「俳句四季」2018年2月号 (東京四季出版)

  • 2018.02.18 Sunday
  • 19:49

「俳句四季」2018年2月号

  (東京四季出版)

 

   ⭐

   自社で出版したら疑問ある作品でも「名句集候補」扱いする尻軽雑誌

 

 

今号の座談会「最近の名句集を探る54」で福田若之の『自生地』が取り上げられています。

僕はすでに『自生地』をレビューして、この本をほめる俳人が問題だと書いているので、

この座談会で軽薄に『自生地』をほめた俳人にものを申したいと思ってレビューを書きます。

 

まず、福田の書いたものを俳句として簡単に処理する人が、僕には理解できません。

あとで説明しますが、散文性が強く、贔屓目に評価しても短歌的(それもニューウェーブ)でしかありません。

したがって、このことに疑問を持たない俳人は、俳句と散文、または俳句と短歌の違いがわかっていないということなので、

俳句をやっても上達する見込みはないと思います。

また、『自生地』を出版するのはいいにしても、「名句集」扱いをして次号に特集まで組む「俳句四季」という雑誌は、

ただ商売のために俳句本を出しているだけで、俳句文化に対する尊敬もなければ勉強もしていない尻軽雑誌であるようです。

俳句界は批判が成立しない自己愛原理の文化なので、土壌がどんどん腐っています。

 

その座談会のメンバーですが、筑紫磐井が司会で、あとは齋藤愼爾、相子智恵、前北かおるの4人です。

実際にほめているのは相子智恵くらいで、筑紫は温情的、齋藤は批判的、前北は関心が薄いというスタンスに見えました。

その後の小野あらたの句集に関しては、みんなでうまい、うまい、と連発しているだけに、

『自生地』がどうにも名句集を探る企画にふさわしいとは思えないのですが、そのあたりは魂のない出版社が自己宣伝したくてやっているのでしょう。

それでも筑紫磐井と相子智恵の発言には看過できないものがありました。

 

まず僕が問題だと感じるのは筑紫磐井のいいかげんなスタンスです。

筑紫は句数の多い俳人を自分は批判しているとして、関悦史や北大路翼を福田とともに挙げてこう言っています。

 

 関悦史さんの句集は全部テーマを変えて十数編の短編小説のよ

 うな格好で並べているし、北大路さんの句集は風俗物の長編小

 説のようになっています。福田さんの場合は非常に演出に凝っ

 ているような気がしました。

 

「小説のよう」であったり「演出に凝って」いたりと、つまるところ彼らがいかに散文性に寄りかかっているかを言っているわけです。

筑紫は「句数の多い句集というのは、ある意味自選能力を否定しているようなものだと常日頃批判し」ているとしつつ、

引用文のように擁護を始めるわけですが、

このような批判に対処するためには、ただ句数を減らせばいいだけということになります。

しかし、ただ句数を減らすだけなら誰だってできるのではないでしょうか。

その意味で筑紫の批判にはほとんど中身がありません。

彼らの問題は「自選能力の否定」にあるわけではありません。

一句で勝負できないために、散文性に寄りかかり、小説のような構成や演出をする必要が出てしまうのです。

つまり、問題は散文性への依存にあるのであって、そこを「自選能力」などというものにすり替えて語ることは、

筑紫が問題を認識できていないか、ごまかしをしているかのどちらかだと思っています。

そもそも筑紫は散文脳の関悦史の庇護者のような役割を果たしてきたわけですから、

選句をしないことだけを批判する態度は、アリバイ批判というか官僚的二枚舌だと感じます。

 

あと、筑紫が福田の句?のいくつかを挙げて「残りうる句だと思います」とか言っていますが、

僕は話題性が尽きたらどこにも残っていないと思います。

 

 ヒヤシンスしあわせがどうしても要る

 図書館までの七月の急な雨

 おもしろくなりそうな街いわしぐも

 あんみつにこころのゆるむままの午後

 

などがそれですが、こんな作が三橋敏雄と並んで残るわけないでしょう。

本気で言っているとしたら筑紫の俳句眼を疑います。

ハッキリ言いますが、福田の作はただの「あるあるネタ」です。

そこには詩的感動などまったくなく、安っぽい共感があるだけです。

俳句や詩が追い求めるものが安っぽい共感であるとでも筑紫は思っているのでしょうか。

まあ、それならさっさと俳句をやめたほうがいいでしょう。

「しあわせがどうしても要る」そうだよね〜

「七月の急な雨」まいっちゃうよね〜

「おもしろくなりそう」いいね!

「あんみつにこころのゆるむ」画像upお願い!

こんな感じのSNS的な内的感情の駄々漏らしですよ。

俳句とツイッターの区別ができない若者が俳句界隈には多く存在しすぎているのではないでしょうか。

 

僕は福田が「かまきり」とか「小岱シオン」とかいう言葉を、彼の著作の中だけで成立する隠喩的な語として用いていることについて、

問題を感じていない俳人の意識の軽さに驚いているのですが、

一句ではなく一冊を作品単位と考えている福田が、自作の中で「かまきり」を特別な隠喩として用いている場合、

それは季語たり得るかといえば、そうではないというのが僕の立場です。

コノテーションと予防線を張れば許されるというレベルの行為ではないと思っています。

福田が「かまきり」という語を自分の作品内での個人的な意味に用いている場合、

そこに季感が存在しないのはもちろん、外部の対象への関心自体が失われていること、

ひいては他の俳人との共同性に背を向けていることを読み取らなくてはいけません。

福田は自分の内面にしか興味のない甘えた人間であり、季語というものを作品を俳句に見せるための形式的な道具としか理解できていません。

僕は俳人ともあろう者が、季語に別の役割を担わせる依存行為(千葉雅也的に言えばハッキング)を、

どうして平然と受け入れられるのかわかりません。

まあ、批判という回路を捨ててしまった「自己慰撫の集団」だからでしょうね。

(もちろん、福田を批判している齋藤は違いますよ)

それでも筑紫のような季語について本を書いている人が問題を感じないのは致命的です。

こういうことが気にならない人の書いた本など読むだけムダです。

僕は一冊だけ筑紫の本を持っているのですが、早々に紙ゴミにしたいと思っています。

 

また、筑紫は「我々は「俳句」という枠組みで作ってしまっているけれど、

福田さんはあえてそれを壊そうというところからスタートしている」とも述べていますが、

福田を革命家扱いするトンチンカンの大まちがい発言です。

何度も言いますが、福田は俳句以外のものをやる力がないために、

一生懸命自分の句 ?を俳句として受け取ってもらおうと努力しています。

だから東京四季出版から句集を出すのですし、自分の本のことを「句集」「句集」と書いてアリバイを作っているのです。

(そして「名句集候補」扱いですよ)

「あえて」と言うなら普通に俳句らしい俳句が作れるということですよね。

筑紫は福田のそういう句を見たことがあるのでしょうか?

