでした。

 

内容についていくのが大変な特集ではありましたが、新しい思想の世界に触れることができて有意義でした。

 

 

 

評価:
山本 芳久,松村 良祐,土橋 茂樹,坂本 邦暢,松森 奈津子,飯田 賢穂,三重野 清顕,村井 則夫,山内 志朗,アラスデア マッキンタイア,松元 雅和,井上 彰,山岡 龍一,山本 圭,森川 輝一
堀之内出版
¥ 2,160
(2017-08-20)

qqqの『自生地』レビューへの佐野波布一コメントの消去について

  • 2018.06.15 Friday
  • 14:15

 

   批判をしたいならつまらぬ工作などせずに正々堂々とやったらいい

 

 

どうも、佐野波布一と申します。

 

6月14日に「qqq」と名乗るレビュアーが書いた福田若之『自生地』レビューへの佐野波布一コメントを消去しました。

それはこの人物の正体がだいたい想像できたことによります。

 

以前、僕の関悦史『花咲く機械状独身者たちの活造り』のレビューが「加藤」名義のレビュアーの通報によって、

Amazonに消去されたことがありました。

そこには僕の落ち度もあったわけですが、問題点を修正し、Amazonの審査でも了承されたレビューを掲載し直しました。

僕はコメント欄でこの人物に、レビューが良くなったことに感謝していると返答したにもかかわらず、

内容が批判的であること自体が我慢できないこの人は、執拗に僕への嫌がらせコメントを20回以上も昼夜続けただけでなく、

僕の他のレビューのコメント欄にまでコメントを書き込み始めたため、

結局、Amazonに相談して彼が僕のレビューにコメントを書き込めないように処置してもらいました。

 

その後、「加藤」は「nai」と名前を変えて、僕がレビューを書いた句集にレビューを載せたのですが、

それが句集のレビューの顔をした僕への文句丸出しの内容だったのです。

この人は社会的なお仕事をしていないらしく、

社会関係が乏しいためにネット上の自我に執着していて、いつまでも僕への恨みが消えないようです。

「加藤」は関悦史に句評をもらったことがある、と書いてましたので、

関悦史や福田若之のメタ俳句が、こういう社会常識に欠けた人物の実存と共鳴することに納得させられたものです。

 

御存知の方もいるでしょうが、「てーこく」というブログに僕の悪口を載せている「鴉」というブロガーがいますが、

この人物と前記のレビュアーは同一人物であると僕は思っています。

僕がこのブログを今まで放置しているのは、この人物がどうしようもないサイコ野郎だと知っているからです。

書いている内容のおかしさは読む人に知性があればわかることですし、

僕は自分の悪口だからといって言論弾圧するインチキインテリではありませんので、

嘘を含めたいいかげんな記述に関しても面倒なので反論しません。

 

ちなみにこの人物の弱点は我慢がきかないことで、

せっかくネットで名前を変えたり、フランス現代思想へと話題をスライドしてもすぐに正体がわかってしまうのです。

鴉が僕を批判した記事は『フランス現代思想史』という本について書いているものですが、

アップした日付が2017年9月21日になっているので、

その3日前の9月18日に僕が書いたAmazon『天の川銀河発電所』の批判レビューに対する、偽造したリアクションであることはすぐにわかりました。

彼がどんなに『フランス現代思想史』について書いていようと、僕がこの本のレビューを書いたのが2015年3月15日というはるか昔であるだけに、

タイミングからして俳句関係で僕に私怨を持つ人間のしわざだとすぐに見当がついてしまったのです。

 

