『メイキング・オブ・勉強の哲学』(千葉 雅也 著)レビューのコメント欄

  • 2018.04.20 Friday
  • 11:51

『メイキング・オブ・勉強の哲学』(千葉 雅也 著)

  レビューのコメント欄 

 

 

 

 

千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』の僕のAmazonレビューのコメント欄は、

現在このようになっています。

 


 

千葉雅也1日前 (編集済み)

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する佐野波布一氏の本レビューには著者への中傷が含まれているという認識により、著者は現在、弁護士に相談中です。弁護士は、本レビューは中傷の域に達するものであると判断しています。

 

 

佐野波布一 10時間前

 

どうも、佐野波布一と申します。

千葉雅也氏のコメントに感謝します。

 

当方に中傷の意図はありませんし、Amazonが審査を経て掲載したレビューなので、

Amazonのガイドライン上では誹謗中傷に当たるとは判断されていません。

(だから抗議を受けて消去されても再掲載が可能なのです)

あなたの個人的な感覚だけで、さもこちらが「侮辱」「中傷」をしたように大勢のフォロワーに喧伝する行為は、

著名人が数の暴力に訴えた行為として厳しく批判されるべきだと僕は考えています。

「揶揄」と言うならまだしも、「侮辱」に当たるというなら、

それがどの文章なのか具体的に示してください。

 

また、あなたの弁護士にあなた自身の「基本アホ」ツイートがAmazonレビュアーへの中傷や侮辱に当たらないのかどうかも相談したら良いと思いますよ。

 

 

千葉雅也10時間前返信先:以前の投稿

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』に対する佐野波布一氏の本レビューには著者への中傷が含まれているという認識により、著者は現在、弁護士に相談中です。弁護士は、本レビューは中傷の域に達するものであると判断しています。

 

 

佐野波布一 8時間前 (編集済み)

 

ちゅうしょう【中傷】

(名)スル

根拠のない悪口を言い、他人の名誉を傷つけること。「━によって失脚する」

 

根拠を示して書いているものは中傷とは言いません。

もっと言葉の勉強をしましょう。

あなたのやっていることが中傷です。

 

 

Philosophia7時間前 (編集済み)

 

千葉氏の肩を持つわけではありませんが、彼は本当に訴える気だと思います。彼はtwitter上で佐野波氏についてしつこく言及されているようですし…。

 

 

佐野波布一 1秒前

 

どうも、佐野波布一と申します。

Philosophiaさんのコメントに感謝します。

 

千葉雅也は世間知らずなので本気で訴えるかもしれないと僕も思っていますよ。

真実しか書いていないので、こちらは迎え撃つだけのことです。

たとえ破産しようと言論弾圧に対しては知識人として戦う義務があります。

 


 

こちらのコメントには応じず、ツイッターの内容を繰り返し貼り付ける千葉の態度は、

傲慢きわまりないものです。

僕は千葉がどのような考えでこのような態度を取っているか理解できています。

千葉はかつてこのようなツイートをしたことがあります。

 

Masaya CHIBA 千葉雅也

 ‏@masayachiba

 

他人の言葉で無駄に傷つかないためには、他人を人間扱いしないことがときに重要である。他人を理解しよう、他人に理解してもらおうという「殊勝にコミュニカティブな前提」のせいで無駄に傷つくのである。

0:04 - 2016年1月1日

 

自分が傷つかないためには、「他人を人間扱いしない」というのが彼の流儀なのです。

千葉の考えるコミュニケーションの「切断」が、

いかに自己愛の保存のためであるかを窺い知ることができるツイートです。

自己愛のために他人を人間扱いしないことを肯定する人間が「人間不在」の哲学を語ることの恐ろしさについて、

千葉の読者たちは思い至る必要があると思います。

 

しかしコメント欄に同じ文面を貼り付けていくのは控えめに言っても「荒し」行為だと思うんですけどね。

今朝、僕もある機関に千葉の行状について問い合わせるメールを送りました。

返事があり次第、ブログに掲載することを考えています。

 

 

 

『新訳 星の王子さま』 (阿部出版) A・サン=テグジュペリ 著/芹生 一 訳

  • 2018.04.17 Tuesday
  • 23:22

『新訳 星の王子さま』 (阿部出版)

  A・サン=テグジュペリ 著/芹生 一 訳

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   大人が自然に読める訳文

 

 

A・サン=テグジュペリの『星の王子さま』は多くの人の手で訳されていて、

現在Amazonで調べても10冊以上の版が並んでいます。

さらなる新訳が必要なのか疑問になるところですが、

有名な内藤濯訳を持っていたのですが、気になって購入してみました。

 

内藤訳の『星の王子さま』はこんな感じで訳しています。

 

王子さま,あなたは,はればれしない日々を送ってこられたようだが,ぼくには,そのわけが,だんだんとわかってきました。ながいこと,あなたの気が晴れるのは,しずかな入り日のころだけだったのですね。

 

同じ箇所の芹生訳はこんなふうになっています。

 

小さな王子よ。

わたしはこんなふうにして、きみの幼い人生の悲しみを、少しずつ知るようになった。きみの心が本当に休まるのは、もうずっと前から、日が沈むのを眺めているときだけだったのだね。

 

並べてみるとかなり違うものですね。

僕は原書を持っていないので、どちらが原文に近いのかはわかりませんが、

おそらく訳の正確さの問題ではなく、描きたい世界の違いが反映しているのだと思います。

 

目につく違いを挙げると、語り手の一人称を内藤訳では「ぼく」、芹生訳では「わたし」と訳しています。

芹生は「訳者あとがき」で、これまでの訳が語り手と王子を対等の関係として描いてこなかったのが不満だった、と打ち明けています。

たしかに内藤訳では「送ってこられた」という王子に対する尊敬語が用いられています。

王子とはいえ相手は子供です。

語り手が子供を対等に扱うのは、相手が「王子」という地位にあるからではなく、

語り手が子供を侮らずに大人と対等な存在として考えているためであるからです。

それを表現するために敬語を使わずに対等の友情関係として描こうという姿勢は理解できます。

同様の理由で、芹生は内藤訳にあるような「王子さま」の「さま」という敬称を省いています。

 

芹生訳は内藤訳のように子供向け童話というスタンスをあまり意識していないため、

ひらがなの多用や子供向けの表現のわずらわしさがありません。

そのため、大人が自分の感覚で読むのに適しているという印象です。

内藤訳のような横書きではなく、縦書きになっているのも読みやすさにつながっているかもしれません。

 

作品内容に関しては、説明すると味気ない感じになってしまいます。

大人はいろいろな夾雑物に邪魔されて、物事の真実がわかっていません。

真実は純粋な心が感じ取るところにあるのです。

「目で見たって、なんにも見えないんだ。心で探さなくちゃ」と小さな王子は言います。

 

最近、東大卒のエリートによる不祥事が後を絶ちません。

経歴が立派でも中身が立派な人とは限らないのですが、

われわれはつい見えている部分に依存して判断しがちです。

『星の王子さま』に照らして言えば、ボアが飲み込んだゾウを見ることができずにいるのです。

話題性などの他人の評価に左右されているだけでは大事なものを見失うばかりです。

 

今や『星の王子さま』は大人こそが読んだ方がいい本となっているのかもしれません。

 

 

 

評価:
サン=テグジュペリ
阿部出版
¥ 1,512
(2018-04-02)

『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』 (講談社選書メチエ) 佐藤 嘉幸・廣瀬 純 著

  • 2018.04.15 Sunday
  • 11:42

『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』 (講談社選書メチエ)

  佐藤 嘉幸・廣瀬 純 著

   ⭐

   ドゥルーズ=ガタリの左旋回は不都合な過去の隠蔽でしかない

 

 

G・ドゥルーズとF・ガタリの著作『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』が日本で哲学的インパクトを持って迎えられたのは、

バブル期からネットが一般化するまでの期間でした。

20年以上前、現代思想といえばドゥルーズ=ガタリ、J・デリダ、M・フーコーのことでした。

ドゥルーズ=ガタリ自身はF・ヘーゲルやJ・ラカンの思想を批判した「アンチ」だったのですが、

当時の日本では彼らの支持者が圧倒的なマジョリティだったことは確認されなければなりません。

僕にとって学生時代からドゥルーズはメジャー中のメジャーでしたし、ヘーゲルなど超弩級のマイナーな存在でした。

 