(「七月の急な雨」とか言っちゃって、「夕立」「驟雨」という季語も使いこなせない人ですよ)

どこに「あえて」という根拠があるのか、「とりあえずアゲとこう」という官僚的二枚舌もいいかげんにしてほしいものです。

 

それから福田を恥ずかしいくらい擁護している相子智恵ですが、

福田のスタイルも批判できない程度の気持ちでやっているなら、

この人の俳句が上達しないのも仕方がないと思いました。

相子は福田に「俳句を愛しているゆえの切実さ」があるとか言っちゃってますが、

僕の『自生地』レビューを読めばわかる通り、福田は俳句など愛していません。

自分が愛されたいだけです。

自分を俳人として認めてもらい、愛してもらう切実さ、のために俳句が大切になっているだけです。

相子が能動と受動の違いも区別できないのは、それこそ作品に対する切実さが欠けているからだと言わざるをえません。

自分の勝手な思い入れで判断するのではなく、作品自体の解釈から作家の態度を評価するべきです。

俳人は相手に会った印象で勝手に作品を判断することが多すぎます。

藤原定家も作者による作品判断を嘆いているので、そのような態度は昔からよくあることなのでしょうが、

文学的には不誠実でまちがった態度です。

それとも相子は、自分以下の存在を擁護すれば、伸び悩んでいる自分自身を慰撫することになるとでも思ったのでしょうか。

どちらにしても不誠実な人物だとしか僕には思えませんでした。

 

たとえば相子は「九月は一気に青空だから(うつむく)」という句を取り上げて、

 

 こういう風に()を入れたり、言葉や構造に触れないといられな

 いという、切実さが感じられます。

 

などと言っているのですが、カッコを使うだけでずいぶんと大げさな評価です。

相子はわかっていないのかもしれませんが、俳句には「切れ」というものがあります。

「切れ」によって句の中に時間の断絶や主体の転換を表現することができる「構造」を俳句は持っているわけですが、

そんなに構造に触れる「切実さ」があるのなら、どうして福田は「切れ」を学ばないのでしょう?

「切れ」を学習せずに安直に()を用いる態度は、むしろ俳句形式への不信の現れだと考えるべきです。

このような表現を用いることが、彼の作品を俳句より短歌に近づけるのは必然です。

そういうことがわからない相子は、勉強不足というか俳句を無自覚にやっているだけの俳人だとわかります。

 

さて、座談会の不誠実な俳人についての罪状はこれくらいにして、

福田の句?が俳句より短歌に近いということを書いて終わりにしたいと思います。

そもそも自らの内面をそのまま吐露するスタイルが短歌の方に近いのは言うまでもないことです。

それ以上に、『自生地』の散文パートを長い長い前書きと捉えた時に、それが短歌から散文への流れにあることがハッキリします。

 

最近ちくま学芸文庫として復刊された大岡信の『紀貫之』には興味深い説が書いてあります。

大岡は紀貫之が『伊勢物語』の作者かもしれないと語った上で、

貫之の歌の多くが屏風歌であることを指摘します。

そこで貫之という歌人が、「虚構を日常茶飯とするジャンルの名匠であった」とします。

そのような虚構性の強い貫之の歌に添えられた前書きが重要な外部文脈であることを大岡が指摘しています。

 

 けれども、一首妙に切実な実感がこもってきこえるのは、「宮

 仕へする女の逢ひがたかりけるに」という詞書によって、二人

 の置かれた具体的な状況が想像できるからであろう。この詞書が

 ない場合、歌はかなり不安定なものになることは否定できない。

 

そう言って、貫之の歌には一人称より三人称の世界に置いた方がおもしろい歌が多いとします。

 

 その結果どういうことになるかといえば、歌というものを物語

 化しうるものとして、また物語の観点から、眺めるという習性

 が必ずや生じたはずなのだ。(中略)歌というものを、それが

 実際にうたわれた具体的状況から引き離し、別の想像的世界の

 構成要素として生かすとき、そこにはやがて伊勢物語的な歌物

 語の世界が生れるだろう。

 

つまり、前書き(詞書)に依存した「別の想像的世界の構成要素」となった歌が物語へと変化したというのが大岡の見方なのです。

なかなかの慧眼だと思いませんか?

「別の想像的世界の構成要素」と化した作品は、すでに散文の一部となっているということです。

そして、それは歌から物語の変化をたどっているのであって、俳句のあるべき位置ではありません。

(いや、むしろ俳句はこの変化に逆行するものであったはずです)

そうなると、福田の作品は俳句の自己否定であるということです。

俳人が『自生地』をほめることを僕が激しく糾弾するのは、

もちろん私怨(笑)などではなく、俳人が俳句を否定することが見ていられない(つまり俳句への愛)からなのです。

 

まとめますが、福田は俳句をあえて破壊しているわけではありません。

俳句でないものを俳句だと偽ろうとしているだけなのです。

それは俳句よりニューウェーブの短歌に近いものですし、

だからこそ次号で加藤治郎が『自生地』の作品鑑賞を書くことになるのです。

福田の句?にはまだまだ言いたいことがありますが、この魂のない雑誌では次号も『自生地』の特集をするようなので、

その時にまた書こうと思います。

 

 

 

『哲学の最新キーワードを読む』 (講談社現代新書) 小川 仁志 著

  • 2018.02.17 Saturday
  • 19:04

『哲学の最新キーワードを読む』 (講談社現代新書)

  小川 仁志 著

 

   ⭐

   目配りだけで中身のカラッポなドイヒーな商売本

 

 

僕は小川仁志の本を初めて読んだので、他の本のことはわかりませんが、

本書だけを見る限り、何度か読み切るのを断念しそうになるほど、どうしようもない内容だと思いました。

 

小川の問題意識と結論に関しては、むしろ僕も賛成という立場です。

G・ハーマンに影響を受けたような(軽薄!)図式にあるように、

小川は感情、モノ、テクノロジー、共同性という四つの知を連結した「多項知」を掲げ、

「私」と社会をつなぐこれからの公共哲学の必要性を訴えます。

いや、別にこれは全く悪くない発想だと思うのです。

 

小川はポスト・トゥルース現象や哲学の思弁的転回を受けて、

現代は「脱理性時代」の段階にあり、テクノロジーの発達がそれを後押ししているとします。

それに対して、「理性そのものをアップグレードすること」が新たな公共哲学に求められると小川は述べるのですが、

このあたりに関しても別にいいことを言っていると思います。

 

グランドデザインはこのように悪くはない気がするのですが、

細部の内容に入ると、ボロが出まくりで読む気が失われていきました。

当然、その新しい公共哲学の実現性はほとんどないのは明らかで、

ただ耳に心地よい夢物語を語っているだけの、思想を用いた商売本であることがわかりました。

僕はもう二度と小川の本を読む気はありませんし、哲学者という肩書きも信用しません。

 

まず、細部のずさんな論の進め方について書いておきます。

小川は最初にポピュリズムを扱っています。

そこで小川は「反知性主義」という言葉が広まった理由をトランプの台頭と結びつけて語ります。

 

 アメリカ大統領選にドナルド・トランプが名乗りを上げ、大方

 の予想を裏切る快進撃を続けるにつれ、反知性主義という言葉

 が人口に膾炙するようになった。

 

「なぜトランプの快進撃によって反知性主義という言葉をよく耳にするようになったのか」

とも小川は書いているのですが、

僕はこの言葉を垂れ流した本の多くにレビューを書いたのでよく覚えているのですが、

日本で「反知性主義」という言葉が流通したのはトランプ現象のためではなく、

知識人が安倍内閣批判をするために用いたのが発端です。

内田樹と白井聡が中心となって『日本の反知性主義』を出版したのは、2015年3月のことです。

現代思想の反知性主義特集が2015年1月で文芸誌の「文学界」の反知性主義特集は2015年の6月です。

小川も引用している森本あんりの『反知性主義』も2015年2月です。

反知性主義という言葉が人口に膾炙したのが2015年の前半にあたるのは明らかです。

それに対し、トランプが共和党の指名候補に選出されたのが2016年7月ですから、

トランプが大統領になるかもしれない、という流れのだいぶ前になるわけです。

だいたい内田たちの『日本の反知性主義』という本は「日本の」と書いているわけですから、

トランプ現象とは何の関わりもありません。

森本あんりの『反知性主義』の帯には今でこそトランプの写真があったりしますが、

出版当初の帯にはありませんし、本の中で森本がトランプに触れた部分もないはずです。

 

このような状況を記憶している人間からすると、

反知性主義がトランプの快進撃によって人口に膾炙したなどという記述こそが、

ポスト・トゥルース以外の何物でもないと感じます。

自らポスト真実を生きている人間が、どうやってポスト真実を乗り越える公共哲学を生み出せるというのでしょうか?