僕が自分の『フランス現代思想史』のAmazonコメント欄で鴉への反論コメントを書いてやったところ、

その直後に『天の川銀河発電所』のレビューに、コメントだけしてアカウントをすぐに消去した人からの文句がありました。

これが誰の仕業であるかはタイミングからしてバレバレだったのですが、

この人はアカウント名を変えれば愚かな行為がバレないと思っているようなのです。

(現在の『フランス現代思想史』のAmazonレビューのコメントはなぜか当時に消去されたものが復活しています。

それで似た内容のものがたくさん掲載されているのですが、それを消去させた当人である鴉は事情を知っているはずなのに、

執拗にコメントした僕が粘着質だなどとブログで事実の捏造をしているのにはウンザリします)

 

4月中旬に千葉雅也というインチキ学者のツイッターによって、僕は攻撃の矢面に立たされました。

(いまだこの男からは謝罪がありません。いつか公衆の面前で面と向かって問い詰めようと思います)

そこで「佐野波布一」の検索上位にある鴉のブログにアクセスが急増したのでしょう。

いい気になった鴉は4月20日にそのブログに追記を書いています。

qqqの『自生地』レビューはその前日の19日にアップされているため、すべてがつながりました。

僕は句集を出した人物ではないかとコメントに書いてみましたが、そんな立派な人物ではなかったわけです。

(まあ俳句はやっていたので俳人というのは間違いではないのですが)

やり口や僕への文句の書き方も前述のレビュアーにそっくりなので、たぶん当人だと思うのですが、

なにぶんネットなのでハッキリしたことはわかりません。

とにかく、僕はこのサイコストーカーとはもう関わりたくないので、

その人物である可能性があるからには、コメントなどしたくはないので消去することにしました。

 

読者の皆様にはどうでもいい話ではあるのですが、覚書として一度書いておこうと思いました。

 

ついでなので触れておきますが、

田中惣一郎という俳人が同人誌に佐野波布一を連想させる人物の物語を書いたらしいのですが、

前述のブロガーと同じく、書きたいのなら好きにすればいいと僕は思っています。

ただ、フィクションであることや、佐野波布一という人物が何者か伝わるように書くなどの配慮をする必要はあったのではないでしょうか。

僕の感想は、どうせならもっと面白く書いてほしかった、です。

読み物として端的につまらなすぎます。

そもそも僕には「惣一郎って誰だよ?」という感じなのですけどね。

 

若手の俳人はいまだ僕が俳句結社の人間だと思いたいようです。

自分たちが伝統俳句界の外部にいるという自意識があるため、

俳句界の外部にいる存在が自分たちを批判することが受け入れられず、

批判者を俳句界内部の伝統派にすり替えて問題の本質をごまかし続けたいようなのですが、

何度も言っているように僕は俳句を作りません、読むだけです。

 

あなた方の心の平安のために僕が嘘を書いているかのように言われるのは不愉快です。

僕はなるべく本心を書いていきたいと思ってやっています。

職業上の事情があって身元を明かすことができないだけで、匿名のつもりもありません、佐野波布一は本気のペンネームです。

そもそも、関悦史や高山れおなや四ツ谷龍は僕が結社の人間だなんて疑ってもいないと思いますよ。

素人と玄人の区別もつかないのは、あなた方に俳句の勉強が足りないからではないでしょうか。

 

さらについでなので言わせていただきますが、

「「内輪」批判についての備忘録」という外山一機の内輪擁護の文章は知性が乏しいにしてもひどすぎて反吐が出ました。

一般論として書いている体裁ではありますが、タイミング的に僕が無関係とは思えません。

少なくても僕に関しては俳句作品の批評がメインですし、ダメな俳句を批判しない内輪意識を批判したことはありますが、

ただ内輪であることだけを批判したことなどありません。

 

要するに外山の主張は「内輪での褒め合い」には「それだけの切実な意味」があるということなのですが、

内輪にいい面があるのはわかりますが、いい面が手放せないから悪い面には目を瞑るなどということが許されるとは思いません。

内輪意識による集団リツイートというイジメを、内輪に対する「感傷」で正当化することは許しません。

 