西洋哲学の伝統がない日本では、ドゥルーズ=ガタリは批判哲学としての意味を持っていませんでした。

ドゥルーズ=ガタリが評価されたのは、それが西洋の新時代を示しているように見えたからです。

そうなれば「新しい」ものに弱い日本人が殺到するのは必然です。

実際、彼らの思想には商業的な「新しさ」がありました。

存在の一義性はグローバリズムの浸透によるマーケット一元主義と歩調を合わせたものでしたし、

「スキゾ」という言葉は、消費資本主義と呼応して因習を打ち破るファッションになりましたし、

「リゾーム」という概念はインターネットを先取りしたものでした。

何より大衆動員力のある映画を礼賛していたことで、

ドゥルーズ=ガタリは商業的な「新しさ」と共犯関係を持っていたのです。

 

このように日本ではドゥルーズ=ガタリの思想が商業的な先端性として受容されたために、

実際は反資本主義を意図していたということが、ブラックジョークにしかなっていません。

同じく反資本主義を意図したJ・ボードリヤールの著書が、日本では電通の社員の愛読書になったように、

〈フランス現代思想〉は日本で受容されると反資本主義的な内容が体良く去勢されてしまうのです。

 

以前から僕は〈フランス現代思想〉の研究者が、本国と日本の受容のギャップを指摘しないことに不信感を抱いてきました。

そのため、本書が今さらドゥルーズ=ガタリが資本主義打倒の革命思想家だったというスタンスを前面に出すのには違和感があります。

日本の商業的な受容のあり方についての反省もなく、

原発や沖縄の抵抗運動にドゥルーズ=ガタリ思想が関連しているようなことを書く佐藤と廣瀬には、

その運動に共感するにしても、にわかに賛同する気にはなれません。

 

参考までに手元にあった雑誌「現代思想」2008年12月号のドゥルーズ特集を開いてみます。

特集内容の内訳(中見出し)を見ると、

最初に「『シネマ』を読む」、次に「映画=思考」と映画論がメインです。

次は「科学・情動」「情報・生命」「言語・芸術・文学」と続きます。

そして、やっと最後が「権力・社会」です。

日本でのドゥルーズ思想がいかに政治的な文脈でないかがよくわかる構成です。

気の毒なことに、その雑誌で「動的発生から生成変化へ」という権力論を担当しているのが、

本書の著者である佐藤嘉幸なのです。

この事実ひとつを取り上げても、佐藤のような政治的アプローチが日本のドゥルーズ受容の傍流であったことがよくわかります。

(ちなみにこの佐藤の論考に、一度として「資本主義」「革命」という言葉を見つけることはできませんでした)

 

要するに、〈フランス現代思想〉研究者の中で脱原発などの政治的実践を厭わない佐藤や廣瀬は、

メジャー思想の研究者の中でのマイノリティであるのでしょう。

その意味では商業主義的で欺瞞を垂れ流すドゥルーズ学者よりは何十倍もマシだと思いますが、

僕が彼らに賛同できないのは、彼らがドゥルーズの非政治的受容に対して反省も批判もしないことです。

日本の受容を見れば、ドゥルーズ=ガタリの思想に消費資本主義と共鳴するところがあったことは明らかです。

ドゥルーズ=ガタリの思想の商業面を批判しないで資本主義打倒を語るのは図々しいと思うのです。

 

〈フランス現代思想〉は概してユダヤ的な要素が強く、

ナチスドイツの被害者だったフランス人とユダヤ人の共感で成立している印象があります。

日本は大戦中はナチスの仲間だったわけですから、そもそも〈フランス現代思想〉に共感する立場にはありません。

もしドゥルーズ思想を批判理論として引き受ける気があるなら、日本のドゥルーズ学者は日本の戦時体制を批判しなくてはいけません。

デリダ学者の高橋哲哉はそういう視点を持っている印象がありますが、他の学者はちっともそんな気がないようです。

日本でドゥルーズ=ガタリの思想が非政治的にしか受容されなかった理由のひとつには、

自分自身の過去の傷に触れたくなかったことがあるのではないでしょうか。

そうして日本の〈フランス現代思想〉は批判理論としては機能することなく、

自身のあやまちまで遠い西洋近代のせいにして、ひたすらナルシシズムを高めていったわけです。

 

さて、本書の内容について触れていきますが、

少し読んだだけで、ドゥルーズ=ガタリの思想に触れたことのない人には難しすぎる不親切な本だとわかります。

ほとんどがドゥルーズ=ガタリの著作からの引用とそれを信奉した概説で構成されているからです。

佐藤と廣瀬はドゥルーズ=ガタリと適切な距離が取れていないため、

現代思想の権威の雄弁かつ過剰な代弁者となってしまい、読者が自分自身で考える機会を奪っています。

このような本はエディプス図式そのままの従順な教条主義者を生み出すだけではないでしょうか。

自分自身が服従化の欲望を生きている権威的マジョリティの代行者でしかないのに、

よくも批判している気分になれるものだと呆れます。

 

僕は前々から疑問なのですが、

どうしてドゥルーズ=ガタリのことを書く人は、

ドゥルーズ=ガタリと適切な距離を取って、その思想を検証しつつ解説することをしないで、

自らがドゥルーズ=ガタリの代弁者のようになってしまうのでしょうか。

彼らの思想は批判理論であるはずなのに、それを研究する日本人は一様に無批判にその思想を受け入れています。

他の思想家ではそこまで極端な同一化は起こりません。

僕が見た限りでは、ドゥルーズ=ガタリを理論的に批判した人は外国人ばかりです。

長らく日本の現代思想においてドゥルーズ=ガタリは批判の許されないファッショ的存在だったと言えるのではないかと思います。

 

本書が示す三つの革命は、

ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』『哲学とは何か』という三つの著作に対応しています。

つまりはこの三作がすべて革命的な著作だと言いたいようなのですが、

そのあまりに反省や検証のない評価のあり方はどうかしています。

ドゥルーズ=ガタリの言っていることは、今となってみれば、ひどくロマン主義的で、ひどく都合のいい論だと気づけるはずだからです。

そもそも佐藤と廣瀬は『哲学とは何か』を読解する第三部の冒頭でこう述べています。

 

レーニン的切断がその社会的、政治的効力の一切を失いつつあったこの歴史的局面において、ドゥルーズ=ガタリは、プロレタリアによる階級闘争も、マイノリティによる公理闘争も、実現不可能なものになった、と判断している。

 

佐藤と廣瀬は『アンチ・オイディプス』を「プロレタリアによる階級闘争」とし、

『千のプラトー』を「マイノリティによる公理闘争」として章題にもしているのですから、

これらがダメになったということは、少なくともその二作には今や思想的実効性がないと言っているわけです。

彼らは社会主義体制の崩壊を理由にしていますが、僕はドゥルーズ=ガタリの理論自体に欠陥があったと思っています。

さんざんその二作の内容を大上段から説明してきたくせに、

それが失敗だったことをこの一文だけで済ませてしまう態度は納得がいきません。

思想というものは、本当に価値があれば社会体制の変化ぐらいで断念されるものではありません。

つまり、ドゥルーズ=ガタリ自身は過去の思想に問題があったと認めているわけです。

それなのに、日本のドゥルーズ学者たちは彼らの思想の欠陥を検証することもせず、

相変わらず有効性のない思想の権威だけを維持しています。

 

彼らが考察をしないので、代わりに僕がドゥルーズ=ガタリ思想の欠陥をざっと書いておきましょう。

フーコーもそうなのですが、理性的主体というものが権力への服従を促すという認識に問題があります。

一部は正しいとしても一部では間違っています。

それなのに〈フランス現代思想〉は主体批判をすれば、権力の批判をしているという気分から抜けられません。

〈フランス現代思想〉以外ではこんな大前提は共有されていませんので、内輪的発想と考えてもいいと思います。

この間違った「大前提」はいいかげん反省されるべきものです。

『アンチ・オイディプス』はこの間違った「大前提」に依存しているため、

無意識の欲望に権力からの自由を見出すことになっています。

 