 

安倍晋三によって人口に膾炙した「反知性主義」という言葉を、

トランプのためという嘘にすり替えるのはどうしてなのでしょうか?

小川は山口大学の准教授です。

山口県といえば安倍晋三のお膝元ですので、まさかとは思いますが、そこに忖度があったのではないか、と考えてしまいます。

 

小川のずさんな論はこれだけにとどまりません。

思弁的実在論についての説明にも胡散臭さが爆発しています。

だいたい、この男は思弁的実在論の説明になるとひたすら千葉雅也の引用ばかりで構成していくのですが、

自著を批判した人を感情的に侮辱する千葉のような「感情を飼いならす方法」も知らない人の言うことを丸呑みにしている人間が、

公共哲学を主張するなんてブラックジョークとしか思えません。

その上、小川は自分が引用した千葉の書いた論考すらきちんと読んでいません。

 

いくつか挙げておきましょう。

まず小川は「思弁的実在論を中心とする思弁的転回の流れは、この10年ほどの間に思想界に大きなインパクトを及ぼしつつある」と述べます。

小川の認識では思弁的転回は現在進行形という書き方になっています。

しかし、千葉の論考ではそのように書かれていません。

 

 二〇一〇年頃に頂点を迎えたSR(注:思弁的実在論のこと)の

 ブームは、その後だいぶ沈静化したとはいえ、現在もさまざま

 な方面に影響を及ぼし続けている。

 

思想界ではもうピークを過ぎた、というのが千葉の認識です。

もし小川が現在進行形の現象として書きたいのなら、「日本の思想界に」と書かなくてはいけないと思います。

まあ、温情深い読者の皆様は、この程度は目くじらをたてるほどではないと思うかもしれません。

 

マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』の説明も首をひねりたいところがあります。

小川がガブリエルの「新しい実在論」を説明するために引用したヴェズーヴィオ山の箇所は、

本文294ページ中の15ページ目の部分で、それこそ登山なら登り始めもいいところです。

そのため、ガブリエルの実在論に欠かせない「対象領域」の話も出てきません。

この人は本当に最後までこの本を読んだのか、と疑問を感じずにはいられませんでした。

 

小川は思弁的実在論を「人間をまったく無化してしまうような、異質な公共哲学である」と述べています。

「いわば非−人間中心主義の公共哲学」などとも書くのですが、

小川は「私」と社会をつなぐのが公共哲学だと言っていたはずです。

(だいたい思弁的実在論が公共哲学なわけがないだろうに)

本書200ページでも「私が主役に躍り出る日」と見出しをつけて、

「各々の非理性的な部分を克服していく必要がある。それができて初めて、理性は強靭なものとなるのだ」

などとも書いているのです。

 

人間不在の世界に「私」どころか社会も公共性もあるわけがありませんし、

明らかに理性批判をしている思弁的実在論を批判しないで、どうやって「非理性的な部分を克服する」ことになるのか意味がわかりません。

こういう矛盾を放置できてしまう態度をされると、何も理解できずにただ凡庸なことを言っているだけとしか思えません。

思弁的実在論などの流行に媚びて「非−人間中心主義の公共哲学」などという語義矛盾もいいところの言葉を平然と垂れ流す人物の知性など、

どうして信用することができるものでしょうか。

ただあちらこちらに適当にいい顔をして、商売をしたいだけとしか僕には思えません。

 

まだまだありますよ。

小川は千葉が思弁的実在論を「不気味でないもの」と言い表したことを紹介し、

 

 わかりやすくいうと、不気味の反対語が親密なものだとすると、

 近代以前の私たちに馴染みのある思想は親密なものだといえる。

 ところが、思弁的実在論以前のポスト構造主義と呼ばれる現代

 思想は、馴染みの思想の外部にある不気味なものだったのだ。

 したがって、さらにその不気味なものの外部としての思弁的実

 在論は、不気味ではないものと形容できるというわけである。

 

などと述べているのですが、

このような「読み間違い」は、この人が本当に学者なのか疑いたくなるほどにずさんです。

まず、千葉は思弁的実在論を「不気味でないもの」とは書いていません。

思弁的実在論が示そうとしている「外部」のことを「不気味でないもの」としています。

「外部」が脱落しているのはずさんだと思うんですよね。

また、小川はその「不気味でないもの」を「親密なもの」と考え、まるで思弁的実在論が近代以前の哲学に回帰するように捉えていますが、

それは誤読もいいところです。

 

小川の書き方だと、ポスト構造主義の外部に思弁的実在論があることになっています。

もちろん、ポスト構造主義のG・ドゥルーズ研究者である千葉がそんなことを言うはずがありません。

小川が引用した論考で、実は千葉はこう書いています。

 

 ポスト構造主義は外部性の思考だった。しかしその外部性の脅

 威は、せいぜい「不気味なもの」だった。だがいまや問題は、

 我々を、不気味にでも何でもなく圧倒する力なのである。

 

我々を「圧倒する力」が「親密なもの」であるはずはありません。

小川は「千葉の意味するところとは異なるが」と書いてはいますが、

これだけ逆方向に解釈するのであれば、千葉の論に乗っかって書くのはおかしいですし、

まるっきり逆方向に欺瞞的な解釈をするくらいなら、きちんと批判をすべきです。

流行に対して適当にいい顔をして公共性が成り立たない領域まで公共哲学にしてしまう。

いくら具体的なヴィジョンを示さない抽象論とはいえ、何でも「新しい公共哲学」だと言って取り込んでしまうのでは、

すべてを「我が神の思し召し」としてしまう新興宗教と変わりありません。

小川は宗教的な再魔術化を乗り越えるべき問題として提示してはいますが、

その再魔術化を利用しているのは、他ならぬ小川自身だと感じます。

 

また、千葉はポスト構造主義の「外部性」を「不気味なもの」としているのであって、

小川が言うような、近代以前の思想の外部にあるのがポスト構造主義であり、

その外部が思弁的実在論であるなどという同心円状の構造など、千葉は全く描いていません。

千葉はポスト構造主義の外部性と思弁的実在論が扱う外部の話をしているだけなのです。

この程度の理解力で地方大学の准教授になれるというのは僕には新鮮な発見でした。

 

他にも言っておきたいことがあります。

小川はM・ウエルベックの小説『服従』についてこのような紹介をしています。

 

 『服従』という小説をご存知だろうか? フランスの作家ミシ

 ェル・ウエルベックによるベストセラー小説で、なんとフラン

 スにイスラム系の大統領が誕生し、国民がイスラムに改宗させ

 られるというストーリーだ。なぜこれがベストセラーになった

 かというと、この本の出版当日を狙って、イスラム過激派がパ

 リの新聞社を襲った、あの「シャルリー・エブド襲撃事件」が

 起きたからである。

 

ハッキリ言って嘘八百の内容です。

まず、『服従』ではイスラム政権が誕生しますが、連立によって成立しているので、独裁ではありません。

当然国民はイスラム教に改宗させられたりはしていません。

主人公が自分の意志でイスラム教に改宗するという話です。

(国民が改宗させられる話なら、ラストに主人公が自ら改宗を選ぶインパクトが台無しです)

『服従』という小説をご存知だろうか? とは、こちらが小川に尋ねたい言葉です。

また、この小説がベストセラーになった理由が「シャルリー・エブド事件」にあったとは言い切れません。

ウエルベックは『服従』の前作『地図と領土』の時点でゴンクール賞を受賞している人気作家です。

さらに疑わしいのは、テロが「この本の出版当日を狙って」起こったという記述です。

ざっとネットで検索してもひとつも出会わない解釈なのですが、『服従』の出版当日を狙ったということにソースはあるのでしょうか?