外山の文では特定の俳句作品を愛することが内輪意識の肯定へと直接つながれていて、

論理としては全く成立していません。

内輪の「崇高な愛情」と「堕落」は線引きできない、などと外山は言いたいようですが、

それは外山が内輪の中に安住しているからです。

残念ながら、外部の人間であれば線引きの必要もないくらいハッキリわかるのです。

「相手のクォーターバックをつぶせ」という指示が、崇高なのか堕落なのか学内の人間には線引きできなくても、

外部の人にはたやすく理解できるのと同じことです。

 

また、外山は特定の俳句を愛すことがその断念につながるなどという詭弁を弄して、

内輪を褒める時には痛み(ときに美しさへと反転する気色の悪さ(笑))もあるんだ!

というような甘っちょろい「感傷」を内輪擁護の理由として持ち出します。

瑣末な「感傷」を大袈裟に言いたがるのは「涼宮ハルヒ」や西尾維新レベルの自意識であり、

最近の自意識なんちゃって俳句の「若手」俳人と同じ穴のムジナであることを示しています。

(言うまでもないことですが、自意識と「内面」とは別のものです)

そもそもセンチメンタルな人は俳句に向いていないことを彼はどこまで自覚しているのでしょうか。

「僕ちゃんの甘さ」を根拠に、よくもここまで阿呆らしいことが言えると唖然としました。

内部に安住してモラルもわからなくなっているガキのくせに、一丁前のことを言うべきではないと思います。

 

申し訳ありません。

僕も人のことを言えない我慢ができない人間でした。

こんなことは書きたくありませんでしたが、少しだけ個人的事情を書いたことをお許しください。

『対人距離がわからない』 (ちくま新書) 岡田 尊司 著

  • 2018.06.14 Thursday
  • 23:25

『対人距離がわからない』 (ちくま新書)

  岡田 尊司 著

 

   ⭐

   この本との距離がわからない

 

 

人間関係において、人との適切な距離感がイマイチつかめないという悩みは多くの人にあるものだと思います。

その結果、距離感に悩まない内輪の相手とばかり付き合うことも起こるわけですが、

「ほどよい対人距離」を保つだけではリスクは避けられるが何も生まれない、と岡田は言います。

本書では対人距離を縮めて相手を味方にするタイプがどのようなパーソナリティなのかを、

岡田の臨床データをもとにして示していきます。

 

岡田はアメリカの精神医学会の診断基準DSM–犬亡陲鼎い謄僉璽愁淵螢謄・タイプを分類しています。

つまり、もともと精神障害の分類でしかないものを、個人のパーソナリティとして当てはめています。

回避性パーソナリティ、妄想性パーソナリティ、シゾイドパーソナリティは社会適応度が低く、

演技性パーソナリティ、自己愛性パーソナリティ、強迫性パーソナリティは適応度が高い、などと統計データを出して、

このタイプがどうだ、あのタイプがどうだ、という話を延々と続けます。

 

それぞれのパーソナリティについては岡田の別の著書に詳しいらしいのですが、

所詮は精神障害の分類ですので、人間のパーソナリティを表すには一面的で薄っぺらく、

自分自身でどのタイプかと判断するには、当てはまらない部分が多く出てきます。

したがって、医者が患者の病状をどこかに当てはめていくように、

他人のことを表面的にどこかのタイプに分類して済ますことにしか役立ちません。

岡田も石川啄木やハイジ、赤毛のアンや野口英世、ルソーやオノ・ヨーコたちの都合のいい部分を取り上げて分類に役立てます。

正直に言って、自分自身のことを知りたければ、占いの方がまだ役に立つような気がします。

 

取り立てて社会適応が高い演技性パーソナリティの幸福度が高いというデータがあるため、

第6章の「対人距離を操る技術」で演技性パーソナリティの人のあり方を「技術」として紹介するのですが、

そもそもパーソナリティとして成立しているものを「技術」として扱うのは無理があります。

当然ながらその特性を「技術」として身につける方法については岡田は全く語っていません。

 