ドゥルーズ=ガタリにおいて主体は、欲望諸機械が欲望のフローを採取、消費することによって、その機械の傍らに、残余として生産される(残余–切断)。その意味において、主体は意識によって中心化された人称的主体ではなく、非人称的特異性から構成された「脱中心化された」主体、すなわち無意識の主体である。また、この主体は、多様なフローを採取、消費することによって刻々と変容を繰り返す非人称的主体である。

 

ドゥルーズ学者はこのような「お題目」に則って、「生成変化」とか言いながら変容を肯定してきました。

引用した佐藤と廣瀬の文章にある「フロー」とか「消費」とかいうワードでわかる通り、

ドゥルーズ=ガタリの「無意識の主体」とは、消費資本主義的な主体に回収されるものです。

ドゥルーズ=ガタリはこの「無意識な主体」によって、権力に服属するエディプス的主体を打ち破れると考えたのですが、

その「無意識の主体」は彼らが思い描いたような無秩序で多方向に分裂する主体にはならず、

知らず知らずのうちにマーケティングに乗せられている消費的な欲望主体として資本主義に服属するだけに終わったのです。

もう結果が出ているので検証もできるはずなのに、ドゥルーズ研究者たちはこのことに知らん顔をし続けています。

 

多方向な欲望は、40人を超えるアイドルグループや4人以上のヒロインがいるアニメなどに飼いならされ、

見かけは選択肢が増えて多様でも、大枠では同一のものに服属していることを欲望することに終わり、

アナーキーな欲望にまでは至らず、結局はナショナリズムを超えることはできませんでした。

この失敗はドゥルーズ=ガタリが「無意識」というものにロマン的な価値を見出しすぎていたことにあります。

シュールレアリスムも同様なのですが、フランス人は無意識を都合よく美化しすぎていると思います。

その結果「欲望機械」とか言って、理性的主体としての「人間」を解体すれば体制の打破ができるような幼稚な幻想を語るのです。

 

リゾーム的横断性による権力的ツリー構造の破壊をめざす『千のプラトー』に至っては、

インターネットを持ち出せばすむような内容です。

わざわざドゥルーズ=ガタリの引用に基づいて小難しい読解をする意味がわかりません。

その態度こそが権威を保存するやり方でしかないと感じます。

ちなみにスター扱いされているあるドゥルーズ研究者は、

ドゥルーズ=ガタリ的な非人称的主体であるAmazonレビュアーを「基本アホ」と罵倒し、

人称的でツリー構造に依拠するマスコミに掲載されたプロの書評を読めとツイートしたのですが、

このようにマリノリティへと生成変化するどころか、権威の場に平然と依存し続けて、

ドゥルーズ=ガタリの思想を全く尊重することもない人がドゥルーズ思想を語ってしまう国で、

西洋思想の何が学べるというのでしょうか。

 

佐藤と廣瀬は『哲学とは何か』では、「マジョリティであることの恥辱」を感じることの重要性を語っています。

ここを読んで僕が疑問に思ったのは、

恥辱を感じるのは、はたして無意識の主体なのか理性的な主体なのかということです。

僕の常識的実感では、それは理性的主体でなければならないはずなのですが、そのあたりを佐藤と廣瀬は触れずにすませてしまいます。

恥辱を感じることが重要ならば、人間不在の思想に入れあげたドゥルーズ研究者は何もわかっていないということになります。

ドゥルーズ=ガタリの思想が多方向に変容しているのか知りませんが、

こういう一貫性を考えない態度が、官僚が文書を平気で書き換える時代と親和的であることは間違いありません。

 

本書の最後にある日本の反体制運動についての記述は欺瞞まみれで憤りを感じました。

そうやって現実を自己都合で解釈するロマン主義的な態度は、彼らが反発している安倍政権と何ら変わりがありません。

たとえば、佐藤と廣瀬は「安倍やめろ」の政権反対運動について、

「賃労働に立脚しない新たな生へと踏み出す決心がついている、と人々は言っているのだ」

と解釈して、ガタリの『アンチ・オイディプス草稿』へと話を接続し、

「その運動の直中で、資本主義的主体性から自らを脱領土化し、

純粋内在性の集団的行為主体の構築過程の上へと自らを再領土化するのだ」

とか述べるのですが、どう考えても強引な牽強付会でしかありません。

「安倍やめろ」がどうして賃労働反対の表明になるのでしょう?

佐藤と廣瀬は大多数の日本人が天皇制を保存したい権威依存的な性格であるという事実から目を背けて、

身勝手な「解釈」によって現実を自分のロマン主義的な夢へと塗り替えてしまうのです。

 

本書で沖縄県民を執拗に「琉球民族」と書き記すことも違和感を感じずにはいられません。

そのうえ、沖縄の基地反対運動もなぜか賃労働反対へと変換されてしまいます。

 

基地廃絶を求める琉球労働者たちは、彼ら自身の階級利害に反する熱狂を生きているのであり(分裂者的リビドー備給)、この熱狂の絶対性に押されて彼らは、賃労働にはもはや立脚しない新たな生を創造する過程(生成変化)の上へと自らを再領土化するのである。

 

基地廃絶という具体的イシューを、賃労働に立脚しない生の創造へと身勝手な抽象化をしてしまう、

このような抽象化を逃げ道として〈フランス現代思想〉研究者たちは自己都合のポストトゥルースを垂れ流してきました。

他のジャンルの研究をしている方なら、日本の〈フランス現代思想〉研究者のレベルの低さが実感できるのではないでしょうか。

研究者はドゥルーズの権威を利用した「商売」を謹んで、学問的に思想内容を検証したり批判したりしてほしいものです。

 

 

 

『メイキング・オブ・勉強の哲学』 (文藝春秋) 千葉 雅也 著 【Amazon用ショートヴァージョン】

  • 2018.04.13 Friday
  • 10:14

『メイキング・オブ・勉強の哲学』 (文藝春秋)

 千葉 雅也 著 【Amazon用ショートヴァージョン】

 

   

   ナルシストの自己欺瞞を知るための教科書

 

 

勉強ばかりしてきた東大院卒で立命館大学准教授の千葉雅也が、

前著『勉強の哲学』の「セールス」が好評だったことに応えて、

「メイキング」と称してひたすら「自分語り」をしたのが本書です。

セールスが好調ならば、それに乗っかってもう一儲けしようというフットワークの軽さは、

さすがはファッションリーダー千葉キュンという姿勢で感心します。

 

本書の第一章は東大の駒場キャンパス(凱旋!)で行われた講演会です。

第二章は2017年7月の佐々木敦(お仲間)とのトークイベントです。

第三章は同8月の文春オンラインのインタビューの再構成です。

第四章が本書語り下ろしで、ぶっちゃけ15ページしかありません。

最後に資料編とか言って手書きノートが並んでいます。

この本のための仕事はほとんどありませんので、著者が勉強しないで作った本となっています。

 

SNSに依存した人々のナルシシズムは日に日に肥大化しています。

相手のナルシシズムを高める「いいね!」を連発することが正義となっていて、

ツイッターなどでは大したことないものを褒め合う「挨拶」が横行しています。

このようなナルシス的な欲望のニーズに合うナルシストが、「セールス」を期待されて出版社に担ぎ出されるのは必然です。

「セールス」が正義になるとハイカルチャーのサブカル化が進み、

世のニーズを反映したセールス主義という一元評価社会を無批判に肯定することになります。

その結果、金銭のやりとりだけが注目される「人間不在」の評価が横行します。

そんな「人間不在」の空虚さを、内輪の「肉声」によって埋めようとする行為がSNSなのです。

アニメファンが声優を偏愛する理由も「肉声」への欲望にあります。

(東浩紀は人間不在の人文学を提唱したため、オタクの萌え要素から声優を排除しました)

SNSによる「挨拶」を「母なる肉声」と取り違えることで、彼らは今日も自分の空虚さを埋めているのです。

(このようなSNS漬けの連中が、挨拶性を基盤とする俳句をツイッター的な創作として身近に感じるのは必然です。

それについてはまた別の場所で論じることにします)