浅田彰はコラムで「偶然」と書いています。

 

このようなずさんな記述をする人の思想が緻密なはずがありません。

たとえば小川の「感情」の捉え方が完全に多様性を捨象しているところや、

シェアリング・エコノミーが「資本主義をも凌駕しようとしている」などという見方などひどいものです。

シェアと言うから良いように見えますが、要するにネットを介したマッチングサービスのことでしょう。

マッチングをする連中が利潤を吸い上げるサービスなのに、どうして資本主義を超えるのか意味がわかりません。

ネットには料金がかからないとでも思っているのでしょうか。

このようなシェアリング・エコノミーに対する過剰な期待は小川だけでなく、いろいろな人が言っているようなのですが、

まったく流行に魂を売る人間というのは呆れるしかありません。

 

カバーの折り込みに、小川が商店街で「哲学カフェ」を主宰する、とありますが、

カフェで語るような適当な感覚で本を書いてはいけません。

本とはそんな甘いものではないのです。

僕は二度と小川の本を読むつもりはありませんが、

小川はトピックの新しさを追い求めて内容をいい加減にしないように、自戒するべきだと言っておきます。

 

 

 

『ハウスキーピング』 (河出書房新社) マリリン・ロビンソン 著

  • 2018.02.14 Wednesday
  • 08:37

『ハウスキーピング』  (河出書房新社)

  マリリン・ロビンソン 著/篠森 ゆりこ 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐

   孤独が発見する恐ろしくも豊かな世界

 

 

ロビンソンが37歳の1980年に発表され、PEN/ヘミングウェイ賞作品となった本作が、

今になって新刊として翻訳が出るのは不思議な気もしましたが、

2作目が2004年、3作目が2008年、4作目が2014年の刊行と最近の活躍が目立つ上に、

オバマ元大統領の愛読書として知られるようになったからなのでしょう。

 

2作目まで20年以上も要したのは、何を書いても処女作と似たものに思えたからだそうなので、

いかに本作『ハウスキーピング』が処女作にして達成された作品であったかがわかります。

(二番煎じと感じたら出版しないのも立派です)

 

本作の主人公はルースという女の子です。

舞台はアイダホ州のフィンガーボーンという自然豊かな架空の田舎町です。

駅員だったルースの祖父は機関車事故で湖の底に沈んでしまい、

そうして未亡人となった祖母に育てられたルースの母も、自動車で崖から湖に飛び込みます。

ルースとその妹ルシールはしばらく祖母とフィンガーボーンで暮らしますが、

祖母の死後、行方不明だった叔母のシルヴィがハウスキーピングにやってきます。

 

こう書いただけでもこの家族が女性ばかりなのがわかると思います。

叔母のシルヴィがジプシーのような変わり者であるため、

この奇妙な同居生活が様々な亀裂をもたらしていきます。

 

ただ、この小説は純粋にストーリーを楽しむだけではもったいないと思います。

ルース一家は周囲から孤立し、ルース自身も友達のいない孤独な存在です。

「孤独というのは究極の発見なのだ」とルースが言うように、

彼女はひとりきりで広大な自然や世界とじかに触れ合いながら、詩情豊かなイマジネーションの世界を生きています。

たとえば祖父と母の沈んだ湖は、ルースにとっては先祖を含めた死者たちの居場所です。

フィンガーボーンを襲った洪水がノアの箱船の洪水に比せられるのは、彼女が多くの死者たちの上に立つ孤独な生者だからです。

このような生活世界との境界をイメージ豊かな描写で綴っているのも、この作品の大きな魅力だと思います。

 

小説なので詳しくは書きませんが、ラストも秀逸でした。

「訳者あとがき」は本作の多くの文学作品からの影響などが書かれていて、

ロビンソンの文学的ルーツを理解するいい手助けになります。

 

 

 

評価:
マリリン・ロビンソン
河出書房新社
¥ 2,592
(2018-02-12)

『闘争領域の拡大』 (河出文庫) ミシェル・ウエルベック 著

  • 2018.02.12 Monday
  • 14:32

『闘争領域の拡大』 (河出文庫)

  ミシェル・ウエルベック 著/中村 桂子 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   処女作にはその作家のテーマが素直に出る

 

 

ミシェル・ウエルベックの処女小説の文庫化です。

単行本が出たとき買おうかどうか逡巡している間に絶版になってしまったため、

正直、河出書房新社には文庫化を期待していました。

非常にありがたいことです。

 

処女作にはその作家のテーマが如実に現れることがありますが、

本書を読むとやはりウエルベックにも一貫したテーマがあると感じます。

 

 『性的行動はひとつの社会階級システムである』

 

この文句は作中においてゴシックで強調された唯一の文ですので、

誰でもウエルベックが主張したいのがこれなのだと理解できます。

もう少し詳しく語っているところを引用しましょう。

 

 やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、

 もうひとつの差異化システムなのだ。そして金銭に劣らず、冷

 酷な差異化システムとして機能する。(中略)経済自由主義に

 ブレーキがかからないのと同様に、そしていくつかの類似した

 原因により、セックスの自由化は「絶対的貧困化」という現象

 を生む。

 

本書のテーマは明らかに「モテない」ことです。

経済的格差と同様に、セックスの機会にも格差が存在することを取り上げているのです。

ただ、ウエルベックが描く主人公自身はモテないことで悩んでいる気配はありません。

たしかに主人公は前の彼女と別れて2年以上性交渉がないのですが、

彼はそのような「性をめぐる現実」に明らかに嫌気がさしているという様子なのです。

そのため、彼の視線は性的格差の「負け組」、つまりセックスから隔てられた人たちに注がれます。

翻訳者の中村桂子は「訳者あとがき」で、そのような主人公の視線を「同情」と表現しているのですが、

「同情」では自身の問題ではないように思えてしまうので、表現としては不適切ですし、

ウエルベックの露悪的とも言える描き方を無視することになってしまいます。

 

僕はウエルベックの特徴はニヒリズムにあると思います。

ウエルベックは性的な関心が強い作家ですが、同時に性に対する拭いがたいニヒリズムを持っています。

それが現実に対するニヒリズム、西洋文明に対するニヒリズム、生に対するニヒリズムへと拡大しているのです。

セックスなどくだらない、そう感じつつあくせくとセックスの相手を物色する、

そんな「男」という存在(おそらくウエルベックは女の実存には関心がない)に対するニヒリズムが、

貨幣経済との関係で成立していることをウエルベックは直感的に感じ取っているのです。

(貨幣と女性の交換が相同的であることにも注意する必要があります)

 

その現実に対する嫌悪が露悪的な人物描写へとつながっています。

ブリジット・バルドーという名前のデブの女の子のエピソードなどはその典型と言えるでしょう。

彼は性的「負け組」に対して、死んでいく虫を見るような「憐れみ」を抱いているのですが、

これはいわゆる「同情」とは別のものです。

ウエルベックは人間が人間であろうとする努力を尊重する気がないように見えます。

 

 しばしば人は、細かい、うんざりするような差異、欠陥、性格

 の特徴、その他諸々で、ことさら自分を目立たせようとする

 (おそらく相手に自分をひとりの人間としてきちんと処遇させる

 ために)。

 