もともとが精神障害をパーソナリティ化したものなので、それを模倣することが本当に良いことなのかも疑わしいと思います。

たとえば岡田は演技性を正当化するために、社会的知性の本質は演技であるとか言い出して、

 

ふりをして、相手にそう信じ込ませること、つまり演技することが、社会的知性の本質であり、本当の頭の良さということになるのである。それは、あまり暴かれたくないことかもしれないが、現実を動かしている真実なのである。

 

とか書いているのですが、社会をナメているとしか僕には思えませんでした。

なるほど、「本当の頭の良さ」を持つ岡田は、こんな役に立たないパーソナリティをいかにも役に立つように演技して書いているのでしょう。

 

優れた社会的知性は、人間関係において大事なのは、正しいかどうかではなく、相手も喜び、こちらも得することだと考える。つまり、相手の自己愛をくすぐることが、自分も愛されるだけでなく、恩恵を手に入れる方法だということを体得しているのである。

 

こういう調子のいいことを言ってお互いいい気持ちになるのが円滑な社会関係だという低レベルの話を、

「優れた社会的知性」などという言葉で語ることには不愉快さしか感じませんでした。

僕は精神科医をあまり信用していないのですが、こういう本を読むとなおさらそういう気持ちが強くなります。

岡田自身の自己満足データの与太話に付き合いたい人だけに本書はオススメです。

 

 

 

『武士の日本史』 (岩波新書) 高橋 昌明 著

  • 2018.06.11 Monday
  • 09:24

『武士の日本史』 (岩波新書)

  高橋 昌明 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   武士という存在を広い歴史的視野で考える

 

 

「〈常識〉vs〈史実〉」という帯を見ると、本書が「一般常識と違って史実はこうだった」ということを書いた本だと思えますが、

実際に読んでみると、もっと内容の深い手強い本だとわかります。

わかりやすい軽い本という印象がセールスに結びつくという発想は理解できますが、

デキの悪い本ならまだしも優れた本であっただけに、

こんな宣伝しか思いつかないのか、と岩波書店には少し失望しました。

 

著者の高橋は中世史が専門で、平清盛の政権を「六波羅幕府」とすることを提唱している挑戦的な学者のようですが、

本書は武士の全体像を描き出そうという試みであるため、

その視野は広範に及び、三島由紀夫の切腹事件までもが扱われるのですが、

専門性に依存しない教養ある冷静な筆致には矜持が感じられて好感を持ちました。

 

第1章は「武士とは何か」をその発生に立ち戻って考えます。

高橋は武士が武芸の技に秀でた芸能人として誕生したと考えています。

それが家業として受け継がれたので、武士は特定の家柄の出身者に限られるというのです。

つまりは歌舞伎の家みたいなものとして成立したということです。

高橋は武士と侍は違うと言うのですが、このあたりも説明が専門的でとっつきにくさがあります。

侍というのは家の格を表すらしく、六位クラスの下級貴族にあたります。

侍の中で武芸で身を立てれば武士、文芸であれば文士となるのです。

 

遅くても平安前期には武士は存在したようですが、発生場所については諸説あるようです。

武士が地方で発生したという説に対して、高橋は都で発生したと考えています。

門外漢の僕にはどちらが主流なのかわかりませんが、武具のデザインを根拠にした高橋の説にもそれなりに説得力はあります。

 

細々した情報が難しいのも本書に読み応えがある理由だと思います。

武士の登場と関係が深い「エミシ」征伐について書かれるときに、

高橋は「エミシ」とカタカナで記述しているのですが、

ときに俘囚という字を当てていて、蝦夷じゃないの?と不思議に思っていると、

俘囚には朝廷の支配下に入って一般農民に同化したエミシという説明が加えられています。

しかし、別のところでは俘囚(エミシ)とは律令国家によって東国に強制移住させられた人たちだと書かれていて、

僕にはエミシや俘囚をどう考えていいのか理解が及びませんでした。

 