 

ニューアカに始まる現代思想のファッション化は、

本来の〈フランス現代思想〉がアンチ資本主義であるため、反現代思想的な現象として真に理解する人から批判されるべきなのですが、

日本で「思想」を商売にしている人は、セールス主義に屈しているくせに思想家であるような顔をしています。

思想家が「商売人」になってしまうことには大きな欺瞞があるわけです。

つまり、ニューアカに始まる日本の〈フランス現代思想〉受容とは欺瞞の歴史にほかなりません。

僕がこれらを〈俗流フランス現代思想〉と揶揄するのはそのためです。

おぼっちゃま育ちの千葉キュンはそんな欺瞞をナルシシズムの充溢でごまかしています。

なんとなく読むと気づきませんが、本書をよく読めばそのことが確認できます。

 

本書の「はじめに」では、「『勉強の哲学』は大学一・二年生を主な読者として想定しています」と書いてあります。

出版当時にそんなことを言ったら読者を狭めてセールスが落ちるので、

後出しジャンケンのようなかたちですが、

この発言には、人生経験に乏しい若者以外には読むに耐えない内容であることをごまかす自己弁護の意図も感じられます。

こういう自己愛保存のための「言い訳」を自己の内面ですませることができず、

ツイッターや著書に書くことで既成事実にしようとするところにメンタルの「弱さ」を感じます。

自己の内面の保存に他者の承認を必要とする「弱さ」や「甘え」が、千葉キュンが若者世代に支持されている理由の一つだと僕は推測します。

こういう「弱さ」を持つ人は孤独と向き合う文学には適していません。

 

駒場での講演では気分が良さそうにしゃべってます。

千葉は大学の実学志向を「より従順な主体、言われた通りに動くような人間を作ろうという動きの一環に他なりません」と批判して、

 

僕のツイッターでのいささか大学教員らしからぬ振る舞いなどは、従順化を強いる世の中への抵抗でもあるのですが、こうした中で重要なのは、いかに自分自身で情報力や思考力を養い、身を守っていくかなのです。いまの社会の価値観のなかで成功したいという短絡的な姿勢ではなく、システムを深いレベルで変えようとするような生き方が必要です。そのためには何よりも勉強することなのです。

 

と結んでいます。

「大学教員らしからぬ振る舞い」に勉強が必要だとは驚きです。

「今の価値観の中で成功したいという短絡的な姿勢」とはセールス主義に乗りまくっている千葉キュン自身のことに感じるのですが、

このように批判から自然と自分自身を免除してしまう(自分をメタ化して免罪する)やり方が、

まさにナルシシズムによる欺瞞と似ているのです。

千葉キュンがツイッター名に自己の著作の宣伝をつけて、AKBよろしくヘビーローテーションさせていたことは多くの人が知っていることと思います。

それは自分の本意ではないという千葉キュンの言い訳を信じるにしても、

出版社が求めたら不本意な行為でも従う人が「従順な主体」でしかないことは明らかです。

 

千葉が「僕のツイッターでのいささか大学教員らしからぬ振る舞い」を「従順化を強いる世の中への抵抗」としていることにも欺瞞があります。

実は千葉のツイッターを大学教員としてふさわしくないとして、表立って批判したのは僕です。

僕が『勉強の哲学』レビューにコメントした文章を転載します。

 


佐野波布一である。

千葉の欺瞞について明確に示しておきたいので、追記を許していただきたい。

再度私が問題にするのは以下の千葉のツイートである。

 

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 @masayachiba

 

Amazonレビューって、まるで勉強していないのに、フランス思想や「ポストモダンっぽさ」が嫌いな人が発言権を得られるはけ口コーナーになっている。レビューを書けば、まるで著者に伍する気分になれるかのようだ。実に安易な承認欲求調達装置。人を甘やかす装置。

午後6:59 · 2017年5月26日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』発売中 @masayachiba

 

だいたいこの本はフランスの文脈だけが背景ではない。補論で分析哲学系の話も書いている。要は読んでないんじゃないのか。

午後7:09 · 2017年5月26日

 

大学という温室にいて外のワイルドな世界を知らないナルシストおぼっちゃまは、

Amazonレビューに対し「まるで勉強していない」と言うが、その根拠はまったく示されていない。

そんなに自分が勉強していると思うなら、私の論旨に堂々と反論したらいかがだろうか。

〈フランス現代思想〉が資本主義と共謀し、コード化して流通している現代において、

脱コード化の対象となるべきなのは〈フランス現代思想〉自身ではないのか。

この問いに対する千葉からの有効な回答はない。

(分析哲学を一部加えたくらいで脱コード化できないことは言うまでもない)

レビューの内容に反論をする態度もなく、感情的な「つぶやき」を弄するだけの人間に、

他人を「まるで勉強していない」などと侮辱する資格はない。

論理的反駁もできずに感情的に相手を貶めるのはプロの研究者のすることではない。

(中略)

ハッキリ言っておきたいのだが、

千葉は現行コードの権威に徹底的に従順である。

この本への最大の批判はここにある。

もう一度言う。

千葉は現行コードの権威に徹底的に従順である。

「まるで勉強していない」と書いてはいるが、本当はAmazonレビュアーなどには「権威がない」と言いたいだけなのだ。

社会的権威のない人間ごときが、「出版」をしている権威ある人物に肩を並べた気になって批判するな、

というのが千葉のツイートの真の意図なのである。い

(中略)

さらにおぼっちゃまの侮辱ツイートが増えたので一応載せておく。

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

読書好き、研究者の間では、アマゾンの低評価レビューは基本アホが書いているので全無視というのが常識なのだけど、世間的にはあれに意味があると思ってしまう人もいるっぽいから厄介だ。読書術の基本事項。アマゾンレビューに建設的な批判などめったにないので、無視する。プロの書評を読むこと。

午後9:30 · 2017年6月6日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

僕も本を買うときにアマゾンを参考にするときがあるが、低評価レビューはほとんど「読めてない」レビューなので苦笑いしながら読むしかない。参考にすべきは、詳細に書かれた高評価レビュー。これは知識の基本スキルだと思う。

午後9:33 · 2017年6月6日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

今の話は、自分の本のレビューについて言っている自己弁護だろ、と思われるかもしれないけど、そうではなく、プロの間では共有されている常識です。しかし、一般にはあまり明確に認識されてないかもしれない。

午後9:36 · 2017年6月6日

 

千葉雅也 『勉強の哲学』毎日新聞で書評 @masayachiba

 

本がそもそも読めてない人の意見は聞く必要がない。

午後9:37 · 2017年6月6日

 

羞恥心のない人間は哀れだ。

プロの間でAmazonレビューの全無視が常識なら、千葉も無視すればいいのである。

ひたすら固執してレビュアーへの侮辱を繰り返しておきながら、何が常識なのだろう?

低評価レビューはダメで参考になるのは高評価レビューというのが「プロの常識」とは、

低評価レビューはやめてくれ、というおぼっちゃまの本音が丸出しである。

自己弁護と受け取られることを恐れて、自己弁護ではないと否定するのがさらに恥ずかしい。

 

「プロ」「常識」を持ち出し、論理でなく権威で批判者に応じるあたり、

私が指摘した通りの権威に従順なおぼっちゃまであることを物語っている。

「本がそもそも読めてない人の意見は聞く必要がない」というのも自己弁護でしかない。

そう言えば自分が反論できないことをごまかすことができる。

 

プロの書評がアテになるというのも資本主義を権威と盲信した結果である。

(ちなみに私はプロの書評の裏側を知ることができる環境で育った者である)

プロの書評は出版社から悪く書かないように要求されることが少なくない。

つまり、プロの「商業的」レビューしか読むな、という主張は、

絶対に批判されない安全な書評しか認めないという、自己を甘やかすナルシシズム精神の現れでしかない。

 

千葉は自著の評価が低いのは、「アホ」が低評価をつけているだけと強弁する。

私はこんなことを言う著者を見たことがない。

(中略)