「自分をひとりの人間としてきちんと処遇させる」努力を突き放す書き方はなかなかのものだと感じました。

僕もネットで顔が見えないかたちで書いていると、とんでもない暴言を浴びせられることがあるのですが、

人間は自分のことは「きちんと処遇させ」たがるくせに、他人に関しては平気でそれを踏みにじるものだと感じます。

いや、自分のことを目立たせようとする人ほど、他人を踏みつけにする気がします。

考えてみれば、他人を踏みつけることと自分を目立たせることは切り離せないわけですから、それも当然かもしれません。

ウエルベックもそのように感じているのでしょうか。

 

本作の主人公は顔の見える範囲の生活で、信頼する人間はほとんど一人もいないような描かれ方をしています。

人間嫌いなのに、性的欲望を満たすために人間とのコンタクトを必要とするという矛盾、

つまり、人間は嫌いでも性的対象となる「異性」は徹底的に嫌うことができない、

それがウエルベック的な問題の核心だと僕は思います。

こうして、性的パートナーに出会うことのない主人公は静かに精神を病んでいくのです。

 

直接に本作とは関係ありませんが、

ウエルベックの仮説を信じれば、日本のワイドショー的欲望についても別の側面が見えてきます。

 

 何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は

 誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である。

 解雇が禁止された経済システムにおいてなら、みんながまあなん

 とか自分の居場所を見つけられる。不貞が禁止されたセックスシ

 ステムにおいてなら、みんながまあなんとかベッドでのパートナー

 を見つけられる。

 

芸能人の不倫スキャンダルを厳しく糾弾する態度は、金持ちの資産独占を許さない態度と変わりがないのです。

不貞を禁止すればモテない人にもチャンスが訪れる確率が高まります。

これを単にモテない人のひがみと言うべきでしょうか?

本来、結婚制度は最大公約数の幸福のためにあるのかもしれない、と本書を読んで考えさせられました。

 

 

 

評価:
ミシェル ウエルベック
河出書房新社
¥ 950
(2018-02-06)

「現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018」 (青土社)

  • 2018.02.08 Thursday
  • 23:45

「現代思想 2018年1月号 特集=現代思想の総展望2018」 (青土社)

 

   ⭐⭐

   必要なのはロマン主義でしかない思想の「総反省」ではないか

 

 

昨年こそ「トランプ以後の世界」特集でしたが、今年は定番の新春特集が復活しました。

どうせなら来春は「現代思想の総反省」という特集を期待します。

 

近代の日本人にとって、西洋思想は近代文学と深い関係を持ってきました。

ヨーロッパでは神学と哲学に深い関わりがありましたが、

日本では文学と哲学に深い関わりがあったことは、本号に登場している柄谷行人が文芸批評家であったことにも現れています。

 

その柄谷もどこかで書いていたはずですが、日本近代文学の出発はロマン主義の受容から始まりました。

僕はロマン主義を「現実からの逃避、ここではないどこかへの憧憬」という意味で使っているのですが、

自然主義以降の近代文学にもロマン主義の影は消えず、三島由紀夫や村上春樹までそう言うことができます。

その影響が思想に現れないはずがありません。

現代思想と言うと、日本ではなぜ〈フランス現代思想〉ばかりがアカデミズムの外に波及するのでしょうか?

その答は〈フランス現代思想〉がひとえにロマン主義的であるからです。

日本人はロマン主義が好きだから、合理論にも経験論にもそれほど興味を示そうとしないのです。

 

しかし近代文学はものの見事に滅びました。

ロマン主義が求められるだけなら、よりロマン主義的色彩の強いサブカルチャーで足りるからです。

しかし、サブカルには学問的、思想的意義が欠けていることは言うまでもありません。

その影響が現代思想に及ばないわけにはいかないでしょう。

ロマン主義的でしかない現代思想には、もうサブカル以上の価値はありません。

柄谷が文学批評を捨てて、経済的な「交換様式」の問題に集中したのは、そのようなロマン主義に嫌気がさしたからではないでしょうか。

 

今の我が国の首相は疑いようのないロマン主義者です。

(保守とか言っている人のほとんどは、バブル時代への憧憬を抱いたロマン主義者ではないでしょうか)

〈俗流フランス現代思想〉やその延長にある「思弁的実在論」というロマン主義は、

彼らと歩調を合わせた同時代的現象であり、時代と同衾したい連中の「思想のための思想」でしかありません。

 

日本人の内面はロマン主義的ではあるものの、実社会の経済はアングロサクソン的文化が支配的です。

そのため、実社会で働くときは合理的・経験的なふるまいを強要され、

そうして傷ついたロマン主義的内面を、プライベートなロマン主義の摂取によって癒しているのです。

そういう公私の二面性が極端なのが日本人だと思います。

(そして実社会で経済的に得るところが少なくなると、

「タテマエ」をありがたがる意味がなくなるためロマン主義が「ホンネ」として表面化するのです)

つまり、ロマン主義とは日本人にとっての癒しなのです。

〈俗流フランス現代思想〉や思弁的実在論などは、サブカルやSNSと同様の私的領域での癒しとしてしか機能していません。

そして、そういう「タテマエ」的実社会で我慢することなく、

趣味領域を満喫したロマン主義で商売をしている者を、思想界のヒーローのように扱うのです。

(彼らが往々にして実社会で通用しない人間性の持ち主なのは、その意味では必然なのです)

日本の悪しき社会構造を考えもしないで、それに乗っかって商売している人が、意味のある思想などできるはずがありません。

 

経済の衰退局面でロマン主義が政治化すると、癒しでしかなかったロマン主義思想がそれと結託して調子に乗り始めます。

直視したくない現実からメタ的に離脱することが正義であるかのように語り始めます。

そうやって現実を見失うことは非常に危険なことです。

現実の問題と格闘せずに、そこから「逃走」するためにフィクショナルな方向に全力で舵を切るようになるのです。

(人間不在の領域が重要とか言っている思想が表に出て、それが悪利用されたら彼らは責任を取るのでしょうか)

そんな今だからこそ、思想を癒し目的の商売道具にしている連中から、真に必要とする者の手に取り戻すべきだと僕は思っています。

 

本号はなかなか読み応えがありましたが、

多くは読んでも害しか思い当たらない「思弁的実在論」関連に偏った記事だったのでウンザリでした。

それでも養老孟司のインタビューは自分自身の考えを話しているという点でおもしろく読めましたし、

柄谷行人がSNSは「地域」が欠けているという点で、アソシエーションとは無縁だ、

とネットコミュニティをキッパリと否定したことにも首肯できます。

柄谷はSNSが排外主義、ポピュリズム、怨恨の連帯を生み出す、商品交換的な空疎な関係だとしています。

しかし、それより下の世代は総じてロマン主義的で思想としての内容がないものを書いていると感じました。

 

まず、中沢新一の書き物ですが、こういうつまらない「思想遊戯」をいつまでやるのか、とウンザリします。

中沢は映画『メッセージ』の中でエイリアンが非線形言語を用いて、

因果律にとらわれず直感的にコミュニケーションをするという設定を紹介し、それが人間の心の中にも実在しているとし、それを「レンマ的知性」と名づけます。

例によってナーガールジュナを持ち出したあと、『華厳経』の縁起論とライプニッツ思想が酷似していることが指摘されてきた、と述べます。

過去に誰かが指摘したからといって、それが正しいとは限らないのですが、

とりあえず引用元があれば定説のように扱って良いという作法はどうなのでしょうか。

そのあげく、着地するのは結局量子論だったりします。

 

 量子論に詳しい方はもうお気づきのように、我々が縁起論的数

 による算術の規則を導き出した道筋は、量子論の幼年期にハイ

 ゼンベルグが「マトリックス力学」を導き出した推論の道筋と、

 瓜ふたつなのである。

 

じゃあ、最初から量子論の紹介でいいではないか、という感じです。

「量子論の根底に、レンマ的=縁起論的な思考が横たわっているからである」と中沢は述べていますが、

量子論は縁起論など一瞥だにしないのが現実です。

むしろ、縁起論が量子論に寄りかかって生き残りを図っているだけなのは誰にでもわかります。

因果思考の外部を目指したはずの論考が、量子論に着地して終わることで、結局は科学の外部には出られもしないわけです。

こんな仏教の使い方は遊戯的すぎますし、読んでいて不愉快でしかありません。

 

こんな中沢の思想遊戯はアジア人の癒し以外に何の役に立つのでしょう?