自力で武力を行使できる武士という存在が社会に許容されたのは、それを認知する権力があってのことです。

そのことを考えなくては武士論としての条件を満たしていない、と高橋は述べています。

そして、今より圧倒的に中央集権が行き届かなかった時代に、

地方で武士がどのように王権(その代理である地方長官)から承認されたかを考えます。

このような王権からの承認を武士の発生の条件とすることで、高橋は武士が王権の近くで発生したことを裏付けたいようです。

62ページまでの第1章だけでも、これだけ多様で濃密な内容です。

 

第2章は源平の争乱から南北朝や戦国時代、江戸時代までの武士の変遷を追いかけます。

この章も盛りだくさんという内容で、高橋の持論である平家政権を「六波羅幕府」と考えるべきだという主張がコンパクトに組み込まれています。

源頼朝や木曽義仲の挙兵など反平家の反乱が拡大したのは、中央に対する地方の不満の爆発であって、

源平の覇権争いに矮小化するべきものではない、というあっさりとした記述にも深い学識を感じました。

 

豊臣政権によって行われた太閤検地が統一権力による現地の正確な把握を進め、その延長に石高制が成立したこと、

秀吉の「身分統制令」や刀狩りによって、武士と百姓が区別されていったこと、

高橋の説明だと江戸幕府の全国支配の基礎をいかに秀吉が作ったかがよくわかります。

 

第3章は武士の武器と戦闘の実情について書かれています。

馬に乗ってどのように弓を射たのかについてや、刀を片手で扱ったりしたこと、

馬を降りたら馬は後方に下げて戦ったなど、ドラマで描かれるのとは違った戦場の実際が述べられます。

僕が印象に残ったのは「旗指」という人々です。

旗は敵味方の区別や自己顕示のシンボルとなるものですが、主人に付き従って旗を持つのが旗指の役目です。

重い旗を持ち弓を持てない上に目立つため、かなりの確率で生きて帰れなかったようです。

 

第4章は「武士道」についてのわれわれのイメージを覆していきます。

戦国時代までの武士は降伏した敵には寛大であったことや、

主人を何度も変えることも珍しくなかったことが示されます。

死の覚悟を武士道とする『葉隠』は江戸時代においてはマイナーな思想でしかなく、

むしろ近代以後に影響を与えたものだと高橋は述べて射ます。

 

面白いのは、東アジアという視点から見ると武士の思想というものが不思議で理解に苦しむものだろうという指摘です。

儒教は本来、武力などの強制による支配ではなく、文の力によって道徳心を高めて社会の秩序を実現することを目的としています。

その背景には暴力的な力への忌避という性質があるため、武人は高く評価されません。

このような文人支配が未確立だったこともあり、日本では武人の支配体制が確立したのですが、

統治者となった武士の役割が官僚的になったところで儒教が取り入れられることになったために、

日本の儒教理解には独特なものがあるというのです。

今も自衛隊のシビリアンコントロールが時々問題になりますが、日本の文人支配の弱さという歴史背景を考慮すると有益である気がします。

 

第5章では明治以後にまで視野を広げていきます。

ここで高橋はわれわれの戦国合戦のイメージが、帝国陸軍の横井忠直の関わった『日本戦史』シリーズによって生み出されたと主張します。

織田信長の桶狭間の奇襲や長篠の合戦の武田騎馬隊の三段撃ちでの撃破の様子は、

この『日本戦史』に描かれたものが通説化したものらしく、実際は事実に反するようなのです。

 

新渡戸稲造の『武士道』は、高橋によると「近世に存在した士道・武士道とはまったく別物である」とのことです。

新渡戸の描く武士道は西洋の騎士道からの類推であって、日本に西洋に匹敵する伝統があるとしたい、

今でも存在する、さもしき日本人の捏造精神の現れであったようなのです。

他にも「そうだったのか!」と思わせる内容が次々に書かれていて、

しっかりと説得力もあって読み応えは十分です。

 