千葉は「勉強」という言葉で読者を同質性を持つ相手だけに限定し、それ以外を排除している。

こんな排他的な人物を准教授にしている立命館大学が教育機関として心配になる。

いずれこの大学にも教育者にふさわしい人物について問い質す機会があるだろう。


 

今気づきましたが、上記の千葉の侮辱ツイッターは駒場キャンパスでの講演の翌日だったのですね。

いかに自分ワッショイのイベントの直後で千葉のナルシス指数が上昇していたかが想像できます。

千葉の「大学教員らしからぬ振る舞い」が上記の千葉のツイッターであることは、

この講演会を文春オンラインで再構成したのが7月なので間違いないと思うのですが、

問題は、こんなAmazonレビュアーを貶す態度が「従順化を強いる世の中への抵抗」であるのかどうかということです。

実は自分の著書に対する批判を許さない姿勢こそが「従順化を強いる」態度なのではないでしょうか。

セールスを邪魔する存在である低評価レビューは「基本アホ」が書いている、という千葉の主張は、

セールス一元評価社会に逆らうな、という「従順化を強いる」内容だと僕は受け止めました。

(なにしろ内容にかかわらず「低評価」であることが問題とされているのですから)

千葉は自分が社会の価値観にひどく従順であり、大学教員の中では明らかに商業主義に前のめりになって、

「今の価値観の中で成功したいという短絡的な姿勢」が丸見えであるにもかかわらず、

自分では「従順化を強いる世の中への抵抗」をしていると思い込んでいるわけです。

こんな心理が成立するのは、前述したメタ化による自分自身を免罪するメカニズムがあってのことです。

 

より問題なのは、こういうおぼっちゃまの自己欺瞞を承認していく「世の中」の方です。

それこそ僕はそんな世の中に抵抗していきたいのですが、自分で語ったことがそのまま承認されるのであれば、

くだらない「自分語り」が世の中にあふれかえるのは必然ではないでしょうか。

ここにブログやツイッター文化の成れの果てがあると思います。

「自分語り」に禁欲的になれない人間には、アイロニーもユーモアもないということを早く勉強していただきたいものです。

 

17ページも傑作です。

 

今回の『勉強の哲学』も、そんな僕の欲望が形になったものです。この本は一見、自己啓発本めいた体裁をしていますが、これは一種の擬態です。実は、自己啓発本をハッキングするようなパロディを試している。(中略)今回僕は、自己啓発的なものの魅力にわざと感染してみて、僕なりに「メタ自己啓発的」な書き方を実験しています。

 

『勉強の哲学』は自己啓発本に見えるかもしれないけど、実は「わざと」であって千葉キュンはメタに立っているのだそうです。

一見そう見えるけど、実は「わざと」だというメタな立場にあるという表明は、

要するに「遊びでやっています」ということと同義です。

パロディというのはそういうことです。

みんな千葉キュンが自己啓発本を全力で書くようなレベルの人間ではないということはわかっていますから、

そんな言い訳じみたことは言わずに、どうか安心してほしいものです。

(なんか大学一、二年生向けに書いたという発言と矛盾している気もしますけどね)

ただ、自己啓発本の体裁(ハッキングでしたっけ?)をしたことでセールスを伸ばしたことは間違いありません。

セールスに関しては自己啓発の恩恵にあずかりながら、僕は自己啓発本をメタ的に研究したのだ、などとわざわざ言われると、

むしろ自分がセールス目的で自己啓発本のスタイルで書いたことを見破られることを恐れているのではないか、と疑ってしまいます。

 

千葉キュンがドゥルーズに興味を持ったのはインターネットのせいだとも述べているのですが、

この薄っぺらさがたまらないですね。

「リゾーム」が深夜のチャット体験にほかならないと感じた、と書いていますが、

ネットが広まった時点でドゥルーズのリゾーム思想は死んでいます。

ネットが一般化する前に言っていたらから価値があったのであって、ネットが一般化してからのリゾーム概念に思想的価値はありません。

これは正直、千葉キュンの思想的素養の低さを感じてしまうので、言わないでほしかった一言でした。

 

また「僕を変身させた東大の授業」のところも最高でした。

まあ、駒場キャンパスでの講演なので、東大ワッショイは理解できるのですが、

駒場での領域横断的な授業で僕は変わった、というその内容があいかわらず浅いのです。

 

高校の時点ですでにいろいろなことに興味を持っていたとはいえ、基本的にはガリ勉で、恋愛経験もなかった。ハイカルチャー主義で、オタクだった僕を、駒場の勉強は柔らかい人間に変身させてくれました。

 

サブカルチャーとハイカルチャーを自由につなげて、「これが当たり前」という態度で話す。いまではその行き来は当たり前かもしれませんが、九〇年代後半に学生だった僕にとって、それはまさに自己破壊的な経験でした。(中略)デリダやレヴィナスを学びながら同時にポピュラー文化を受け入れられるようになった。ガリ勉を脱して、ストリートの身体を経由し、深い勉強に入っていったのです。

 

さて、クイズです。

上の文章は千葉キュンの自己欺瞞だらけなのですが、どこが自己欺瞞なのでしょうか?

「自己ツッコミ」を奨励しているわりに、千葉キュン自身はちっとも自分にツッコミを入れられないので困りますが、

実際はツッコミどころが満載です。

まず、「自己破壊的な経験」の内容が浅すぎます。

ハイカルチャーが好きだった僕が、サブカルチャーを受け入れたら破壊的な経験ですか?

サブカルチャーを受け入れたら、「ストリートの身体を経由し」たことになるんですか?

だって大学で学んだだけでしょう?

結局ガリ勉体質はそのままで、何も変わっていないと思うのですが。

この程度の経験を「自己破壊」とか言われると、

「勉強とは自己破壊である」という彼の主張がただのカッコつけで、中身がないことがわかってしまいます。

そもそも千葉はこう述べています。

「ハイカルチャー主義で、オタクだった僕」

そう、「オタクだった」のです。

もともとオタクだった人が対象をハイカルチャーからサブカルチャーに広げただけで、自己破壊的になるはずがありません。

このような自己欺瞞を平気で講演会で話す人間を、僕は残念ながら信用する気にはなりません。

ハイカルチャーをオタク的に享受しているだけでは、ハイカルチャーをハイカルチャーとして理解したことになりません。

ちなみに僕も90年代後半に駒場でない大学にいましたが、そこでもサブカルを授業で扱っていました。

 

あと、千葉が自身を「文学的」だとアピールしていることに関しては、

勘違いもはなはだしいという印象です。

千葉は「自分自身も文学作品的なものを作ろうと思っているわけなので」などと述べていますが、

博論と『勉強の哲学』などの著書があるくらいで、安直にクリエイターぶる自己認識はどこからくるのでしょう?

まずは千葉の文学観を確認しましょう。

 

文学というのは、言葉を自由に使うことで、常識の枠内で考えているような意味的つながりとか、物語的つながりを壊していくことだと僕は思います。

 

千葉は「文学というのは」とか語っていますが、千葉の語る定義だとノーベル文学賞作家の作品の多くも文学でなくなってしまいます。

彼の定義は「異化作用」という現代詩の一部の効果に文学を矮小化するもので、

彼の知識がいかにオタク的であるかを示しています。

それ以上に、自分の常識のなさを「文学」と言えばごまかせると考えているようにも思えます。

常識がないのは僕が大学教員ではなくアーチストだからだ! という自己欺瞞で、

社会の拘束から逃れようとするスキゾ的逃走の手段なのでしょう。

千葉を分析すると、いかに日本のドゥルーズ思想が社会的葛藤から逃れてナルシシズムを保存するだけの思想として終わったかがよく理解できると思います。

 

参考までに引用しますが、2017年8月の幻冬社plusで千葉は國分功一郎との対談で小説についてこんなことを語っています。

 

千葉 小説、苦手なんです。というか、人間と人間の間にトラブルが起きることによって、行為が連鎖していくというのがアホらしくてしょうがない。だって、人と人の間にトラブルが起きるって、バカだってことでしょ。バカだからトラブルが起きるんであって、もしすべての人の魂のステージが上がれば、トラブルは起きないんだから、物語なんて必要ないわけです。つまり、魂のステージが低いという前提で書いてるから、すべての小説は愚かなんですよ。だから、僕は小説を読む必要がないと思ってるの。