西洋思想の外部のものを参照しつつ、結局は西洋思想の枠内にとどまろうとする彼の思想は、

僕にとっては京都学派的な西洋コンプレックスの裏返し(つまりはアジア回帰)という茶番の繰り返し以外の何物でもないのですが、

一度くらい本気で西洋思想と喧嘩してみたらどうでしょうか。

まあ、できっこないでしょうけど。

 

千葉雅也の思弁的実在論の10年をまとめた論考は、

事実関係をまとめた前半部は非常に明晰でいい読み物でした。

こういう非創造的仕事には向いていますし、能力も感じるのですが、

後半になって自説を語り始めると、彼の知性を疑うしかないような、どうしようもなく怪しげなことを言い始めます。

つまらない自我による勘違いをやめて、自分の適性を早く知った方が彼のためだと思います。

 

千葉は思弁的実在論(SR)が示そうとする「外部」について書いているのですが、

理論の展開が緻密でないため、いくつか恣意的な飛躍があってよくわからないところがあります。

たとえば、メイヤスーが相関主義による世界の必然性を否定したからといって、

どうして世界の外部がハイパーカオスであるという前提で話が進むのかがよくわかりません。

変化可能性はあくまで可能性のはずです。

その変化可能性が現実化しなくては、外部にハイパーカオスがあることも現実化しないのではないでしょうか。

世界の外部はハイパーカオスかもしれない、という仮定の話を持ち出しただけで、

それが実効的に力を持つかのように語るのは、あまりに能天気もしくは遊戯的なのではないでしょうか。

 

また、千葉はクラインの壺モデルを否定神学と名指しして、SR的外部は否定神学システムの外部だとします。

まず先に言っておきますが、僕は否定神学を仮想敵とするやり方は「現実逃避」だと思っています。

千葉はクラインの壺モデルをなぜか相関主義へと置き換えていますが、

浅田彰がクラインの壺モデルを持ち出したのは、貨幣の循環運動による一元化=資本主義を象徴する意図があったはずです。

いつの間にクラインの壺モデルが相関主義を表すものになってしまったのでしょう?

ここには千葉の詐術があります。

 

消費社会のプードルちゃんである千葉には資本主義批判ができません。

そのため、否定神学という誰のリアリティにも着地しない浮遊した用語を用いて、

(そもそも日本とキリスト教神学はほとんど無関係です)

本来は資本主義を仮想敵にしていたドゥルーズなどのフランス現代思想を、恣意的に歪めて消費資本主義万歳の〈俗流フランス現代思想〉へとすり替えているのです。

こうして自分の思想的テーマの欠如をごまかし、何かと戦っているようなポーズだけをしています。

こういうことにすぐ騙される読者が「現代思想」を支えているのでしょうが、もっと知性を働かせてほしいものです。

 

また、千葉は人間の外にあるSR的外部とはクラインの壺のさらに外部であるとします。

はたして実際にそうなるのかはきわめて怪しいと思うのですが、

かりにそうだとしても、次に引用する千葉の文は納得しがたいものがあります。

 

 日本現代思想の観点から言えば、SRは、クラインの壺モデル=

  否定神学システムを破壊しうるその外部を哲学の俎上に載せて

 いるのだと言える。

 

外部に存在するからといって、「破壊しうる」と言えるのでしょうか。

むしろアクセス不能な外部なのですから、破壊など不可能なのではないでしょうか。

こういう現実性のカケラもないことを語るのは詐術でしかありません。

いくら「しうる」という可能性を示しただけと言い訳しても飛躍が過ぎます。

これは自分の関係した思想を過剰に有効なものと宣伝したいという意図でしかなく、

前々から指摘していることですが、千葉が思想と宣伝の区別もつかない人間であることをさらに示しただけと言えます。

 

現実世界の外部を求めて、人間のアクセス不能な「実在」を求め、それによって現行システムの破壊を語ることは、

もはやロマン主義以外の何物でもないと思います。

だいたい、思弁的なくせに実在論などというのはそれだけで詐術です。

要するに「但し書き」をするだけの思想なのですから。

人間がアクセスできないのに、どうして我々がその存在を理解できるのでしょうか?

対象は実在する、ただし我々はそれを感知できない、と「但し書き」をすることしか方法がありません。

これはつまるところ「設定」のようなものです。

舞台上に君は幽霊役で実在する、ただしみんなからは見えないことになっている、というようなものです。

実質上は設定上の「お約束」でしかないものを、思想とか哲学とかカッコつけても、

そんなものは狭い内輪の中でしか通用しないのは目に見えています。

「但し書き」に現行システムを破壊する力などあるはずがありません。

世間知らずの夢物語もいいところです。

 

もうひとつ、思弁的実在論の由々しき問題は、ハイデガー思想の焼き直しになるという点です。

たとえば千葉はこんなことを書いています。

 

 我々は、心、意味に無関係な外部、とりわけ物質により、圧倒

 的なナンセンスに規定されている。

 

 SRからは次のような意味での「ラディカルな有限性」を抽出す

 ることができる──無関係な=無意味な外部によって最終的に

 規定されてしまっているという有限性、あるいは「一方向的

 unilateral」な(相関的でない)ままならなさ、である。

 

我々にとって無意味な外部とは死のことだ、と言ってしまえば、

物質である身体の死によって規定されている有限性とは、ハイデガーの死の本来性による生のあり方とそう変わらなくなります。

支配的な思想に単にアンチを唱えるだけでは、悪魔を呼び寄せることになるかもしれません。

ハイデガー思想の問題点を勉強したことがあるならば、人間にとって絶対的な他者を持ち出すことの危険性も理解できそうなものです。

 

たとえば星野太のユージーン・サッカー論にもすでに危険の兆候は現れています。

 星野はサッカーの描く「暗き生」が、我々に知解不可能なままに思考を追い詰めるものだと述べ、

それが「「意味、目的、可能性の滅却」を通じてのみ知解可能になる」としています。

これは用心深くならなければ死への志向と近いもの、もしくは生と死の区別がない領域として受け取れます。

 

このように、思想が死の近辺に行きたがるのは、外部を目指すことが思想だという発想から抜けられないからです。

いつから思想とは「メタに立つこと」の謂になってしまったのでしょう。

メジャーな思想に反対して目立ちたい、という助平心が、それを利用して「メタに立つ」だけの駄論を量産しているように見えます。

僕が現代思想に総反省を提案するのは、もうこのやり方がとっくに限界にきているからにほかなりません。

 

批判ばかりを書きましたが、本誌のいいところを言いますと、

ラボリア・クーボニクスの「ゼノフェミニズム」は非常に面白かったです。

ジェンダーが女性的なものに偏っている、という指摘はもっともです。

ルーベン・ハーシュのアラン・バディウ批判も刺激的でした。

バディウはリアリティを整列集合に一次元的に還元しているが、

それこそ資本の統治によって価格が一次元的に格付けをすることに類似しているという指摘は、

非常にやるべき仕事をやっているという気持ちになりました。

日本の思想商売人はすぐ西洋を権威化するので、こういう視点に欠けています。

 