終章では武士に対するさらに面白い見方が述べられています。

武士はモノノケや邪気を祓う「武」という呪力を司る、陰陽師などと似た存在であったというのです。

「従来歴史研究者は、武士のこうした機能にはまったくといってよいほど関心を持たず」と高橋は述べるのですが、

いやあ、それはそうでしょう、あなたの説は刺激的すぎますから、と思いました。

高橋が魔除けとしての武士について、源頼政の鵺(ぬえ)退治のエピソードを取り上げているのですが、

僕はこの話を読んだことがあるので、実は高橋説に少し信憑性を感じています。

なかなか支持されにくそうですが、個人的にはこの人はすごいのではないか、と感じてしまいました。

 

本書は単なる武士論にとどまらず、視野の広さから日本論とでも言うべき内容に達していると思います。

広い興味を持ったマニアックな人にこそオススメします。

 

 

 

『芭蕉と曾良と◯◯と』 (ゼノンコミックス) 楠木 ひかる 著

  • 2018.06.08 Friday
  • 20:38

『芭蕉と曾良と◯◯と』 (ゼノンコミックス)

  楠木 ひかる 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   松尾芭蕉のソフトBLは変身モノ

 

 

破廉恥イケメンの松尾芭蕉と素朴な美少年の河合曾良の同居生活をやんわりBL風に描いたマンガです。

 

歴史人物がイケメン化するのはスマホゲームなどでもお馴染みというところですが、

色気ある侍系男子に比べて芭蕉と曾良という「爺むさい文化人」セレクションに無理がないか心配になるところです。

 

そこは文化人ならでは、の設定のおかしさで乗り切ります。

「実は芭蕉には口外無用の秘密がある」と曾良はいうのですが、

その秘密とは、芭蕉は俳句を作るときだけ破廉恥イケメンに変身し、

それ以外の時はエネルギーを使い果たして5歳児同然になるというものです。

普段の芭蕉は美少年曾良に世話を焼かれる天真爛漫なガキンチョでしかないのに、

俳句モードに入るとエロ俳諧イケメンへと「変身」して、純朴な曾良を恥じらわせるのです。

 

押し倒したり、壁ドンだったりとハードな描写はありませんが、

キメ画に俳句が挿入されるのが妙に不条理で笑ってしまいます。

「蕉門十哲」と呼ばれる芭蕉の高名な弟子たちもイケメンぞろい。

(杉風のグローブとか其角のジャケットとか、江戸時代を逸脱していくファッションも見どころです)

日常系ソフトBLというテイストですが、イケメンが織りなす不条理ギャグとしても楽しめます。

 

俳句に対する興味が必要ということはありませんが、

作中の俳句についての解説コーナーがあったり、

芭蕉のこの句をこんなシチュエーションに使うのか、など俳句に興味がある人はより楽しめると思います。

 

BLの様式は「攻め」と「受け」がわりあい固定化しているので、シチュエーションへの興味が自然と強まります。

形式的でシチュエーション重視という性質が俳句と案外似ているんですよね。

イケメンと同じくらい自然風物の見せ方も美しくなっていけば、さらに味わいが出るような気がします。

 

(付記)

 

このマンガのBL的な要素はあくまでソフトなものなので、ここでBLの考察をする必要もないのかもしれませんが、

いい機会なのでちょっと整理しておきたいと思います。

 

BLはボーイズラブの略ですが、多くは男性同士の性描写が描かれます。

そこには「萌え」と同じく性的な欲望が介在します。

特筆すべきはその構図の様式化で、

「攻め」の側は長身で大人びた美形風男子、「受け」の側は短身の少年風男子というパターンが王道です。

 