國分 ここでいきなりものすごいラディカルなテーゼが出たね(笑)。

千葉 でも、詩には人間がいないから。物質だけだから。それはすばらしい。

 

もちろん文学的な小説は「バカだから」起きるトラブルなど書くわけがありませんし、

そんなものに人々が感動するのは「バカだから」ではありません。

思弁的実在論の影響を受けているため、千葉はオブジェクトとか物質とか言って得意気なのですが、

人間存在を侮っている人が「文学というものは」などと大文字で語ってしまう、

それをおこがましいとも恥ずかしいとも思わないのは、東大で受けた教育にも問題があるように感じます。

(詩には人間がいない、という発言から千葉に詩の素養がないこともハッキリします)

千葉雅也の登場以来、僕は東大の教育レベルにも正直疑問を抱いています。

現在、文系学部の大学に残る人間はあまり優秀でない人が多いというのが僕の実感ですが、

東大の大学院は入りやすいこともあり、やはり社会に出たがらない人材を抱えすぎていると感じます。

自分自身の魂のステージがどの程度かもわからない人に、物語は魂のステージが低いなどと言わせてはいけないと思います。

 

もう一つ傑作なところを引用しましょう。

 

僕が研究者を目指したのには、家庭環境も影響しています。父親は、印刷会社から独立して広告代理店をやっている自営業者だったので、そもそもサラリーマンになるという人生のビジョンがほとんどなかった。アーティストになるか社長になるかしかないと思っていました。どちらかと言えば、アーティストからの置き換えとして哲学の研究者になった、そんな感じだと思います。

 

もうおわかりでしょうが、千葉は東大の先輩や先生の後押しでスター扱いされているにもかかわらず、

驚くなかれ、アーティストであるかのような気分でいるのです。

(准教授ってサラリーを受け取っているはずですよね?)

自己欺瞞もここまでくるとつける薬は存在しません。

周囲も千葉の鉄壁のナルシシズムに気を遣って、誰も彼に本当のことを言うという徒労を避けているのだと想像がつきます。

誰にも本当のことを言ってもらえない、ということは、真の友達がいないということでもあります。

まあ、彼と同等の魂のステージにある人は少ないでしょうけどね。

 

最後に、書き下ろしの第四章に決定的な欺瞞があるので指摘します。

千葉は現代において接続過剰なツールとそこから逃れるツールを区別して使いこなすのがいい、と述べます。

 

接続過剰なデジタルツールを使うのをやめて孤独になれ、というのは無理です。接続過剰状態がもたらすメリットはあまりに大きい。

 

ツイッター中毒状態の千葉からすれば、接続過剰を弁護するのもある意味当然ではあるのですが、

千葉の博士論文『動きすぎてはいけない』は接続過剰を批判して話題になったはずです。

その一貫性のなさは学者としては致命的と言えますし、

接続過剰批判をしないのなら、二度と「切断」などと語らないでほしいものです。

おまけにそこから逃れる「別のツール」として千葉が挙げているのはEvernoteだったりするので、

こっちもデジタルツールじゃん! というツッコミが抑えられません。

接続過剰批判をした人間が接続過剰人間だったというオチはまったく笑えません。

 

さて、このように千葉の呆れるような欺瞞の実態を書き連ねても、

僕のような権威のない無名人が書いたのでは、彼のナルシシズムには決定的な傷にはならないでしょう。

千葉は勉強という「自己破壊」をするどころか、

自分のうすっぺらい実像と向き合うことを避けるために「アーティスティックな研究活動」をしています。

そんな動機の人間が書くものに共感するのは、同種の人間だけではないでしょうか。

千葉が自分自身と向き合うことを避け続けるかぎり、内輪の世界に居続けるしかありません。

 

ちなみに僕は千葉が俳句をやるより前から俳句のレビューを書いていますし、

鏡リュウジのレビューにも書いた通り、タロット占いもしています。

僕の関心領域の外に全然出ていけない(というより後追いという結果になっている)のに、

「基本アホ」などと僕を侮辱できる身なのか少しは考えてほしいものです。

勉強が自己破壊だと本気で思うなら、Amazonに抗議したりツイッターで感情的な態度をとるのではなく、

大学の外にも自分より賢い人間が大勢いることをまずは「勉強」するべきではないでしょうか。

 

 

 

『HHhH(プラハ、1942年)』 (東京創元社) ローラン・ビネ 著

  • 2018.04.11 Wednesday
  • 22:31

『HHhH(プラハ、1942年)』  (東京創元社)

 ローラン・ビネ 著/高橋 啓 訳

 

   ⭐⭐

   完読まで4年かかってしまった

 

 

僕が本書を読み始めたのは2014年なので、今日読み終えるまで4年の時間がかかっています。

大作でもない作品にこれだけ時間を要したのは、シンプルにつまらなかったからとも言えますが、

2014年当時はけっこう評判の作品で、帯にも賛辞が並んでいます。

 

本書は変な書名をしています。

「HHhH」とは「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる」を意味するドイツ語の頭文字です。

ラインハルト・ハイドリヒはナチスの高官で、チェコの総督代理を務めた人物です。

ユダヤ人問題の最終解決を発案したのも彼だと言われています。

ハイドリヒはロンドンに亡命したチェコ政府が送り込んだ暗殺部隊によって殺されました。

本書はこの暗殺事件をクライマックスとした歴史小説なのですが、

著者自身が本書を書くプロセスをまじえて小説化しているところが、評価を受けた要因なのはまちがいありません。

 

M・バルガス・リョサが「傑作小説というよりは、偉大な書物と呼びたい」と賞賛しようが、

僕はこの作品が偉大だとも傑作とも思いませんでした。

その理由は、フランス人らしいポストモダン的手法で知的な演出をしているため、

知的な興味以外を引き起こさない傍観的小説でしかないからです。

結果、反ナチズムという「正義」によって助けられた小説というのが僕の印象で、

別の題材で同じことをやっても、これほどの評価は得られなかったのではないかと感じています。

(フランス人はもちろん、ユダヤ人やチェコ人の喝采を得られるよう計算されていた気がします)

 

まず、大きな問題はこの小説が断片の集まりで構成されていることです。

通し番号で257の章段で構成されているのですが、そこに作者の創作談話と歴史記述がごちゃまぜになっています。

いわゆる歴史小説は時系列に物語が進んでいくため、読者が自身を歴史世界へと「投企」することになるのですが、

それが断片化して書き手の自意識に吸収されるため、歴史のスリリングさは体験できません。

この自意識を書き手が歴史と誠実に向き合う葛藤だと感じられれば、賛辞も寄せられるでしょうが、

残念ながら僕にはそのような「誠実さ」はそれほど感じませんでした。

むしろ、前述したようにポストモダン的な手法を用いたために、非歴史性が表面化した内容になっています。

 

具体的に言えば、ハイドリヒという人物は「金髪の野獣」と恐れられた人物のはずなのですが、

書き手の興味は、生きた人間ハイドリヒではなく、断片化したハイドリヒというキャラへのオタク的関心であるため、

読者はハイドリヒや彼の引き起こした歴史的事実の恐ろしさをあまり感じることがありません。

つまり、著者であるビネは恐ろしい歴史と安全な距離を確保したまま、

傍観者の立場を明確にした人間不在の小説を書いているようにも見えてくるのです。

この小説に登場する歴史人物はみんな自分とは無関係な遠い人に思えます。

だから、彼らが死んでも特に胸が疼いたりはしませんでした。

 

本書のような傍観的な立ち位置だと、クライマックスの暗殺場面は臨場感を失ってしまいます。

どうするのかと思ったら、その場面になったら断片化を捨てて普通に歴史小説的な記述を始めるのです。

そんな「おいしいとこだけ歴史小説」みたいなつまみ食いで騙されるかよ、と思いました。

暗殺者たちの最期も語り手が読者を置いてきぼりにして自ら感傷的な語りを始めるので、

こちらはシラけてしまいます。

 