書き忘れましたが、大澤真幸の思弁的実在論を社会学の前段階に位置付けるやり方はセコいと思いました。

大澤は以前この雑誌でメイヤスーを批判していたはずですが、批判でなく無効化して社会学をアゲるのに使うのは、

巧妙と言えば巧妙ですが、やっぱりセコいのでやめてほしかったです。

 

 

 

評価:
養老孟司,柄谷行人,中沢新一,大澤真幸,千葉雅也,信田さよ子,松本卓也,グレアム・ハーマン,マルクス・ガブリエル,ニック・スルニチェク,エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ,汪暉,野村泰紀
青土社
¥ 1,620
(2017-12-27)

『小指が燃える』 (文藝春秋) 青来 有一 著

  • 2018.02.06 Tuesday
  • 23:07

『小指が燃える』 (文藝春秋)

  青来 有一 著

 

   ⭐⭐⭐⭐

   戦場を描くことの難しさ

 

 

本書には出身地である長崎のキリシタン弾圧と原爆の記憶を書き綴る芥川賞作家、青来有一の作品が二編おさめられています。

最初の「沈黙のなかの沈黙」は短編で、表題作である「小指が燃える」は中編くらいの長さです。

 

「沈黙のなかの沈黙」は、語り手が隠れキリシタンの葬儀に出席したエピソードから始まります。

そこで捨てられた週刊誌のグラビアを見かけるのですが、

その裸エプロンの「彼女」と語り手の暗い欲望のような「彼」が、エロチックな想念をまとった幻として、

語り手の前に時折出現するようになります。

といっても、幻想的な物語ではなく、きわめて私小説的な体裁で書かれています。

 

語り手はその抽象化された男女を小説に描こうと考えているうちに、

「潜伏キリシタン」と「カクレキリシタン」の区別を提唱する大学教授の説へと思索を深めます。

幕府の弾圧を逃れてキリスト教の信仰を守った人々が「潜伏キリシタン」、

信仰が自由になった後も、古来の信仰の形を続けている人々を「カクレキリシタン」とするようですが、

語り手は最初の葬儀は「カクレキリシタン」による潜伏時代の儀式だったことに思い当たります。

この説自体もなかなか興味深い話でした。

 

しかし、この説によって青来は自分の小説に問題がなかったか問うことになります。

 

 私が探し求めた信仰と迫害をめぐるドラマが、私の内に溜まっ

 た隠れキリシタンという虚像にもとづくものであったとしたら、

 私はずぶずぶと物語の深みに沈んでいくだけだろう。

 

疑念にとらわれた語り手に「信仰など根づくことのないこの国へのあきらめと絶望」が浮かび上がり、

遠藤周作の小説で宣教師がつぶやいた「沼地」という言葉が、重くのしかかります。

 

僕はこういう青来の倫理的葛藤を読むのが好きなのかもしれません。

青来の小説には取り立てて文学的センスがあるとは思いません。

言ってしまえば凡庸ではあるのですが、おそらく当人がそれをよく自覚していることが、

文学の世界が彼を受け入れている要因だと感じます。

凡庸さが詩的、文学的に奉仕することがあるとしたら、それは倫理においてではないでしょうか。

文学が立たされている危機と向き合っているのも、誠実に感じます。

 

 私はこれまでのことをふりかえって考えてみたが、やはり、な

 にかを恐れている「私」を見いだすのだった。今も書くことで

 金を儲けたりしてはいけないという不安というか、なにかぼん

 やりとした禁忌の意識、タタリとはちがうが、それを神聖だと

 考えてもいる……、

 

 物語も大量に流通することで世界を変貌させてしまう。小説は

 売れすぎてはいけない。何百万、何千万部のベストセラーなん

 てそれだけで罪ではないか。作家は売れないことを悩むよりも

 売れることを警戒しなければならない。

 

無数の物語のかたすみにひっそりと眠り、たまに見つけられて読まれるくらいが本にはちょうどいい、と語り手は述べるのです。

もちろん、青来は自分の本が売れないことを正当化しているわけではありません。

出版社と関われば、売れないと申し訳ない気持ちにならないはずはありません。

つまり、彼は倫理的な真実として言っているのです。

 

文学をやってます、という顔で、エンタメ作品へと移行して読者に媚びたり、やらなくてもいい翻訳を出したり、

セールス主義と戦うこともなく敗北する欺瞞作家が多い中、

青来は文学的な態度とは何であるのかをいつも考えています。

そこには才能やセンスよりもっと重要なものがあると僕は思います。

 

しかし、表題作の「小指が燃える」の方は中途半端な印象を受けた作品でした。

冒頭で、しがらみ書房の戸陰という人物が青来自身を思わせる語り手のもとを訪れ、無償での出版を打診するのですが、

この村上春樹の小説に出てきそうな概念的人物によって、エンタメ的な期待を含んだ展開になっていきます。

語り手は過去の作品をリメイクすることにし、南島の戦場で戦死した仲間の小指を持ち帰る兵士を描くのですが、

語り手は戦場に美を感じるネクロフィリア的性向を持っているため、そこに葛藤します。

敬愛する作家の林京子を思わせるHさんにも、戦争の被害にあった人ではなく遠い戦場の美を描くことを詰問されます。

 

小説の内容は、これまでの青来作品とつながった内容なので、彼の作品になじんだ読者には違和感はないと思うのですが、

途中に戦場を描くリメイク作品が挿入されたり、戸陰との書くことをめぐるやりとりがあったり、犬がHさんの顔となって話しかけたりと、

この小説を単体で読んだ人には焦点が拡散して落ち着きどころがない作品になったのではないかと思います。

 

虚無的な戦場に美しさを見てしまう、という個人的性向の非倫理性と、

戦争を直接体験していない人間が戦場を描くことの申し訳なさと、

売れる小説を書くことができないもどかしさとが、ひとつながりになって、

もはや「書く」ことが苦痛であるような領域で語り手は作品のリメイクを続けます。

ですが、虚構性が強いキャラクターで始まった物語だけに、それほど重い気分に読者を誘い込むでもなく、

作者一人が苦しんでいくような展開になります。

 

語り手はHさんに「あなたそのものにまちがいがあるのよ」と責められて苦しみます。

戦争で破壊された都市や、おびただしい数の腐乱した死骸に美を感じてしまうため、

戦争を甘いおとぎ話として書いている、と批判されるのです。

 

 過去を忘れるというのはただ忘れることではないわ。真実をつ

 ごうのよい物語に変えてしまうことなのよ。わたしはそれをずっ

 と拒んできたの。

 

このHさんの言葉は確かに重いのですが、語り手は思い悩むことしかできません。

その葛藤は倫理的ではあるのですが、対抗すべき信念を模索することもなく、受身にとどまっています。

 

戦場に美を感じるなら、思い切ってそんな描写を徹底的にやってほしかったですし、

葛藤するなら肉体的苦痛として伝わるくらいに、強く葛藤してほしい気がしました。

戦場の描写もそうなのですが、青来の筆致には唯物論的な身体性がぽっかり抜け落ちたところがあり、

切り落とした小指に、宝石のようなフェティッシュな魅力をまとわせるには至らなかったように思います。

 

『爆心』のような物語のスタイルが俗だと青来は感じているのかもしれませんが、

随想的なスタイルでただ「頭で考えていること」を書くだけでは、

観念に飲み込まれて小説に力がなくなるように感じました。

 

 

 

評価:
青来 有一
文藝春秋
¥ 1,944
(2017-08-07)

「俳句 30年2月号」(角川書店) のレビューへの佐野波布一コメント

  • 2018.02.03 Saturday
  • 11:56

「俳句 30年2月号」(角川書店)