能動と受動が様式として固定化されることには、男性と女性の歴史的な位置付けの影響が感じられます。

男性と女性の関係を男性と男性の関係に置き換えているわけです。

ポイントは「女性の身体が不可視化されている」という点にあります。

BLの受容者は女性が前提とされているため、女性の視点で見ると、

BLは自分自身の身体的な女性性に反省的に向き合うことなく感情移入できるようになっていることに気づきます。

 

その意味では女性読者は「受け」の男性に対してより感情移入することになると予測します。

「受け」の方も男性として描かれることで、

女性は性的に受動の立場にあったときも自らが女性として振舞うことの重圧から解放されます。

重要なのは、自らが女性であるという事実をカッコに入れることで、性欲を軽やかに消費することが可能になるということです。

 

男性の「萌え」もそうなのですが、

性欲を自分から切り離して軽やかに消費することは、

自らの性欲を社会的に交換可能なものとする「物象化」の現象だと言えるのかもしれません。

 

BLを読んで感じるのは、愛し合う二人の男性がソウルメイトというか、魂の同質性において結びついているように思えることです。

構図は対照的でも内面的には同質的であって、その内輪的世界観がオタク気質と相性が良いのだと思います。

そのような同質性の内輪空間は、自らの身体を不可視化することで成立する、「私」の不在によって支えられています。

 

このような他者不在のオタク的世界のあり方と最近の俳句のあり方に共通性があることを、

はからずも本書が示していたのは興味深いところでした。

最近の「若手」俳人の中には、「私」の不在を何か高尚なものであるかのように語る人がいて、

それをアートであるかのように「勘違い」したがっているのですが、

そのようなメタ化による「私」の不在は、前述したようなBL的なオタク文化の発想と共通しています。

本質はアートではなく、サブカルでしかないわけですが、教養のない人にはその違いがわからないようなのです。

 

どこぞの俳人が男のくせにBL俳句などというものを作っていることについては、もはや語るのも忌まわしいのですが、

男性がBL作品と銘打って作品を作るということは、

自身の延長である身体を描きながらも「私」の不在が実感できるということでしょうから、

自らに実感できる身体性そのものが不在であることを明らかにした作品でしかないという結論になります。

この人は自分の身体的基盤をとっくに失っていて、ただメディア空間を漂う「流通する自意識」としての自己を生きているのでしょう。

僕にも長年の持病が刻まれた自分の身体を憎む気持ちはありますが、身体不在の生が成り立つというのは妄想です。

自己や現実からの逃避はサブカル作品にはなりえても、文学や芸術には絶対になりえないことを強調しておきたいと思います。

 

 

 

『日本の国難 2020年からの賃金・雇用・企業』 (講談社現代新書) 中原 圭介 著

  • 2018.05.30 Wednesday
  • 09:30

『日本の国難 2020年からの賃金・雇用・企業』 (講談社現代新書)

  中原 圭介 著

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   東京一極集中が少子化の元凶

 

 

本書で中原は日本の経済の先行きを懸念しているのですが、東京一極集中の問題を別にして、

内容を拡大すれば「世界経済の危機」と考えてもいいような内容です。

日本経済の問題にとどまらないだけに、その深刻さは読んでいて憂鬱になってしまうくらいです。

 

経済政策は「普通の暮らしをしている人々のために存在している」と考える中原は、

現在の経済政策や金融政策が富裕層や大企業にだけ恩恵があり、

大多数の普通の人のことを考えていないことを問題視しています。

これは経済的弱者の立場に立つ左派的な意見というわけではありません。

消費活動によって実体経済を下支えしているのは、大多数の普通の人々だという現実があるからです。

一部の人だけを裕福にしているだけでは、総体としての経済は低迷するしかありません。

 

最近の株価などから判断すると、先進諸国は好景気だと言えるでしょう。

しかし、中原は現在の景気が異常な量の国の借金(公的債務)で成り立っているため、

非常にリスキーな状況にあると述べます。

 