利口ぶった「歴史小説を書くとはどういうことか」などという自己言及的な問題は、

本来、歴史小説そのものの中に居場所を持つべきではありません。

すぐれた歴史小説は作者はもちろん読者をも当事者にしてしまうものです。

自己言及がメインになって歴史のただ中に踏み込めない小説など、力量のない筆者の陳腐な小手先の芸でしかないと思うのですが、

この程度のものが評価されてしまうのは、逆説的ですがナチスの悪の力あってのことだと感じます。

 

断片的であるために、細切れに読み進めて4年かけて読むことができたわけですが、

他人の知的な興味にいたずらに付き合わされたような読後感でした。

歴史を題材とした知的な小説であることは認めても構いませんが、

歴史小説としては駄作と言えると思います。

 

 

 

『禅 沈黙と饒舌の仏教史』 (講談社選書メチエ) 沖本 克己 著

  • 2018.04.09 Monday
  • 10:21

『禅 沈黙と饒舌の仏教史』 (講談社選書メチエ)

  沖本 克己 著

 

   ⭐⭐⭐⭐⭐

   言語で語ることのできない禅というものを語る

 

 

禅には「不立文字」という言葉がありますが、それは禅には文字が必要ないということを意味します。

学問的な知識、理論ばかりに傾くことを戒めた言葉で、実践の重要性を訴えたものです。

禅宗の開祖と言われる中国の馬祖道一も、言葉は真理への「道しるべ」だと語っています。

言葉が「道しるべ」とされるのは、それはただの標識であって、大事なのは悟りへと実際に到達する実践だという意味です。

このように、自分自身の内的な体得を到達点とし、言語化や理論化を避けるのが禅のあり方です。

そういう非言語的な世界を、言語によって語るという矛盾を無視できない沖本は、

禅とはこういうものである、というようなわかりやすい定義をしてくれません。

葛藤したり、逸れていったり、個人のつぶやきになったり、と非常に収まりの悪い本になっています。

ただ最後まで読むと、この収まりの悪い書き方こそが沖本の誠実さの現れであることがわかってきます。

 

本書は禅の本であるはずなのに半分以上は仏教史を追っています。

ブッダの教えから教団の成立、仏教の学問化(アビダルマ)、大乗仏教の登場という仏教変遷の歴史を解説した上で、

大乗の名だたる学者として、龍樹、弥勒、無著、世親、鳩摩羅什、玄奘などを取り上げています。

あまりに禅が出てこないため、途中でこれは何の本だっけ? という気持ちになってしまうかもしれません。

 

「シナ禅宗とはブッダ仏教の時空を隔てた再現であり、原点回帰運動の一つ」だと沖本は言います。

つまり禅は、ブッダの教えを学問化したことで失われた原点を取り戻すことを目的としているのです。

そこで禅が否定している仏教の学問化の歴史を理解する必要が出てくるのです。

 

沖本は仏教史をフィクショナルなものとして相対化するのですが、それがしっかりした仏教史の理解に裏打ちされていることが重要です。

本書の半分以上を占める仏教史の解説は、簡明でおもしろいのです。

たとえば沖本はブッダの教えを「縁起」に還元し、それまでのインド哲学であるウパニシャッドの実在論を否定したとします。

「縁起」の意味については次のように説明しています。

 

この「縁起」とは、すべては相対的な関係によって、今現成しており、そして絶えず変化し続ける。それ故、どこにも、如何なる固有の実体も存しない、ということである。

 

沖本はブッダの教えの根幹を縁起説に見ています。

すべて存在するものは一時的な現象であって、相対的な関係によって成り立っているため、

永続する絶対的な存在はなく、すべては変化していくという考えです。

ブッダ本人は何も書き遺さなかったので、教えは教団の弟子たちが口伝し、それがのちに経典となったのですが、

やがて仏法を自らのものとしないで研究の対象とする立場が生まれます。

それが学問としての仏教、アビダルマ仏教です。

 

自らと法が一体となるように努力せよ、というのがブッダの遺言であった。仏教はあくまで自らの主体に関わる問題であり、それを解決するための具体的方法であった。ところがアビダルマとは教法を客体化して自らの外に置いて学習と考察の対象とすることである。つまりアビダルマとは主体と客体を分離することに他ならない。

 

こうして仏教は精密な学問体系となりましたが、その弊害として次々に異説を生むことになったと沖本は述べます。

『臨済録』にその言葉が残る臨済義玄は、「青二才の愚かな坊主たち」が「まやかしの邪説」を信じているとオカンムリです。

修行や実践を忘れて、もっともらしい真理を語るだけになった仏教への批判が禅の根底にあるのです。

 

学問エリートによるアビダルマに反発した一派が大乗仏教を生み出していくのですが、

本書は大乗の思想についても三章に渡ってかなり念入りに扱っています。

ここにも興味深い沖本の指摘がいくつも見つけられます。

大乗が架空仏と同等となるほどに菩薩の地位を高めたわりに、

菩薩が「悟っていない存在」であることに変わりがないことに注目し、

大乗では信者に悟りはありえず、ただ架空のブッダを信奉するだけに終わる、と辛辣です。

 

仏教の「空」とはゼロであり、実体が無いことを表すという説明もかなり簡明です。

否定する対象を持たない「空」は「有無」とは別の次元にあるのです。

『華厳経』に関してもおもしろいことを言っています。

「『華厳経』とは多弁を弄しつつ多弁を否定するという奇妙な言語空間なのだ、というより他は無い」というまとめには思わずニヤリとします。

そして沖本は『華厳経』はどこまでも理論の世界で、具体的な実践を全く語らないと批判します。

 

「空」と「唯識」の思想、密教などをたどると、ようやく禅の登場です。

禅は言葉による伝達を遮断して直接的な心の了解をめざすため、

経典の言葉ではなく、師と弟子が心と心で伝達することを重視します。

心の伝達が仏教の原点回帰へと至るメカニズムを沖本はこう説明します。

 

この仏心の伝達の強調は、単にブッダから現在に至るだけではなく、却って自らの立脚点を確認する証拠として、過去にさかのぼってブッダに及ぶという意味をもつのである。

 

このようにブッダの教えから禅宗に至るまでの仏教の歴史的外観が、丁寧にまとめられています。

体系的でないはずの仏教を体系的に理解する試みは矛盾にも思えますが、

その葛藤を引き受けつつ理解するほかありません。

 

後半は禅の実践者たちの紹介になっています。

禅が言葉に頼らないことを考えれば当然ですが、

沖本は「禅宗には歴史に名をとどめぬままその波の中に消え去っていった有為の人物のはるかに多いこと」を指摘しています。

禅僧は悟りを得ても多くを語らないため、無名の人物が多いのです。

このような語らぬ禅僧を沖本は「沈黙の人」としています。

禅宗は沈黙の重みの上に成立しているのです。

 

それに対し、当人が語ったり当人の語録を弟子が残したりして「饒舌の人」となった禅僧もいます。

その功罪併せ持つ存在のなかで沖本が取り上げるのは、道元、白隠慧鶴、鈴木大拙の3人です。

本書の副題が「沈黙と饒舌の仏教史」となっているのは、

言語を用いなければ後世に残らないが、言語を用いると本質から外れるという禅の抱える難点のためだと思います。

 

道元は『正法眼蔵』という難解な書で知られています。

沖本は「通常の概念や論理構造を超脱し破壊して直接感性に訴える」ところが、

『正法眼蔵』を読む鍵ではないか、と実感を語っています。

道元は臨済宗や臨済義玄を強く批判しました。

それは臨済宗という小さな立場に仏教を限定することを危惧したからなのですが、

結局は道元も曹洞宗という立場で同じことをしてしまった、と沖本は述べています。

 

白隠慧鶴は江戸時代に日本独自の臨済禅という全く新しい禅宗を創始した人物です。

白隠には膨大な著述がありますが、晩年には大衆向けの平易な読み物や絵本まで書いています。

また、白隠は公案を分類、段階化して禅僧の教育をシステム化したと言われています。

(沖本は弟子の東嶺の仕業ではないかと考えています)

沖本からみると白隠という人物は、

「私の結論を言えば、白隠は禅傑であり同時に俗物である」と述べているように、

禅の修行を厳しく進める面と、俗な手段で大衆を導く面との二面性を備えた稀有な存在であるようです。

 