  Amazonレビューへの佐野波布一コメント

 

 

 

 

 

どうも、佐野波布一と申します。

僕のレビューに対して四ツ谷龍がこんなツイートをしました。

 

──────────────────────

四ッ谷龍

@leplusvert

 

オイラのことを「花鳥諷詠、客観写生を重視するホトトギス的な俳句を敵視する」とか書いて悪口言ってる奴がいるけど、客観写生を敵視する人間が毎週ひとり吟行に行くわけがないだろ。頭がおかしいんじゃないのか。

午後7:41 · 2018年2月2日

 

四ッ谷龍

@leplusvert

 

賞の審査でも、よく見てもらえればわかるが、いつもホトトギス系の応募者にいちばん高い点をつけているのはオイラだ。

この点だけとっても、件の人物が事実に立脚せず、歪んだ先入観を書いているのは明らか。

午後7:45 · 2018年2月2日

──────────────────────

 

僕に文句をツイートする人は、検索されないように、こうやって僕の名前を伏せてやるんですよね。

文句があるなら正々堂々と僕に言えばいいと思うのですが、なぜ陰口でしか言えないのでしょう?

 

まあ、でもこのツイートには大笑いさせていただきました。

僕の書いたことが「事実に立脚せず、歪んだ先入観」によるのだと言いたいようですが、

四ツ谷さん、こんなリアクションをした時点であなたの負けですよ。

ハッキリ言ってもう「チェックメイト」です。

 

「毎週吟行に行く」、とか、「ホトトギス系の人にいちばん高い点をつけている」ことを「歪んだ先入観」の根拠にしていますが、

僕は俳句をやらないので、誰がホトトギス系か知りませんし、

それ以上に四ツ谷が吟行に毎週行くことなど知るわけがないので、

そんなことを根拠にされても「頭がおかしい」とまで言われる理由が理解できません。

(僕は「ホトトギス俳句を敵視する」とは書いていますが、「客観写生を敵視する」などと書いていないのですけどね)

まあ、そこが間違いなら申し訳ありませんでした。

四ツ谷さんはホトトギス俳句を敵視まではしていないかもしれません。

でも、反発心をお持ちであることは明らかですよね。

四ツ谷がこんなツイートをしているのも見かけました。

 

──────────────────────

四ッ谷龍

@leplusvert

 

そのへん、私は「季語や定型は俳句にとって有効な原理だが、有季定型は俳句の原則ではない」と言うんですけどね。つまり俳句を厳密に定義することはできないということでもありますが。 

saibara_tenki

@10_key

返信先: @10_keyさん

余談:定型は価値を生み出すに有効だが、定型そのものに価値があるわけではない。有季定型派は、有季定型そのものに価値を置くフェティシズム(手段の目的化)に陥ることが多いよ、見ていると。

午前10:51 · 2017年5月27日

 

──────────────────────

 

「有季定型は俳句の原則ではない」と発言したら、ホトトギス俳句とぶつかると素人的には思うのですが、

自分でそう言われても仕方がない材料を与えているくせに、

「事実に立脚せず」に「頭がおかしい」とまで、なぜ僕が言われなければならないのでしょうか。

 

いやいや、むしろ四ツ谷のツイートが僕の書いたことが事実だと立証したのですよ。

まず、いくら批判されたからって、相手の「頭がおかしい」という発言はどうなのでしょうね?

これこそ四ツ谷が「品のない」人間であることの動かぬ証拠です。

 

さらに傑作なのは、反論できる部分がその点でしかない、ということです。

「ホトトギスを敵視している」が僕の「先入観」であるかどうかは別に僕の誤りとしても構いませんが、

そのかわり、僕の書いた他の批判に対しては全く反論がないので、

その点については四ツ谷はすべて妥当だと認めた、という判断をさせていただきます。

 

もし本当に事実でないならば、

審査員のくせにレビューでステマ行為を行っていた、と書かれたことに反論するのが普通でしょう。

「品のない行為」とまで言われているのですから、事実でなければ名誉毀損と言えます。

僕だったら、真っ先にそこについて怒ります。

しかし四ツ谷はそれについては触れもしないで、他のことを持ち出して、それを根拠に僕の人格を貶める手に出ました。

これは残念ながら誰が見てもクロです。

第三者が見てもハッキリと事実と確信できるだけの証拠をありがとうございました。

四ツ谷龍は「オルフェウス」という匿名を使って、自分が選んだ句集の批判意見に対する攻撃レビューを書きました。

もう今さら何を言っても遅いですよ。

 

それから「ソーカル事件」については触れないんですね。

僕の「頭がおかしい」とまで言うのなら、四ツ谷は僕の批判に堂々と反論すればいいと思うのです。

詐欺じみた論考に対する批判が僕のレビューの骨子なのは一目瞭然ですから、「論客」なら反論すべきところなのに、

それもできないくせに僕に対して「頭がおかしい」などと言える立場でしょうか。

論理に論理で応答できない論理的弱者は、決まってツイッターで感情的な罵倒を浴びせてくるので、

ツイッターとはなんて知性に欠けた「品のない」メディアだろう、と僕はかねがね思っています。

(論理に弱い日本人が最もツイッターを利用しているのも納得です)

最近のサブカル俳句の隆盛は、実はツイッターと密接な関係があるのですが、

それについてはまた別のところで書こうと思っています。

 

それから、「悪口言っている奴」とか言いますけど、

事実を見直せばハッキリするのですが、四ツ谷の方から先に僕の悪口を言ってきたのです。

僕は売られた喧嘩を買っただけなので、お互い様の行為については四ツ谷に責められるいわれはありません。

 

もう一つ、四ツ谷がいかに「品のない」陰口野郎なのかが理解できるツイートがあるので紹介しましょう。

 

──────────────────────

四ッ谷龍

@leplusvert

 

今日、あの世に旅立った詩人には、10年ほど前に一度お目にかかったことがある。

「短歌ではすぐれた作者がたくさん登場しているが、俳句には一人もいない」とオイラに言った。「田中裕明を知っていますか」と聞いたら、「知らない」だってさ。何だこいつ、と思ったよ。

午後7:03 · 2017年4月5日

──────────────────────

 

「何だこいつ」というのは四ツ谷に向けられるべき言葉です。

大岡信が亡くなった当日に、故人を悪く言うツイートをするなんて、究極の陰口ではないでしょうか?

それも自分自身で挑むのではなく、友人の田中裕明を持ち出して言うわけです。

田中裕明は死者の悪口に自分が使われていることを天国でどう感じたのでしょうか。

僕はこういう「品のない行為」を平気でやる人の友情を信用しませんし、詩を深く理解できるとも思いません。

 

さて、四ツ谷龍がいかに「品のない行為」を行う人物かが立証されたので、

こうなると、角川書店やふらんす堂という出版社がどれだけ堕落しているかも自ずと理解できます。

僕はいま出版社の堕落に対してものすごく腹を立てています。

だからネットで文章を書いているのですが、人々には出版しない人は三流だという思い込みがあるので苦労しています。

そういう出版を権威と捉える安直な態度が、活字になれば内容は問わない倫理不在の状況を生み出し、言論界の堕落を後押ししているのです。

商業主義に走って堕落した出版権力や著者の自負心と実費に依存する出版互助会を、

教養と論理の力で相対化することこそ、むしろ真の脱構築と言えるのではないかと僕は思っています。

 

それから、四ツ谷は陰口に依存せず、自分のレビュー行為や「頭がおかしい」などの暴言の責任を自覚して、早く僕に謝罪するべきでしょう。

自分の過ちも認められない人間は世間から黙殺されてしかるべきです。

 

 

 

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