今の世界の経済状況は、経済に過熱感はまったくないものの、後に「借金バブル」だったといわれるかもしれません。なぜなら、リーマン・ショック後の世界経済は借金バブルによって支えられてきたからです。今の長期にわたる世界経済の緩やかな景気拡大期は、借金バブルの賜物であったといえるのです。

 

アメリカでは低金利を背景に借金による消費が進み、中国では企業などの民間債務のペースが増したことで、

世界の公的債務は異常なペースで膨らんでいます。

僕は欧州の債務超過を問題視する別の本も読んだことがありますので、

今のような経済状況がいつまでも続かないことはよくわかります。

 

それ以上に興味深かったのは、

中原がAI利用の拡大が、人件費の削減以外の恩恵を大してもたらさないと考えていることです。

AIによって多くの雇用が奪われる、という指摘は特に珍しくもないのかもしれませんが、

中原の記述には悲観的なトーンも反発心も感じられることはなく、ひたすら分析的なので、

淡々と末期ガンの説明を受けているような気分になります。

イノベーションによって新たな雇用が生まれる、という発想は通用しないと中原は述べます。

 

いま実現を目指しているイノベーションは、これまでとはまったく様相が異なります。21世紀以降のIT、AI、ロボットによるイノベーション(第4次産業革命)は、コストを抑えるための自動化を最大限にまで推し進め、これまでの産業集積や雇用を破壊していくという特性を持っています。

 

この結果、AIやロボットによる効率化は、世界的に失業者を増加させると中原は指摘します。

「資本」の原理による効率化を極端に推し進めることが、本当に「社会」にとって効率的なのか、

「資本」と対決できる民主的な「社会」の論理が必要になると僕は感じました。

 

中原が日本経済の最大の問題点とするのは少子化です。

これから少子化が進むために社会保険料の負担がますます増加していき、

賃金や給与から税金や社会保険料を差し引いた手取り分である「可処分所得」は、

2020年あたりでは実質10パーセント以上の減少もありえるというのです。

 

最後の章で中原は東京圏への一極集中が少子化の元凶だと指摘します。

地方の人口が東京に流出しているだけでなく、最近では名古屋や大阪など他の大都市圏の人口を東京が吸い上げるまでになっています。

東京は生活コストも高く、長時間労働が常態化しているため、晩婚化による少子化が地方より進んでいます。

東京一極集中が進むと、それだけ少子化のペースが早まるのです。

 

前々からわかっていた問題なのに、政府は有効な対策を講じることができていないわけですが、

中原はコマツという企業が本社機能を東京から石川県へと地方移転したことを紹介して、

このような取り組みが対策のひとつとして期待できることを訴えています。

ただ、コマツのようなケースが多くの企業に当てはまるかどうかは、不透明だと思いました。

 

東京一極集中はずいぶん前から問題として存在していましたが、

ほとんど実質的な意味がない憲法改正と比べても、明らかに一般レベルでの議論の対象となっていません。

石原慎太郎東京都知事の時に、首都機能移転が持ち上がったこともありましたが、

候補地の話が出たあたりで「やっぱり」立ち消えになってしまいました。

省庁の地方移転も進める話もありますが、まだ消費者庁くらいしか実際には動いていないはずです。

民主党政権が倒れて以後は、地方分権の構想も表に出なくなりましたし、

現政権は束の間の「今」の繁栄だけを追い求める無責任な政治を行なっていて、それを多くの国民も支持しています。

 

本書では東京一極集中の問題にそれほどページが割かれていませんが、

僕は日本人の天皇制を精神的基礎とした中央との同一化という「歴史的精神」が影響していると思っています。

都の真似をする「みやび」が日本人のオシャレ精神として歴史的に受け継がれてきただけに、

日本人自身の手では永遠に解決は不可能だと僕は予想しています。

国家財政が破綻してIMFでも入ってこないことには、日本は変わらないのではないでしょうか。

 

 

 

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