沖本が「胡散臭い」と最も反発しているのが鈴木大拙とその影響下にあった西田幾多郎です。

禅は個人的体験に根ざすのに、初学者に教えの道を示せるかのように振る舞うところや、

師と弟子のその場において成立する状況的な言葉を、禅とは不合理で非論理的なのだ、と一般化して平気でいるところや、

そもそも読解力が足りていないというところが大拙の問題点として糾弾されています。

 

禅匠は理屈づけのためなら儒教や道教、神道や西洋哲学の信徒となってもいい、という大拙の言葉を、

沖本は「何でもござれ」の野合の勧めとして解釈し、

大拙の論が暗黙理に禅と国家主義を結びつけて、普遍妥当性を捨ててしまうことを解き明かします。

こうして大拙は「宗教は普遍性を振り捨てて国家に奉仕することを第一義とする、と断言する」のです。

これを沖本は絶対矛盾的自己同一だと憤慨して述べています。

 

この延長に西田幾多郎『日本文化の問題』が置かれます。

西田論は数多くあるのですが、その中に『日本文化の問題』を取り上げたものはなかなか見当たらないのですが、

その中で「矛盾的自己同一としての皇室中心」と書いたことで、西田の時流への迎合が明らかになる著作です。

僕が気になるのは『日本文化の問題』のこの一文です。

 

私は日本文化の特色と言ふのは、主体から環境へと言ふ方向に於て、何処までも自分自身を否定して物となる、物となつて見、物となつて行ふと言ふにあるのではないかと思ふ。

 

この一文には主体を否定する態度と人間である自己の否定によって「物」となる態度が現れているのですが、

主体を否定する反人間主義や人間不在の「物」へと至ろうとするあり方が、

〈フランス現代思想〉や思弁的実在論と重なるのは、何も僕の牽強付会ではありません。

檜垣達也や清水高志はすでに〈フランス現代思想〉と西田を結びつけています。

歴史と向き合わない彼らは、西田思想に含まれる戦時体制への迎合については取り上げもしません。

沖本がこの問題を正面から扱ったことは、西田と同じように時代に迎合するだけの〈フランス現代思想〉学者たちと比べて、

彼の学問的誠実さと知性を示すものだと僕は受け取りました。

真の「近代」が実現しなかったため、「近代」を西洋的な他人事ととらえた日本人が、

それを超えるものとしての東洋に突然居直りをしたのがポストモダンだったのではないか、

と沖本は述べたあとで、

「西田と大拙の時流迎合的な取り組み方も、この合理主義を唾棄する「ポストモダン」論議と状況を一にするものであった」

と「近代の超克」とポストモダン状況との類似へと思い至ったのはさすがと言えるでしょう。

 

大拙の禅文化論の問題点は、禅体験に寄りかかって禅の本質を見誤ったことに加え、

迎合的ファシズムとでもいうべき戦時体制へのへつらいにある、と沖本は結論づけます。

このあたりは歴史に詳しくないと沖本が何を言っているのか、理解するのが難しいところかもしれません。

それでも禅の汚点とも言うべき、扱いにくく難しい問題を避けずに向き合う態度は立派だと思いました。

仏教学者は今でもわりと戦時体制への迎合の歴史を語ることが多いように思います。

文化の中に過去のあやまちを刻み込んでいることが感じられますが、

それと同時に、西洋哲学の学者が西田などを扱う態度の方には蹉跌の影が感じられません。

つまり、西洋哲学の学者は自国の過去のあやまちを「他人事」と考えがちであるため、

かえって過去の愚を繰り返す危険があるということです。

西田幾多郎はポストモダンだと安易に持ち上げている人にこそ読んでもらいたい本だと思いました。

 

 

 

『鳥! 驚異の知能 道具をつくり、心を読み、確率を理解する』 (ブルーバックス) ジェニファー・アッカーマン 著

  • 2018.04.07 Saturday
  • 12:23

『鳥! 驚異の知能 道具をつくり、心を読み、確率を理解する』  (ブルーバックス)

 ジェニファー・アッカーマン 著/鍛原 多惠子 訳

   ⭐⭐⭐

   鳥はどのくらい賢いのか

 

 

その小さな脳のせいで愚かな生き物と考えられていた鳥が、実は人と似通った知性を持つ存在であることを、

サイエンスライターであるアッカーマンが様々な研究をふまえて迫っていきます。

 

アッカーマンはさまざまな場所へ旅をして、いろいろな鳥を紹介してくれます。

道具を用いたり、難解なパズルを解いたりすることができるカレドニアガラスは世界一賢い鳥と言われています。

その生息地であるニューカレドニアに渡ったと思うと、カリブ海のバルバドス島へと行き、

鳥のIQスケールを作ったルイ・ルフェーブルを取材しています。

 

鳥の知能を数値化していくことや、人間と共通するところを鳥に見出すことに懐疑的な人もいるでしょう。

アッカーマンは人間と鳥を重ねる動物学者が、擬人化と批判されることに対して、

たとえ鳥と人間の脳が根本的に異なっていても、心に共通性がないと考えて障壁を築くことはよくないと考えています。

 

ルフェーブルのIQスケールはイノベーションをすることが賢さの基準になっています。

鳥の認知を測定する研究はまだ日が浅く、いろいろな実験がなされていますが、

ルフェーブルは実験室ではなく野生環境で「観察」することが、認知能力の測定に役立つと考えるようになりました。

こうして得られたIQスケールで最も賢いのはやはりカラス科で、ついでオウム、インコ類、

それからムクドリモドキ、タカなどの猛禽類、キツツキ、カワセミ、カモメなどなど。

素朴な実感でも想像できるような意外性のない結果のような気もしますが。

 

鳥は祖先である恐竜から、大きな脳を維持しつつ体を小型化するように進化しました。

ヒナの状態のまま成体となる「幼形進化」によるものと考えられています。

それでも鳥の脳はそれほど大きいとは言えません。

大きくない脳でも霊長類に比肩しうる秘密は、大脳皮質のニューロンの数にあるようなのです。

鳥の脳は人間の脳を基準とした考えでは理解できない、別の進化をたどってきたのです。

アイリーン・ペパーバーグが哺乳類の脳をウインドウズに、鳥類の脳をアップルにたとえたという話は、

同じ結果を出すのに処理方法は一つでなくてもいい、ということがわかりやすく示されています。

 

アッカーマンは鳥の道具使用について述べた後、                                                        

鳥の社会性について考察を進めます。

鳥類の約80%が単婚カップルなので、同じパートナーと長く暮らすことになります。

当然のことながら、パートナーの心をつかむ協調性が重要になってきます。

セキセイインコは相手の鳴き声をどれだけ正確にマネするかで、求愛の本気度をはかっています。

興味深かったのは、鳥も浮気をするという事実です。

それもオスもメスも婚外交渉を持つことがあるようなのです。

 

鳥のさえずりについても書かれています。

鳥の鳴き声にも地域差、つまり方言があるというのは驚きでした。

ドイツ南部とアフガニスタンのシジュウカラでは、あまりに鳴き声が違うので、互いに内容の理解ができないようです。

また、さえずりは繁殖期はパートナーへのアプローチを目的としていますが、

それ以外の時期は鳴くことで快楽物質を得るという自分自身の利益のためだと述べられています。

 

ハトの帰巣本能に代表される鳥のナビゲーションについても取り上げています。

ハトは数を理解するだけでなく、統計問題を人間より正しく解答できる賢い鳥なのですが、

たとえ見知らぬ土地からでも自分の鳩舎に戻ってこられるのは、

その知能のためではなく、おそらく地球の磁場を利用しているからです。

鳥類は地磁気の傾き(伏角)のわずかな変化を感じ取って、現在の緯度を知るようなのですが、

それを感じ取るセンサーが体内のどこにあるかという話もおもしろかったです。

 

読むのに専門知識のたぐいが必要なほど深い内容ではありませんので、

気楽に読み進められる本ですが、やたらとボリュームがあります。

自分が気になるトピックから読み始めるのも悪くないと思います。

 

 

                                                                                         

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